数千年の寝不足:神の仔の脳内爆音スピーカー
*時系列編『あの時』の裏話*
深い霧が渦巻く、白霧の渓谷。
焚き火の爆ぜる音が静かに響く結界の中で、アルヴィスは先ほど完食したドーナツの紙包みを名残惜しそうに畳み、穏やかな顔で精霊槍を磨いていた。
衣服の隙間から覗く『純白の枷』は静まり返っている。アルヴィスは、自身の呪いが抑え込まれている安堵と、ドーナツの至高の甘さの余韻で、心なしかいつもより穏やかな空気を纏っていた。
だが、その隣に座るレンの表情は、いつもの飄々とした軽薄さの裏で、かつてないほど引き攣っていた。
(――頼むから、一分でいいからボリュームを下げてくれ、エデンの皆……!)
レンの脳内は、今や完全に大音量のライブ会場と化していた。
世界樹の端末を経由して受信される、遥か遠き無二のバディの故郷『翡翠の揺籠』の民たちの祈りのマナ。
それが、レンの頭の中で凄まじい音圧のサラウンド音声となって響き渡っているのだ。
『アルヴィス様ぁぁぁ! お命だけは、どうか御無事でぇぇぇ!』
『大長老様ぁぁ、今日もアルヴィス様の花が少し萎れています、うわぁぁぁん!』
『王太子様ぁぁ! 私たちの優しい王太子様ぁぁ!』
(耳が、耳が死ぬ……! 民の愛が重すぎるだろ、あいつの国……!)
想いの強さが、そのまま音量になるのだから仕方がない。
(ライブの最前列かよ!ケミカルライトでも振るか?なんなら『ハート作って♡』って団扇も掲げるぞ…あー、もう勘弁してくれ…!)
数千年の孤独を生き抜いてきたデミゴッドの精神力をもってしても、この24時間体制の爆音スピーカー再生は、肉体的な寝不足を通り越して脳の処理速度を限界まで削り取っていた。
レンの目の下には、うっすらと(神の仔にあるまじき)クマが浮き出そうになっている。
せっかくの美形が台無しだ。
「……レン。先ほどから、妙に顔色が悪いですよ。まさか、私の薄暮のマナに当てられて体調を崩したのですか」
アルヴィスが槍の手入れを止め、双眸でジロリと疑惑の視線を向けてくる。
相棒の鋭い頭脳が、レンの『隙』を見逃さなかった。
レンは必死に脳内の大合唱(※現在は『王太子様戻ってきて音頭』が再生中)を意識の隅へ追いやり、何事もなかったかのようにニヤリと軽薄に笑ってみせた。
「ん? なに、元・王太子様、俺のこと心配してくれてんの? 嬉しいねえ。いやさ、次の街で出そうと思った『クレープ』っていう菓子のレシピをシステムで検索してたら、ちょっと頭がのぼせちゃってさ」
「……誰が心配など。貴方がここで倒れられては、私のマナの調整をする者がいなくなって困るから言ったまでです」
ツンと顔を背けるアルヴィス。だが、彼の視線は『クレープ』という単語にぴくりと反応し、早くもレンの右ポケットのあたりをロックオンしていた。
(あーあ、こっちは脳内爆音で死にそうなのに、当の王太子様はもう次の菓子のこと考えてるよ……)
レンは心の中で深くため息を吐きながらも、どこか愛おしそうに口元を歪めた。
神の仔が一人で背負う、世界で一番贅沢で、世界で一番やかましい「秘密の負担」。
「よし、じゃあ寝不足解消のために、明日はもっと速く歩くからね、アルヴ」
「……構いませんよ。その、くれーぷ、というものが本当に存在するなら、ですが」
焚き火の光に照らされながら、寝不足の神の仔と、食い気味な精霊騎士の夜は、騒がしくも温かに更けていくのだった。




