【3】
雨に打たれる木の葉の音が激しい。
激しい雨の為に向こう岸の城砦が霞んで見える。
かなり上流から流れを利用して向こう岸を目指すことにした。
セランは城で用があるといって先に出掛けた。出掛ける前にアンナを見ていたけれど頷き合うだけで何も言葉は交わさなかった。
不器用だとは思うけれどこの2人はこれでいいのかもしれない。
ここまではジュノー達に乗ってきた。木の下で雨宿りをしながらこちらを見ている。
身体はセランの魔法のお陰で寒くはない。
丸太に縄をくくりつけ、浮きの代わりにしながら進むつもりだ。
「行きますよ。」
「おぅ」
土手を滑り降り、素早く水に身体を沈める。土手から手を放すと同時に流され始める。2人並んで進む。
かなり激しい水流だが2人の周りは比較的優しい流れになっている。
今のうちに泳ぎ切らなければ魔法はいつ切れるかわからない。
ごぶっ、と嫌な音が聞こえ、振り向くとアンナの姿がない。
慌てて潜ると沈みかけている。
丸太を放すしかなかった。
何とかアンナの手を掴み、後ろから抱き抱えるようにしてうきあがる。
もう丸太はない。
自力で泳ぎ切るしかない。
あと三分の一。泳ぎ切れるか。
水が被さってくる。力が入らなくなってくる。
あと四分の一。もう少し。
身体が重い。前が見えない。
アンナがもがく。
「わ、動くな、しっかりし───」
叫んだ途端、水を飲む。
咳き込むごとに沈みかける。
(畜生、もう少しなのに)
急に身体が冷たくなってくる。
意識を手放してはいけない。
身体が動かない。
(翔子……ごめん……)
夜明け前に目が覚めた。
相変わらず身体は自由に動かない。
(風が騒いでる。何……?)
──翔子……。
拓哉の声が聞こえた。すぐ近くから。
ごうっ、と風が吹く。
心を包む膜にほんの少しだけ綻びが出来た。手を伸ばす。
(拓哉、どこ?!)
水の中へ沈みつつある拓哉と、あれはアンナ?
いけない、早くしなくては。
風よお願い、あの2人を助けて!
そっと、両手ですくい上げる。
岸へと運び、そっとおろす。
──拓哉、起きて!
願いながら風を頬にぶつけて。
力尽きる。
(ごめんなさい、もうダメみたい……)
予想以上に力を消耗する。
せめて、どうなったか見たいのに。
気がついたとは思うけれど、心がつぶれそうな気になる。
何故こんな所にいたのか。
答えは簡単。翔子を助けに来てくれたのだ。
こんな悪天候の中、川を渡って。
しかも、あの様子だと泳いで。
なんて無茶な。聞こえてくる音からして、大雨だ。
死にそうになりながら。
涙が溢れる。
こんな所に囚われていてはいけない。いいように利用されている訳にはいかない。
「冗談じゃないわっ!」
パチン。
風船が割れるような音。
耳に届いたのは自分の声だった。
手が動く。涙が零れている。
慌てて起き上がると久々の感覚にふらつく。
けれどゆっくりはしていられない。窓に駆け寄り、大きく開け放つと雨風が吹き込んでくる。
長いドレスが邪魔だ。
何かないかと見回し、テーブルの上の果物ナイフを見つける。
「無用心ね……。もらっちゃおう。」
ドレスの裾を切り取り、ナイフは腰に括りつける。ナイフカバーが付いているから多少はましだろう。
──叔父さま、さようなら。
もうあなたの人形にはならない。
窓の桟に足を掛け、飛び降りる。
風がふわりと受け止めて地面に降ろしてくれる。
拓哉のもとへ。
方向は風が教えてくれる。
泥ハネも気にせず、裸足のまま走り出す。
もうすぐ逢える。どうか、無事で!
頬を叩かれ、目覚めて咳き込む。
「翔子?」
いや、そんな筈はないか。
周りを見回し、岸についていることに気付く。
腕にアンナを捕まえていた。
「アンナ、アンナっ!しっかりしろ!」
頬を叩き、揺らす。脈はある。横を向かせ、背中を強く叩く。
救命方法など知らないけれど、吐かせるにはこうしていた。
ごぶっ、と水を吐き、大きく息をした。
ホッとして呼び掛ける。
「アンナ、しっかりしろ」
アンナは薄く目を開けた。
「あ、タクヤ様……ここは?」
「何とか着いたみたいだな。ほら。」
と、後ろに少し離れた城砦を指す。
「すみません、私、溺れてしまった……かえって足手まといに」
拓哉は首を振る。
「俺だって溺れかけた。気がついたらここにいたんだ。」
ふっ、とアンナが微笑んで手をあげ、指差す。
「ほら、来ましたよ、命の恩人が。」
体を起こし、拓哉から少し離れた。
振り向くと。
飛び込んでくる白い風。
「拓哉!」
「うあっ!」
受け止め損ねて地面に倒れる。
「アンナ、さてはこれを見越して離れたな?」
「当然です。回避できる危機は回避しないと」
さらっと返してきた。
と、翔子がぱっと顔をあげ、今度はアンナに抱きつく。
「アンナ、ごめんなさい、命まで掛けさせて、あたしなんかの為に。」
アンナは少し目を白黒させていたけれど、優しい微笑みを浮かべ、翔子の頭を撫でる。
「当たり前です。私達の大事な方ですから。」
「本当に、ありがとう」
翔子は体を離し、アンナの目をまっすぐに見て礼を言った。
拓哉はちょっと首を傾げたけれど、すぐに立ち上がる。
「アンナ、立てるか?ここを離れないとまずいだろう。」
「はい、何とか。」
腕を支えてやると、何とか立ち上がったが、後はシャンと歩けそうだった。
それでも、翔子はアンナを支えるように寄り添う。
何となく釈然としない。
「翔子。」
何?と見上げる顔は確かに翔子で。
「俺は?俺も死にそうになったんだけど」
「だって拓哉は男でしょう?しっかり歩いて。」
「はいはい……、いいけどね。」
クックッとアンナが笑う。
「笑うなよ。」
「あ、いえ、失礼……。」
まあ、いい変化のようだし、よしとしよう。
「さて、どこへ行こうか。とりあえず休める所に行くべきだな。向こうへ帰るのは無理だし。」
「ううん、帰る方がいいわ。舟もあるし、風が靄で隠してくれる。」
翔子が指差す先には小さな舟。
「帰れるならそれが一番です。ここはロランですし、サンリタからも近すぎる。」
「わかった。行こう。明るくなる前に。」
地平線が白くなりつつある。
そこからは驚くほど速かった。
小さな帆がついた舟は風に押されて速く進むのに、靄は1メートル先も見えないほど深く包んでいる。
「往路の苦労が嘘のようですね。」
「ああ……。」
アンナも拓哉も静かに流れていく川面を眺める。
目の前の翔子が操っているとは思えない。
「本当にありがとう。あなたたちが来てくれたから、出られた。でなきゃ、ずっと、あの中だった。」
翔子は城砦がある辺りをじっと見つめている。
深い表情は、まるで読み取れない。
同時にある筈のない複雑な色合いが瞳の中で渦巻いていた。
ザッ、と舳先が草叢に食い込む。
拓哉が降り、まずアンナを降ろし、翔子に手を伸ばす。
見つめあったのは一瞬だった。なのに、ひどく濃密な時間。
翔子は大事そうに拓哉の手をとり飛び降りると、振り向き、空へと手を伸ばす。
「ありがとう、お願いね。」
ふわりと風が翔子の周りを回ると、舟はスルスルと向こう岸へと戻ってゆく。
風は拓哉の周りも優しく回る。
まるで、翔子のことを頼むとでも言いたげに。
(こちらこそ、お手柔らかに。)
拓哉が心の中で答えると、もう一度、今度は優しく頬を撫でて行った。
風の行方を見ていた翔子はくるりと振り向き、拓哉の手に飛び込んでくる。今度はちゃんと受け止め、抱き締めた。
「ただいま……。」
「うん、おかえり。」
何があったのか、訊くのは止めよう。きっと後で話してくれるだろう。
アンナが馬を呼ぶ指笛がなった。
二枚扉の重厚な玄関のドアを開けるとセランが書斎のドアを開け、転げ出て来た。
「翔様!よくぞご無事で!」
その勢いのまま翔子を抱き締める。
翔子は少し驚いた顔をしたけれど、嬉しそうにただいま、と答えた。
「拓哉も、無事で本当に良かった!」
泥だらけなのも構わず抱き締める。
「わ、わかった、わかったから。」
こっちが何を言おうと関係ないらしい。
「セラン様」
後から入ってきたアンナが呆れたような声で呼ぶと、セランの動きがとまる。かと思うとスタスタとアンナの方へ歩いて行く。
「嬉しいのは結構ですがせめて着替えてからにして頂けませんか、泥だらけにな……」
いいかけた言葉はセランの力一杯の抱擁で遮られた。
「あの、セラン様、ですから汚れ……。」
「……った。」
絞り出すような声がきこえず、アンナは耳を傾けた。
「無事で良かったと言ったんだ、このバカ!」
こちらが飛び上がるような声で叫んだ。
「どれだけ心配したと思う?水が苦手なくせに聞かないから……俺がどれほど苦しかったか、分かってるのか……」
拓哉にも翔子にもわかりすぎるほど分かる思いだった。顔を見合わせ、頷く。
アンナは助けを求めるようにこちらを見るけれど、黙って首を振って見せる。
翔子を促し、奥へと向かう。
途中、ちらりと振り返ると、アンナは観念したようで、セランの背中に手を回し、ごめんなさい、と呟く声が微かに聞こえた。
「どうしたもんかな……。」
拓哉は髪をくしゃりとさわる。
翔子と2人、風呂の前で考えている。
拓哉は自分の全身を見直し、溜息をついた。翔子も同じように自分の足をみている。
2人とも泥だらけで、直ぐにも風呂に入りたいが、残念な事に、風呂は一つしかない。
湯気が漏れていることから、入れる状態にはあるようだった。
「中は広いんだけどな……。」
譲ってやるべきところなのだろうが、拓哉は川を泳いで渡ったこともあって、服の中まで泥だらけな状況だった。
翔子の顔を覗き込む。
「いっそ、一緒に入る?」
翔子の顔が見る間に真っ赤になった。
「あ、あの、あたし、着替え貰ってくるから、先に入って!」
言うなり、走って行ってしまった。
「逃げられた、か……。」
半分冗談、半分本気。
そんな気分で言ってはみたが、イエスと言われれば、拓哉が誤魔化していただろう。
上着を脱いで改めて泥だらけな事を認識して呻く。
この分だと、頭は数回洗わなくてはならないだろう。
「シャンプーがあれば早いんだけどな……。」
元の世界が少し恋しくなった。
走って逃げて、角を曲がり、歩をゆるめた。
あたし、どうしちゃったんだろう。
翔子はまだ早鐘のようになり続ける胸に手をあてる。
こんなにドキドキするなんて、おかしくなってしまった。
今までは一緒にいることが自然で、鼓動ももっと緩やかだったような気がする。
「あたし、何か変わっちゃったのかな……。」
風を手に入れてから?
捕まっていた膜を飛び出してから?
「ショウ様?」
アンナの声。
顔を上げると、心配そうにみている。
「あ、拓哉の着替えを」
「わかりました。私が準備しますから、セラン様の書斎で待っていて頂けますか?」
翔子が頷くと、歩き出す。
「あの、アンナ」
呼び止めると振り向き、翔子の言葉を待ってくれる。
聞いていいものやら、どうやら。
自分の中でもまとまっていない考え、思いつきだ。
「どうかしたのですか?」
アンナは言い淀む翔子を見て戻ってくる。
「あの、あたし、変わっちゃったのかな……。何だか、前よりもドキドキしたり、熱くなったり、自分の事なのに、びっくりする位激しくて、どうしたらいいのか……。」
優しい表情に助けられて、俯き加減に考えをそのまま言葉にしてみた。
「ショウ様。」
翔子が顔を上げると、アンナはにこりと笑った。
「あなたには、守りの力がかかっていたそうです。とても長い間、あなたと外の世界とのクッションになっていると、セラン様から聞いた事があります。」
翔子はそんなものを感じたことはなかった。
「ええ、とても優しい、自然なもので元の世界のご両親が施したそうです。お陰であなたを中々見つけられなかったとこぼしていました。」
亡くなった両親の話を聞くのは初めてだった。
そういえば、平田──ランバルトでさえ、両親の話はしたことがない。
「風が、貴女のもとへ戻ってきた時、きっとそのクッションを取り去ってしまったのではないでしょうか。だから、今までよりも全てが鮮明に見えたり、感じられたりする。
セラン様が心配していました。貴女が傷つくのではないかと。」
こんなに話してくれると思っていなかった翔子は心が落ち着きを取り戻していくのを感じていた。
「確かに、貴女が傷つくことはたくさんあると思います。けれど貴女を守るものもたくさんあります。風も、私も、セラン様も、もちろん拓哉様も。」
拓哉、も──。
きゅっ、と苦しくなる。
「だから、ご自分を怖れないで。この家の皆が貴女を愛しています。ご両親の分まで。失って手に入る、もっと大切なものもあるのですよ。」
アンナは翔子の肩を優しく叩き、書斎へと促した。
「ありがとう、アンナ。」
お礼を言うと、セラン様の受け売りですと笑った。
少し気分が軽くなって、翔子はセランの書斎へと向かった。
「本当なのか、今の話。」
角を曲がってきたアンナに、壁にもたれたまま拓哉は聞いた。
「あら、立ち聞きですか?お行儀の悪い。」
そこに関してはバツが悪い。
「着替えをもらいに行こうとしたんだ。」
重ねてあったバスローブを着て、アンナを捜しにきたところだった。
「それは失礼しました。けれど、ちょうど良かった。手間が省けます。」
それなら嫌味をいわなくてもいいと思うけれど、以外に真面目な顔を見て口に出すのを止めた。
「今のショウ様は産まれたての赤子のようなもの。強く出ると、怯えてしまう可能性があります。」
思わず溜息をついてしまう。
「……そういうことは先に教えてくれよ。」
髪をくしゃりとさわる。
「え、まさか押し倒したり……。」
「してない!」
一歩引いて冷たい目をしたアンナに慌てて否定した。
「ったく、もう。とにかく、着替え頼む。バスローブ一枚じゃ冷える……。」
「へぇ、バスローブ一枚、という事は、その下には何も来ておられない、と。」
アンナがたまらなく悪い顔をする。
「めくってもいいですか?」
「!!」
二歩ほどさがる。
「冗談です。」
「……頼むから冷静に冗談言うのはやめてくれよ。お前、性格かわったんじゃない?」
「貴方のせいでしょう。対抗しなくてはいけませんからね。」
「……言いたい放題だな。風呂に戻る!」
踵を返す。
「ショウ様には言わなかった事があります。」
厳しい声に振り返る。
「今のショウ様が感情を爆発させたら、どうなると思いますか。」
「……例えば?」
「怒りに我を忘れたとしたら、風はどうなると思いますか?」
以前、セランが言っていた、台風を起こすというのか?
「まさか……」
「タクヤ様、おそらく貴方しか止められない。」
お互いに黙り込む。
心しておけという事か。
何も言わず、背を向ける。
「タクヤ様……。」
「覚えとく。もう一度風呂に入るよ。着替え頼む。」
アンナのつらそうな顔を見ていられなかった。
すぐお持ちします、と小さな声が聞こえた。
「そうですか、エイミが。」
セランは静かに確認をした。
皆が風呂と夕食を済ませ、暖炉の前に集まっている。
さほど寒くはないので火は入っていない。
翔子はセランに問い掛ける。
「叔父さまもオーナーも、あたしには優しくしてくれた。でもそれは嘘だったのかな?あたしを利用しようとしていただけだったの?」
ランバルトの暖かく、大きな手を思い出す。両親の事を思い出して沈み込んでいる翔子を励ましてくれた。時には映画に連れていってもくれたし、手料理も食べさせてくれた。
あれが全て嘘だったのだろうか。
「わかりません……。ただ、私が見た限りではランバルトの貴女への優しさは本物だったとおもいます。」
救いだった。セランがそう感じていたなら間違いは無いだろう。
けれど、牢でランバルトが呼び出した闇は翔子達をここへと呑み込んだ闇と同じ欲望に満ちたものだった。
「セラン。あたし、謝らなくちゃいけない……。」
「牢の事なら、翔様のせいではありません。」
きっぱりと先を越された。
「牢に貴女が来たことは知っていました。見てしまった以上、貴女がじっとしてなどいられないことも。」
セランはアンナにも怒られました、と苦笑する。
「対応の遅れた私の責任です。」
セランの眼差しはあくまでも優しい。
「それよりもこれからどうするかが大切です。場合によってはショウ様、貴女にも危険な事をお願いするかもしれません。覚悟しておいて下さい。」
覚悟。
口の中で、繰り返してみる。
「覚悟ってどういう覚悟をすればいいの?」
まるで見当がつかない。
セランはちよっと考え込む。
「相手の出方次第なのですが……。」
「ランバルトは愚直な感じだけど、エイミーが問題なんだろ?」
拓哉が問う。
「そうなんですよねぇ。彼女は王妃と一二を争う腹黒さと陰では言われていますから。」
王妃まで腹黒いと言ってしまっている。
「予測はつかないのか?」
「それが、何を考えているやら、全く」
拓哉との会話が始まると、セランの口調がくだけてくる。
「今回もまさかロランまで絡めてくるなんて狂気の沙汰としかおもえませんよ。」
はあ、と溜息をついている。
セランもこんな顔をする事があるのだと、翔子は変な所で感心してしまう。
「まあ、向こうの大物を籠絡するつもりなんだろ。よほど自分に自信がなきゃできないよなぁ。」
拓哉が呆れたようにいうと、セランも頷き、
「私なんかには全く魅力的に映らないんですが。この一年ばかり、大人しくしていてくれたと思ったら、これですから、油断はできませんね。」
「一年、か。それはあっちで店を開いてた期間じゃないのか?」
拓哉が言うと、頷いた。
「私が店を潰したのが一カ月程ま──」
「セラン!」
「セラン様!」
拓哉とアンナは同時にセランを止めた。
今のはなんだろう。
翔子にとっては聞き逃せない言葉だった。
「どういうこと?」
私が店を潰した。
セランが、店を潰した。
「説明して。知らなかったの、私だけ?」
シン、と静まっている。
確かに、拓哉が強盗に入った事で店は閉めた。
でも再開する予定だった。
それができなかったのはセランがそうさせたから。
そういうことなの?
何もかも、そこが始まり。
「話してよっ!どういうことなのっ!」
怒りに立ち上がる。
ゴウッと音を立てて、風がまきおこる。
「隠してたなんて酷い!話しなさいよツ!」
「翔子!わかった、わかったから!話す、話すから落ち着け!」
拓哉が翔子の肩を抑えて座らせると、何とか風はおさまった。
拓哉がハアハアと肩で息をしている。
「……これか。」
「これです……。」
そうっとソファの陰からセランが顔を出し、答えた。
「逃げ足が速いな。」
「昔取った杵柄というやつです。」
「自慢するなよ……まったく、お前が悪いんだぞ、莫迦。」
拓哉がセランを責める。
「大体、俺でも怒ったんだ、翔子が怒らない訳ないだろうが!普段切れ者の癖にこの阿呆っ!」
翔子はおさまりきらない怒りを抱えながら二人を見ていた。
(あたしが何で怒ったか分かってんのかな、この二人。)
自分だけに隠された事実。
セランがあの店を潰した事。
拓哉が依頼人といっていたのはセランだった、つまり、二人は以前から知り合いだった。
ここに来て心細かったのはあたしだけ?
「その阿呆だのカスだの止めてくれませんか、結構傷つくんですが……。」
セランはいじけた顔で拓哉をみる。
「カスは言ってない、このボケッ!」
「今度はボケですか……。」
即座に返されてショボンと肩を落とした。
その、普段からは想像もできない顔に、翔子は思わず吹き出した。
「もうやだ……、何なのその会話。」
怒っていた筈なのに、間の抜けた会話に笑ってしまった。
当人たちは真面目なつもりなので、顔を見合わせている。
アンナを見ると、肩を竦めて返した。
「なんだろ、あたし、おかしくなっちゃったのかな、怒ったり笑ったり、不安定みたい。」
ポロッ、と涙が流れる。
「やだ……、今度は涙だ……。」
「翔子……。」
拓哉が戸惑いながら、肩に手をおいた。
「あたし、独りぼっちなのかなって。拓哉にはセランがいて、セランにはアンナがいる。でもあたしには、って、考えて、悲しくなっちゃった……。バカでしょ?」
ポロポロと涙が流れ続ける。
皆が何も言わない。
きっと呆れている。
翔子は顔を覆う。
もう、泣いてはいけない。
困らせるだけだ。
「翔子。貴女は独りではありません。」
セランが優しい声で言う。拓哉から、碧の指輪のペンダントを受け取り、翔子に手渡した。
「父さんの……。」
「そう、私の兄のものだった。私と同じ指輪です。」
セランは自分の右手を見せた。中指に同じ指輪が光っている。
「兄も義姉も、心の底から貴女を愛していました。今も。」
「でも、死んでしまったの。」
翔子一人を残して。
「兄は、死ぬ前に一度だけ、便りを寄越しました。この指輪を通じてね。」
セランは懐かしそうに、少し寂しそうに自分の指輪を撫でる。
「翔子を頼む、と。兄の貴女を護ろうとした魔法は完璧でした。私が探し出せなかった程です。……私と接する事で嗅ぎつけられるのを恐れたのでしょう。」
翔子に、手の中の指輪をしっかりと握らせる。
「兄はこの指輪に自分のありったけの力を込めました。ずっと護り続けられるように。心を澄ませて下さい。兄と義姉の力を感じられる筈です。」
言われた通りに心を澄ませてみる。
唐突に溢れんばかりの二人の愛情が流れ込んできた。
「わかるでしょう?」
セランを見ると、にっこりと笑ってそう言った。
「二人はいつまでもここにいます。私もアンナも小さな──笑ったり泣いたりして台風の目のようにまわりを巻き込んでいた幼かったころから貴女が大好きです。」
指輪を握りしめる翔子の手を両手でそっと包み込んでくれる。
「小さな姫様、私達は貴女の側にいます。命の赦す限り。そう、遠い昔にお約束した通り。」
ふわり、と頭を撫でる拓哉の大きな手。
見ると、微笑んでいる。
優しい風がどこからか吹いてくる。
……大好きだよ。
そう囁いているかのように。
喉の奥から熱いものがこみあげて、堪え切れなくなる。
「うわあぁぁーぁ!」
まるで子供のように泣き出していた。
叫びも涙もとまらず、肩を抱いてくれた拓哉の膝に体を投げ出し、泣き続けた。
声が枯れるまで。
拓哉は膝の上で眠る翔子の頭をなでる。
「そうやって眠る顔は変わりませんね。」
「確かに。」
微笑むセランに同意して、アンナは翔子の額にかかる髪をそっとわけ、
「淋しがりやでしたね、昔から。」
と、懐かしそうに微笑む。
セランは頷き、ソファに身を沈めた。
「あの反乱が無ければ違っていたのでしょうね……。」
「セラン様、それは言わないことにしましょう。」
アンナが困った様な顔でいい、立ち上がると、セランは自嘲の笑みを浮かべ、そうですね、と目を閉じた。
「それがなかったら俺は翔子に出会えてなかったかもしれないな。」
拓哉の言葉に、アンナは首を振る。
「きっと何処かで出会えた筈です。人の縁はそんなものですよ」
そう言うと、一礼して部屋を出て行った。
「拓哉。」
少し重い声でセランが呼んだ。
「ん?」
「翔子のこと、頼みます。」
真剣な目をして言うセランに眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
その言葉の外側に何がある?
「単純な意味じゃないだろう。何をするつもりだ。」
セランはにこりと笑う。
「相手の出方次第ですよ。ことによっては戦いになるでしょう。私は国を護らなければならない。その時、誰が翔子を護るんですか?拓哉しかいないでしょう?」
何か腑に落ちない。
「これを渡しておきます。」
取り出したのは銀製の丸い輪。受け取り、よく見ると細かい模様が描かれている。
「貴方の力を引き出す為の御守りです。チェーンで首に下げておいて下さい。……いつか、役に立ちます。」
「ありがとう……いつか、か。」
手の中で転がしてから首に掛けた。
「そろそろ翔子を寝室へ運んであげて下さい。アンナがベッドを整えている筈です。」
言われて翔子をみると、寝息が深くなっていた。
そっと抱き上げたところへアンナが戻って来てドアを大きく開けてくれた。
寝室のベッドは綺麗に整えられていた。起こさない様に降ろして気付く。
拓哉の上着を強く掴んでいる。
毛布を掛けようとしていたアンナがまあ、と目を丸くした。
そっと引っ張るけれど、抜けない。
中腰の姿勢で動けなくなってしまった。手を取って抜こうとすると今度はその手も捕まってしまった。
アンナが声を殺して笑っている。
「笑うなよ、結構キツいんだぞ、この姿勢。」
「失礼しました。もう、仕方ないですね。観念して添い寝して差し上げて下さい。」
半分だけ毛布を掛けるとおやすみなさいと告げて出て行ってしまった。
「……仕方ない、か。」
中腰の姿勢からそっと翔子の隣で横になる。
すると、手を離して拓哉の胸に顔を擦り寄せてきた。
「翔子……?」
起きているのかと呼んでみるけれど、深い寝息が聞こえてくるだけだった。
「……ったく。襲っちまうぞ。」
ひとりこぼして、そっと頭を撫でる。翔子の幸せそうな寝顔でこちらまでほんわかしてしまつた。
毛布を引き上げ、肩まで掛けると、拓哉も目を閉じる。
思いの他疲れていたのかいつの間にか眠っていた。
鳥のさえずりが聞こえ、朝の光で瞼の裏が明るくなった。
こんなに穏やかな眠りは久しぶりだったような気がする。
暖かな寝床の中で翔子は少し身じろぎをする。
誰かの体温が心地よく、もう一度微睡みそうになって、はっとする。
慌てて起き上がると、拓哉がニコッと笑った。
「おはよう。」
「あ、お、おはよ……。」
思わず毛布を身体を隠すようにひき寄せてしまう。
拓哉が苦笑した。
「襲ってないから。」
「あ……うん、ゴメン。」
「別に謝らなくてもいいよ。」
笑いながらそう言うと、あくびをしてから起き上がる。
「さて、メシ食いに行くか。さっきアンナが廊下を通る気配がしてたからそろそろだろ。」
(あたし、きのうどうしたんだっけ……。)
頭の回転がまだ鈍い。
「ほら、行くぞ。」
手を引かれ、立ち上がると背中を押されてドアへ向かい、考えられないままにノブを握る。
と、その手を後ろから強く押さえられ、どきりとする。
「な、何?ドアが開かない……。」
振り向くと、拓哉の顔がすぐ側にあった。
拓哉は悪戯っぽく笑うと、唇を重ねた。
少し長めのキス。
翔子の胸が高鳴る。
ゆっくりと離れると、また笑う。
「一晩中我慢したんだから、これ位いいよな?」
かあぁっと翔子の顔は熱くなり、
「もうっ!」
と拓哉の胸を叩こうとしたけれど、簡単に手首を掴まれた。
拓哉の真剣な目に、またどきりとして。
──ぎゅっと抱き寄せられた。
「翔子、覚えてて欲しいんだ。」
声が拓哉の体を通して響く。
「これから何が起こるかわからない。けど、俺が護るから。」
顔を見ようとしたけれど、拓哉の手が頭を押さえていて動かせない。
「例えば、誰かに引き離されるかもしれない。」
深く、響く声が翔子の心に染みてゆく。
「それでも必ず助けに行く。だから、絶対に諦めるな。」
最後はかなり強い口調で言うと、腕を少し緩めてくれる。
「……うん。」
翔子は頷き、拓哉の背中に手を回した。
「絶対、だぞ?」
「うん」
「諦めたら」
「どうするの?」
「……そうだな。」
少し考えて、何か思いついたように微笑んで、またキスをした。
さっきよりもずっと長い、息が苦しくなるようなキス。
「こんな風に、一日中キス責めにする。どう?」
「……そんな」
「嫌だったら諦めるな。」
顔が真っ赤になっているのを自覚しつつ、翔子は小さな声で、はい、と答えた。
「へぇ、嫌なんだぁ。」
「え、そんな……。」
完全にイジメられている。
「どっち?嫌だった?」
「う。……嫌じゃないです。」
小さな声で答えた。
「何?聞こえない。」
「好きだから嫌じゃないったら!」
大きな声で答えた翔子の顔が更に熱くなる。
「じゃあ、今度本当に一日中キス責めにしよう。」
「え、あの、えっ!」
「その先も」
もう、顔が熱くて死にそうだった。
「た、拓哉!」
翔子が怒ると、今度は額に軽くキスをした。
「俺も好きだよ。」
優しく、目を覗きこんで言うと、翔子を解放した。
翔子の胸がバクバクと音を立てる。
大きく深呼吸しても治らない。
遊ばれていたのは分かる。
それでも、好きだよと言われたことが嬉しかった。
「行こう」
頷いて差し出された手を取り、部屋を出た。
食堂に着くと、コーヒーの
いい香りがして、目が覚めるような気がする。
拓哉が翔子の手を引いて入っていくと、テーブルで手紙を読んでいたセランが顔を上げた。
翔子の赤い顔を見て不思議そうに拓哉を見たけれど、知らん顔をする事にした。
「おはようございます。」
セランはクスッと笑ってから挨拶をした。
拓哉と翔子も挨拶を返した。
アンナが、奥にある調理場から顔をだした。
「おはようございます。もう準備が出来ますから、座っていて下さい。」
「あ、あたし、手伝う。」
翔子は拓哉の手を離し、調理場へ行った。
拓哉は正面に座っているセランの左隣の席に座った。
「襲いました?」
セランがこっそりと聞いてくる。
「……随分ストレートだな。いや」
首を振る。
「随分赤い顔をしてましたが?」
「一日中キス責めにするって言った。」
セランは、ぷっ、と吹き出した。
「そ、それはまた……かわいそうに。」
拓哉は平然として、セランをみる。
「離れ離れになっても絶対諦めるなって言ったんだよ。んで、諦めたら」
「一日中、ですか。それはキツそうですねぇ。」
でも、と笑いを収めて、続ける。
「本当に、諦めたらおしまいですからね。」
「翔子は諦めそうだからさ。自分一人ですむなら、とか。」
「確かに。敵もさるもの、翔子の性格は熟知していますから、一番心配なところだったのでそんな重石を付けてくれたなら計画の助けになります。」
セランの冷静な判断にちよっと眉を寄せる。
「俺が嫌だっただけなんだけど。」
「勿論、結果として、ね。」
セランの、先を見る目が微妙に拓哉とずれている。
「お前、何を見てる?」
お待たせしましたと、アンナと翔子が皿を持って戻って来た。
「覚えてろ。絶対話してもらう。」
セランは微笑んで首を傾げた。
こういう反応をした時は完全に覚悟を決めている時だ。
脅してもすかしても話さない。
理詰めでしか落とせないという事か。
(面倒臭いなぁ……。)
とりあえず、忘れて食事にした。
食事の後に、セランが普段の笑顔のままで、
「この家から逃げて下さい。」
と言った。
翔子など固まってしまっている。
「先程の手紙が原因ですか?」
アンナが静かに問う。
「そうです。王からの早馬でした。」
「それって、あたしの」
「貴女の父上です。が、会うのはまたの機会にさせていただきます。」
翔子の言葉を切ってはっきりと告げる。
「……急げってことか。」
拓哉が結論を言うと、セランは頷く。
「30分で私はでかけます。その後すぐにアンナと一緒に出て下さい。ここにいると危険です。」
「手紙には何て?」
「何も。ただ、すぐにこい、と。」
よくわからないけれど、嫌な予感がする。
「ショウ様、着替えを」
アンナに促され、立ち上がるけれど、翔子も不安なのか、セランを見つめる。
「急いで下さいね。私もすぐに着替えます。」
「でも」
「翔子、着替えてこいよ。嫌な予感がするんだ。」
「分かった」
拓哉に言われて頷き、アンナと一緒に部屋を出た。
「で?」
セランの着替えに付いて行き、拓哉は問い掛ける。
「貴方は着替えはいいんですか?」
「後で5分で着替えてやる。話せよ。予測はついてるんだろ?」
「さあ……なにし」
「惚けるなよ。後で分かろうが今分かろうが一緒なんだから」
まだ惚けようとするセランを遮って続ける。
「行くななんてことは言えない。けどアンナと違って俺には予備知識がない。ある程度知っておかないと動けない。」
そうだろ?
拓哉が話している間も着替えの手は止めずにいたセランが、やっとこちらを向いた。
ふっ、と笑う。
「他人を説得する術は私が教えたのでしたね。……いい弟子を持って幸せですよ。」
話すのか話さないのか。
まだ油断は出来ない。
セランを半ば睨みながら待つ。
また着替えを再開する。王の招聘となると正装で行かなければならないらしく、普段より襟の高い、刺繍の多い長衣だ。
「王宮に行けば、おそらく私は捕らえられるでしょう。」
最後に柔らかなサッシュを締めながら話し出した。
拓哉は息を呑むけれど、黙っている。セランの話を妨げたくなかった。
「朝早くからずっと、森に5人、畑に7人、潜んでいます。」
驚きは声には出さず、続けさせる。
「もっといるかもしれませんが、アンナが確認した時はそれだけでした。革鎧にはランバルトの紋章。これだけなら暗殺してしまえば事は簡単でしたが、王の招聘です。」
さらりと恐ろしい事を言う。
「となれば、ランバルトが王に何か進言したと考えるのが妥当でしょう。ショウ様誘拐か、ランバルトの城への不法侵入か、はたまた、ロランの代理としての不法入国か。」
一度止めた襟を、苦しそうに顔を歪めて外した。
「私がどんな罪で捕らえられるかは分かりません。しかし、貴方やショウ様があちらの手に堕ちれば、救いようのない事態になることだけは確かです。」
今の所分かっているのはそれだけです、と、大きく息を吐き出した。
拓哉は目を閉じ、聞いた話を頭に叩きこむ。
「で、今出来るのは、乗り込んであっちの出方を見る事と、俺達が逃げることだけなんだな?」
「はい。それが最善の策です。」
セランは一分の乱れも無く答えた。
「了解。着替えてくる。」
「拓哉……ありがとう。」
分かってくれて、といったところだろうか。これだけの事を一人で抱え込まれてもこちらが困る。
「あぁ、一個だけお願いがあるんだけど」
ドアの手前で振り返ると、セランは頷き、促した。
つかつかと戻り鼻先を指差して。
「アンナの事、なんとかしろ。分かってくれてると思うのは甘えだ。いいな!」
「そ、それじゃ命令……。」
アタフタと答えるセラン。
(ふん、知るもんか。それぐらいやりやがれってんだ。)
「絶対なんとかしろよ、考えてるひま無いからな!」
言い捨ててドアを出ると、戸口の横にアンナがいた。
「……タクヤ様、着替えを。」
何時も前を向いているアンナが俯き加減だった。
聞いていたらしい。
「うん、他の準備は出来たんだろ?」
「はい、いつでも出発出来ます。」
「さすがだな。ありがとう。」
礼を言って着替えを受け取り、すれ違い様に励ますように肩をポンと叩く。
「ありがとうございます。」
背後からアンナの声とドアを開ける音が聞こえた。




