翡翠の揺籠の涙と祈り(レンの胸の内)
それは、アルヴィスが白磁の神殿へと足を踏み入れる、ほんの少し前の出来事。
渓谷のキャンプ地で、アルヴィスがドーナツの美味さに目を丸くし、幸せそうに頬張っていたその裏で。
レンは焚き火の炎を見つめながら、己の脳内に直接流れ込んでくる『世界の端末』からのノイズを、管理者の目で静かに受信していた。
創造神の仔であるレンの耳には、はっきりと聞こえていたのだ。ここから遥か遠く、世界の頭頂にそびえる大樹の国――『翡翠の揺籠』の民たちが、毎日欠かさず捧げている、切なくも直向きな祈りのマナが。
『アルヴィス様、どうか御無事で』
『私たちは、いつまでも貴方様のお帰りを待っています』
かつてアルヴィスの残した薄暮のマナから生まれた『光と闇の合わさった花』を囲み、民たちは涙を流しながら、彼の無事を世界樹に祈り続けている。
古い重臣たちの廃太子の提訴など、民たちの圧倒的な愛の前には、ただの虚しい雑音に過ぎなかった。
(……本当に、優しく健気な民たちだねえ……)
レンは、フードを被って必死にドーナツの砂糖を舐めとっている相棒を盗み見た。
アルヴィス本人は、「自分はもう国を枯らす疫病神だ」「廃太子されて別の者が立太子したはずだ」と、高貴な諦念の中で自分を無理やり納得させている。
民に余計な期待をさせまいとする、彼の不器用な優しさだ。
だからこそ、レンは今のアルヴィスに、このエデンの真実をあえて伝えていない。
(今言ったって、あいつの性格じゃ『私の呪いが解けぬ限り、民に無駄な希望を与えてはならない』って、もっと意固地になって自分を追い詰めるだけだろ)
レンはふっと、いつもの軽薄な笑みの裏に、数千年の孤独をすべて燃やし尽くすような、最高の相棒への絶対の誓いを灯した。
(だったらさ……教団の総本山ごとシステムをバキバキに叩き壊して、その『純白の枷』を完璧に消し去ってからさ。胸を張ってあの緑の玉座に凱旋させてやるよ。エデンの皆が泣いて喜ぶ特大のハッピーエンドを、お前にプレゼントしてやるからさ、――元・王太子様)
「――レン? さっきからニヤニヤと、私の顔に何かついていますか」
不審そうに睨みつけてくるアルヴィスの金と黒の瞳。レンは「ノンノン」と手を振り、いつもの飄々とした調子でケラケラと笑った。
「いや? ドーナツ美味そうに食うなぁと思ってさ。……よし、じゃあ往こうぜ、アルヴ。世界の最果て、あいつらの作戦盤を白紙に戻しにな!」
民たちの変わらぬ愛と祈りをその背中に隠し、神の仔は不敵に笑う。
愛する国へ、無二の友と共に「最高の英雄」として還るその日まで――不屈のバディの最終決戦が、すぐそこまで迫っていた。




