第105話 口説く
今回はルシアンが咲也を口説きに来ます。
Bar Haven。
カウンターの端で、咲也はグラスを傾けていた。
扉が開く。
何気なく視線を向けて。
咲也は僅かに眉を寄せた。
「やあ、サクヤヒメ」
「……ミスターヴェルナー」
ルシアンだった。
その少し後ろを、黒崎がついてくる。
「こんばんは、高宮さん」
「黒崎」
完全にお目付役らしい。
ルシアンは楽しそうにカウンターへ近づいた。
その視線が、カウンターの向こうへ移る。
「やあ、ニンジャボーイ」
「その呼び方はやめてください」
湊は苦笑しながら、穏やかな口調で返す。
「何になさいますか?」
「君のおすすめで」
「承知しました」
湊が酒棚へ向き直る。
黒崎も慣れた様子で注文を済ませた。
ルシアンは頬杖をつき、咲也を見る。
「ところで、サクヤヒメ」
「なんでしょう」
軽く息をつき答える。
もう呼び方を直してもらうことは諦めた。
「今日は君を口説きに来たんだ」
「は?」
思わず素の声が出た。
すぐに黒崎が割って入る。
「ちょっと叔父さん、叔父さん」
「なんだい?」
「仕事で、でしょ」
「ああ、もちろん」
ルシアンはにっこり笑う。
「仕事で君を口説きに来たんだ」
咲也は大きく息をついた。
「紛らわしい言い方をしないでください」
「でも、口説くことに変わりはないだろう?」
キョトンとしながら言うルシアンに、黒崎が笑った。
「叔父さん、じゃなくてオーナー、仕事の話をお願いしますよ」
「分かってるよ」
そこで。
ルシアンの雰囲気が少し変わった。
「サクヤ」
咲也が顔を上げる。
その目はいつものように笑っていない。
仕事の時の、顔だ。
咲也は少しだけ身構えた。
「単刀直入に言うよ」
「アメリカに来ないか」
カウンターの向こうで。
氷を扱っていた湊の手が、一瞬だけ止まった。
「僕の元で働いてほしい」
ルシアンの青い目が、真っ直ぐ咲也を見る。
冗談ではなさそうだった。
咲也はグラスを置く。
ルシアンの方に向き直り、その目を見て頷いた。
「お断りします」
「え!ノーなの!?」
ルシアンがややオーバーに驚いて言う。
「しかも頷いてくれたから一瞬OKだと思ったのに!
なに、それ!?フェイント!?」
「叔父……じゃなくてオーナー、落ち着いて」
口元を引き結びながら、黒崎が宥めるが、口角がワナワナと震えている。
ーー結構笑い上戸だよな
なんとなくそんなことを思った。
2人のやりとりで、少しだけ緊張が解ける。
咲也は苦笑しながら言う。
「以前にも、野球の仕事に戻らないかという話をいただきました。」
神代から。
野球に戻らないか。
コーチとして働かないかと。
その誘いは、すでに断っていた。
プロの世界には戻らない。
ただ、野球とは今の自分にできる形で関わっていく。
そう決めていた。
「知ってるよ」
ルシアンはあっさり頷いた。
「コウタロウが君を勧誘したことも。君が断ったこともね」
「だったら――」
「でも、コウタロウの時とは少し話が違う」
咲也が言葉を止める。
ルシアンはカウンターに肘をついた。
「コウタロウは、君をコーチとして野球の現場に戻したかった」
「僕がやりたいのは、そうじゃない」
「……どういう意味ですか」
ルシアンは少し考えるように、指先でカウンターを叩いた。
「今、レオンたちが日本に来てるだろう」
「ええ」
青空野球教室で再会してからも、彼らはこのホテルに滞在している。
野球関係の仕事だろうとは思っていたが。
「それが、今回の話と関係してる」
「どういうことですか」
「それは」
ルシアンは周囲を見回した。
「ここでする話でもないだろう?」
咲也も店内へ視線を向ける。
ちらほらと客がいる。
「詳しい話は明日にしよう」
ルシアンがグラスを手にする。
「明日ですか」
「ああ」
「ディナーでも食べながらね」
ルシアンがウインクした。
少し嫌な予感がした。
「……場所はどこですか?」
「僕の部屋」
「ご遠慮します」
反射的に言葉が出た。
黒崎が吹き出す。
ルシアンは心外そうな顔をする。
「仕事の話だよ?
別に何をするわけでも……」
「お断りします」
「うわあ。けんもほろろだ」
ルシアンが大袈裟に肩を落とす。
「僕、そんなに信用ないの?」
「日頃の行いじゃないですかねえ」
黒崎が呆れたように言う。
けれど、その口角は上がっていた。
「カズヤまでひどい」
そう言いながらも、ルシアンはまるで堪えていない。
「大丈夫ですよ。俺も同席しますんで」
咲也が黒崎を見る。
黒崎は面白そうに笑いながら、ひらひらと手を振った。
「まあ、俺、お目付役なので」
「いや。お前も信用できないんだが」
最初に会った頃の印象を思い出しながら言う。
「あら、ひどい。高宮さん」
「まあ……今は、少し、信用してるよ」
少し照れ臭くなり、視線を逸らす。
黒崎がくすくす笑った。
「嬉しいね。俺の好感度も少しは上がったってことね」
「ずるいな。カズヤ」
不貞腐れるルシアンに、黒崎が笑う。
「まあ、やっぱり日頃の行いですよ。叔父さん」
「悔しかったら、ちゃんと周りの言うこと聞いて行動してくださいね。
だから、俺みたいなのつけられちゃうんですよ」
ルシアンは首を傾げた。
「カズヤと一緒は嬉しいけど」
少し間を置く。
「ただ、僕はそんなに信用がないのかい?」
黒崎はすぐに答えた。
「信用してますよ。悪い方向にね」
「だから見張ってるんです」
咲也は思わず笑った。
ルシアンだけが不満そうに眉を寄せる。
しかし、すぐに咲也へ向き直った。
「じゃあ、明日の七時」
「いや。勝手に話を進めないでください」
何が「じゃあ」なのか。
異を唱える咲也に、
「僕の部屋で」
「聞いてます?」
「聞いてるよ」
咲也は小さく息を吐いた。
こうなっては仕方ない。
一度、きちんと話を聞いた方がいいだろう。
「……分かりました」
ぱっとルシアンの表情が明るくなる。
「じゃあ明日」
「仕事の話だけですからね」
「もちろん」
あまりにも即答なので、少し信用ならない。
黒崎もいるなら、まあ大丈夫だろう。
咲也はグラスを手に取る。
その向こうで、湊は静かに仕事を続けていた。
いつも通りに見える。
少なくとも、今は。
けれど。
先ほど、一瞬だけ止まった湊の手が、
咲也の胸に引っかかっていた。
タイトルは『口説く』。
ルシアン、言い方はあれですが中身はちゃんと仕事です。
続きはアストラスイートで。




