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第103話 ジュリア

今回は屋上庭園のお話です。

施設管理課の方々のお話。


屋上庭園。


「……っくしゅん」


薔薇の間を抜けた風に、中村は小さくくしゃみをした。


少し離れたところで枝を確認していた田中が顔を上げる。


「風邪ですか?」


「いいえ」


中村は鼻の下を軽く擦った。


「きっと、誰かが私の悪口でも言ってるんですよ」


顎に指を添え、少し考えるような顔をする。


「思い当たる筋はいっぱいありますが、まあ、うちのバカ息子あたりですかね」


田中が吹き出した。


「いっぱいあるんですか。思い当たる筋」


「ふふ、なにせ敵が多いもので」


肩をすくめた。


田中が笑った。

「中村さんは、冗談がお上手だ」


ーーいや、意外に冗談でもないんですけどね。


そんなことは顔には出さず、にっこり笑う。


田中はまだ笑いながら薔薇へ視線を戻した。


その横顔をぼんやりと眺める。


歳の頃は、自分と同じ五十代くらいか。

中村と同じ作業着姿。


細身というほどではないが、すっきりとした体つきをしている。


黒髪には白いものが混じり始めていて、眼鏡の奥の目元には穏やかな皺があった。


派手さのある人ではない。


むしろ、どこにでもいそうな、ごく普通の中年男性。


けれど話していると、不思議と人を安心させる。


そんな人だった。


田中は手袋をした指で、咲き終わった花を一つ摘み取る。


その手つきは驚くほど丁寧だった。


「でも、本当に大丈夫ですか?」

田中の声に、申し訳なさが混じる。


「何がです?」


「体調、崩してないですか。

中村さん、入ったばかりなのに……僕、かなり仕事振っちゃってるから」


「ああ」


中村は笑った。


「それなら全然、問題ないです」


「そうですか?」


「まだまだいけますよ。もっと使ってください」

力こぶを作っておどけて言うと、


田中が困ったように眉を下げる。


「いやいや。十分ですって」


苦笑しながら、手元の籠へ花殻を落とした。


「中村さんは、ベテラン並みに働いてますよ」


「いやいや。大袈裟だなあ、そんなことないですよ」


ーーまあ、そんなことあるけどねえ。

頑張っちゃってるもの、私。


心の中で自画自賛である。


施設管理課に入ってまだ日は浅い。


にもかかわらず、館内を随分と歩いている。


客室フロア。


ラウンジ。


共用スペース。


人目につく場所の細かな点検や修繕。


「まだ一週間もたってないのに、ずいぶん慣れてますよね。つい甘えちゃいました」


「そうですか」


とすっとぼけながら、中村が言う。


「まあ、ここに来る前もホテルで働いていたので。勝手はなんとなく分かりますしね」


一方で。


「ですが、肝心なところは、田中先輩じゃないと」


「私はまだ、ごく限られた場所くらいしかできませんよ」


中村は軽く笑ってみせた。


「それで“ごく限られた”って言われたら、普通の新人は立つ瀬がないですよ」


田中が笑う。


ここ数日。


田中は、客の目につく場所の仕事を中村へ回していた。


人手不足だから。


そう言われれば、それまでだが、それだけだろうか。


少しばかり引っかかる。


そして、

引っかかると言えば、


「そう言えば」


何気ない調子で言った。


「今、VIPのお客様が来てるそうですね。ずいぶん有名な方だとか」


田中の手が止まった。


ほんの一瞬。


すぐに、何事もなかったように次の枝へ伸びる。


「ええ」


「ずいぶん急な滞在だったとか」


「そうみたいですね」


そっけない。


中村は田中へ目を向けたまま続けた。


「しかも、そのお客様」


「ベルの高宮さんに、いきなり手の甲へキスしたって聞きましたよ」


今度は田中の眉が僅かに動いた。


「……あいつ」


ぽつりと落ちた声。


中村は首を傾げた。


「はい?」


田中がハッとしたように顔を上げた。


「いえ」


少しだけ気まずそうに笑う。


「なんでもありませんよ」


「そうですか」

中村はそれ以上は聞かなかった。


「……なんだか、ずいぶん距離の近いお客様みたいですねぇ」


中村が笑う。


「支配人にも、ずいぶん親しげに肩に腕を回してたそうですよ」


田中は小さく息を吐いた。


「……それは……困ったお客様ですね」


何かを言いかけて、

言い直したような。


中村は少しだけ目を細めた。


田中は再び薔薇へ向き直る。


その先にあったのは、少しくすんだ色の薔薇だった。


茶色とも。


薄い橙とも。


淡いミルクティーのようにも見える。


他の鮮やかな薔薇に比べれば、決して目立つ色ではない。


それでも田中の指は、その一輪に触れる時だけ、ほんの少しゆっくりになった。


どこか田中に似ている花だなと思った。


「珍しい色ですね、それ」


中村が言うと、


田中が微笑んだ。


「ジュリアという品種です」


名前を口にした声は、柔らかかった。


「僕がここを任されるようになってから、増やしたんですよ」


「へえ」


「最初はちゃんと育つか心配だったんですけどね」


葉の裏を確認する。


「今じゃ、すっかり馴染みました」


その横顔を、中村は黙って眺めた。


穏やかで。


いつも通りで。


何も抱えていないように見える。


――まあ。


人にはそれぞれ、触れられたくないところがある。


無理に覗く必要もない。


少なくとも、まだ今は。


「中村さん」


「はい?」


「このまま、もう少しの間だけ頼んでもいいですか」


中村はにっこり笑った。


「もちろんですよ。先輩」


「ありがとうございます」


田中は申し訳なさそうに微笑んだ。


その背後で。


色とりどりの薔薇が、風に静かに揺れていた。

今回のタイトルは『ジュリア』。

少しくすんだ、落ち着いた色合いの薔薇です。

派手ではないけれど、なぜか目を引く。

そんな花を、田中さんは大切に育てています。

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