第100話 見ていて欲しい
いつもお読みいただきありがとうございます。
今回はBar Havenでのひと幕です。
久しぶりに顔を合わせる人たち。
そして少しずつ変わろうとしているもの。
静かな夜のお話をお楽しみいただければ幸いです。
Bar Haven。
夜。
低い照明。
静かな音楽。
グラスを磨きながら、湊は咲也からのメッセージを思い出していた。
『今日は行かない。先に帰ってる』
携帯に表示された短い文章。
理由は聞かなくても分かる。
昼間のロビー。
ルシアンと黒崎に首筋を指摘された時のことだ。
咲也は顔を真っ赤にしていた。
思い出しただけで申し訳なくなる。
「高宮さん、今日は来ないのかい?」
マスターが何気なく尋ねる。
「ええ」
湊は曖昧に頷いた。
「少し用事があるみたいで」
「ふぅん」
マスターは意味ありげに笑った。
見透かされているようで、気まずくなり、
湊は視線を逸らした。
その時だった。
カラン。
扉のベルが鳴る。
入ってきたのはスーツ姿の壮年の男性だった。
橘。
湊の表情がわずかに強張る。
橘も湊を見た。
そして。
カウンターの奥にいるマスターへ視線を移し、
目を見開いた。
「お前もいたのか。早輝」
「あら」
「見つかっちゃった」
マスターが笑う。
「久しぶりだねぇ。圭ちゃん」
橘の眉間に皺が寄った。
「その呼び方はやめろ」
「えー」
「嫌なことを思い出す」
「嫌なこと?」
マスターが思い出すように中空に視線を彷徨わせながら、
「嫌なことって、文ちゃん関連?」
「うるさい。黙れ」
ピシャリと言う。
容赦がない。
マスターが肩を竦める。
「昔から変わらないねぇ。圭ちゃん」
「文ちゃんのことになると余裕なくなるところとか」
「昔からずっと」
「おい」
キリキリと橘の眉が吊り上がる。
しかし、マスターは動じない。
いつものことと言わんばかりに、マスターは楽しそうに笑った。
そして何でもないことのように言った。
「圭ちゃん、文ちゃんのこと大好きだったから」
「やめろ!」
鋭い声が飛ぶ。
初耳だった。
「そうなんですか?」
「まあねぇ」
マスターが楽しそうに笑う。
暖簾に腕押しのマスターに、諦めたのか、
橘は深くため息をついて俯いた。
「……知らなかったんだよ」
橘が顔をしかめる。
「まさか文子が――あんな」
とそこで、ハッとしたように口を閉じる。
咳払い。
何事もなかったように席へ着いた。
「ウイスキー
ロックで」
「はいはい」
マスターがグラスを取り出す。
琥珀色の液体が注がれる。
橘は一口飲んだ。
しばらく沈黙。
そして。
「司は離れた」
突然の言葉だった。
湊の手が止まる。
「『裏』はもういない」
「……そうですか」
「蒼井は変わる」
橘はグラスを見つめたまま言った。
「『表』だけでやる」
「警備として、ですか」
ロビーにルシアンを追いかけてきた橘と和葉の姿を思い出す。
二人とも同じスーツを着ていた。警備スタッフということだろう。
「ああ」
短く答える。
橘は続けた。
「昔の蒼井なら」
「表向きはガイドの補助として、誰かをヴェルナー氏のそばにつけていただろう」
橘の視線が湊へ向く。
「七年前のお前のようにな」
湊は何も言わない。
「気付かれず守る」
橘が呟く。
「それが俺たちであり、お前たちだった」
グラスを置く。
小さな音。
「だが」
橘は顔を上げた。
「それでは守れないものもある」
その言葉は、どこか苦かった。
「だから変わる」
「見ていろ」
静かな声だった。
「新しい蒼井を」
店内に沈黙が落ちる。
湊は静かに口を開いた。
「そうですか。
蒼井を離れた僕には、関係ない話ですね」
橘は首を振る。
「違う」
強い目で見据える。
「だからこそ見ていろ」
「いや」
「見ていて欲しいんだ」
それはどこか懇願するかのような響きだった。
橘はそれだけ言うと、立ち上がった。
代金を置き、背を向ける。
その背中へ。
マスターが声をかけた。
「圭ちゃん」
橘が足を止める。
振り返らない。
「なんだ」
マスターは少しだけ笑った。
「相変わらず不器用だね」
短い沈黙。
そして。
「そんな圭ちゃんが大好きだよ。
僕も、きっと文ちゃんもね」
橘の肩がぴくりと動く。
「気色悪いことを言うな」
扉へ向かいながら続けた。
「あと、その呼び方もやめろ」
吐き捨てるように言う。
そのまま扉へ向かう。
カラン。
ベルが鳴る。
扉が閉まる音。
静寂が戻る。
しばらくして。
湊は小さく息を吐いた。
「やれやれ。どうなっていくのかねえ」
マスターが呟く。
「僕たちには関係ないことですよ」
「まあそうなんだけどさ」
マスターはグラスを磨きながら肩を竦める。
「気になるじゃない。僕たちが育った場所だからさ」
蒼井という名には、小さな合気道道場としてのそれと、もう一つの意味があった。
そのもう一つを説明するのは、やや複雑で厄介だ。
しかし今、そのもう一つの蒼井が変わろうとしている。
「あの人はどうするんだろうねぇ」
マスターがぽつりと言う。
湊は思い浮かべた。
厳格な表情。
口数少なく、言葉よりも行動で示す男の顔を。
今回、彼の姿は見えなかった。
完全に静観するのだろうか。
いずれにしろ、自分には関係ない話だった。
蒼井を離れた自分には。
「さあ。あの人がどうするにせよ」
湊はグラスへ視線を落とした。橘が飲んでいたグラスだ。
少しだけ琥珀色の液体が揺れる。
「僕らは見ているだけです。それ以上は無い」
部外者だ。
何ができるわけではない。
そう思った。
やがて。
グラスを磨く音だけが、静かな店内へ戻っていった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
今回は橘回でした。
書いていて思ったのですが、橘は本当に不器用ですね。
本人は真面目に話をしているだけなのに、なぜか周囲からいじられる人です。
そして「圭ちゃん」の件は、本人にとっては黒歴史かもしれません。
一方で湊は、まだ自分を部外者だと思っています。
果たして本当にそうなのか。
そのあたりも少しずつ描いていけたらと思っています。
次回もお付き合いいただけましたら嬉しいです。




