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第106話 星ひとつ

今回は、咲也が少しだけ立ち止まるお話です。

東京の夜空は、街の明かりに霞んでいる。


それでも。


明るい星が、ぽつりぽつりと見えた。


屋上庭園。


足元に埋め込まれた照明が、石畳を淡く照らしている。


花壇の薔薇も、控えめな光の中に浮かび上がっていた。


赤も、白も。


夜の中では、落ち着いた色に沈んで見える。


Bar Havenを出たあと。


すぐに家へ帰る気にはなれなかった。


気がつけば、ここに足を運んでいた。


「……アメリカ、か」


小さく呟く。


ルシアンの声が、まだ耳に残っている。


プロの世界には戻らない。


けれど、野球とは今の自分にできる形で関わっていく。


そう決めて始めたのが、青空野球教室だった。


子どもたちとボールを投げる。


野球の楽しさを伝える。


それが、今の自分にできることだと思っていた。


風が吹く。


薔薇の葉が、小さく揺れた。


十三年。


アメリカにいた。


長いようで。


振り返れば、あっという間だったような気もする。


勝った日。


負けた日。


仲間と笑った夜。


悔しくて眠れなかった夜もあった。


肩を壊し、不安を抱えながら、それでも戻ろうとした。


けれど最後には、あれほど好きだった野球さえ苦しくなった。


咲也は小さく息を吐いた。


けれど。


今は違う。


青空野球教室で久しぶりに投げた一球。


ボールがミットへ収まった、あの音。


ただ、楽しかった。


素直にそう思えた。


それが、野球ともう一度向き合うきっかけになった。


その後、教室に現れたレオンたちとも、投げて、打って。


くだらないことで笑った。


あの時間も、心地よかった。


かつての仲間たちと、また一緒に何かをする。


そう考えれば、心が動かないわけではない。


でも。


だからといって、アメリカへ戻りたいのか。


まだ、そこまでは分からなかった。


カチャリ。


背後で、小さく金属の触れ合う音がした。


咲也が振り返る。


施設管理課の田中が、作業着姿で立っていた。


片手には鍵の束。


「……田中さん」


「こんばんは」


田中は軽く頭を下げる。


咲也もぺこりと頭を下げた。


「もうすぐ十時ですよ」


「あ。すみません」


「いえ」


田中は笑った。


「まだ少し時間はありますけどね。そろそろ閉めようと思って来たところです」


「そうですか」


咲也はもう一度、薔薇へ目を向けた。


田中が隣に並ぶ。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


風が通り抜ける。


やがて、田中が口を開いた。


「どうしたんですか。そんな顔して」


「……そんな顔、ですか?」


隣を見ると、田中が苦笑していた。


「かなり考え込んでる顔ですね」


咲也も少し笑う。


「昔を思い出しますね」


「昔……七年前ですか」


「ええ」


田中は穏やかに笑った。


「あの時も、そんな顔をしていました」


「……そうでしたか」


「もっとひどかったですけどね」


言われて、咲也は苦笑した。


あの頃は、野球を続けることが苦しかった。


けれど、誰にも言えなかった。


知られることさえ怖くて、隠していた。


そんな咲也の苦しみに気づいたのが、当時ルシアンの秘書をしていた田中だった。


「あの時」


咲也が静かに言う。


「田中さんが声をかけてくれなかったら、俺、たぶん潰れていたと思います」


あのまま、ずるずると続けていたら。


田中は首を振った。


「決めたのは、高宮さんですよ」


それから、薔薇へ目を向ける。


「でも、今の高宮さんは、あの頃とは違いますからね」


「違いますか?」


「ええ」


田中は穏やかに言った。


「野球の話をしても、苦しい顔をしていない」


咲也は目を瞬いた。


そう言われて初めて、自分の口元が僅かに緩んでいることに気づく。


「……そうですね」


小さく答えた。


今は、野球が楽しい。


それだけは、はっきりしていた。


田中が鍵の束を持ち直す。


「そろそろ閉めますね」


「はい」


咲也が出口へ向かおうとする。


その後ろで、カチ、と小さな音がした。


花壇を照らしていた明かりが、一つ落ちる。


続いて、もう一つ。


庭園が少しずつ暗くなり、足元の通路灯だけが残った。


咲也は何気なく空を見上げた。


先ほどよりも少しだけ暗くなった夜空に、気づかなかった星が一つ見えた。


咲也はしばらく、それを見上げていた。

タイトルは『星ひとつ』。

答えはまだ出ていませんが、七年前とは少し違う夜です。

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