翡翠の揺籠(エデン)の涙と祈り
人族の領域に吹き荒れる極寒の吹雪も、世界の頭頂にそびえる大樹の郷には届かない。
精霊たちの聖郷『翡翠の揺籠』
あの日、異端の教団によって焼き払われかけた緑の大地は、今やかつての瑞々しい青緑の輝きを完全に取り戻していた。
世界樹の葉が擦れ合う音は、まるで穏やかな子守歌のように聖郷を包み込んでいる。
――だが、その中心にある広大な謁見の間には、未だ主のいない空席の玉座が、静かに佇んでいた。
「――大長老様。人族の領地へ向かった隠密の精霊より、定期報告が届きました」
若き精霊騎士が、老いた臣下へ向けて恭しく頭を垂れる。
かつてアルヴィスが禁忌を侵し、涙ながらにこの国を去ったあの日から、三年。国では一部の古い重臣たちが「呪われた王太子を廃嫡し、新たな者を立てるべきだ」と騒ぎ立てていた。
しかし、大長老をはじめとする民たちの想いは、決して折れることはなかった。
大長老は、静かに首を振る。
「……廃太子の手続きなど、必要ない。我が翡翠の揺籠の王太子は、あの激動の夜からただ一人。アルヴィス・アルカディア様のみじゃ」
「しかし、法に則れば、国を枯らす呪いを背負った者は……」
「法が何と言おうと、あの御方がその身を犠牲にして我らを守ってくださった事実は消えぬ。見よ、この美しい緑の葉を。これが、アルヴィス様がその『薄暮』の身で護り抜いてくださった、我らの命そのものじゃぞ」
大長老が杖で指し示した窓の外。
そこには、世界樹の根元で、小さくも美しい『光と闇の合わさった花』が静かに咲いていた。
アルヴィスが去り際に残していったマナの残滓から生まれた、この国には本来存在しないはずの、しかしとても愛おしい薄暮の色彩。
街の広場では、幼い精霊や民たちが、その花を囲んで毎日小さな祈りを捧げていた。
『アルヴィス様、お元気ですか』
『私たちは誰も、貴方のことを悪だなんて思っていません』
『必ず戻ってきてね、私たちの優しい王太子様』
『アルヴィス様のおかげで、僕たちはこうして穏やかに過ごせています』
『アルヴィス様、いつまでもお待ちしております』
民たちは、彼を忘れてなどいなかった。
それどころか、彼がいつの日か呪いを克服し、再びこの美しい緑の王座へ還ってくることを、誰一人として疑うことなく信じ、待ち続けているのだ。
「……アルヴィス様。貴方は今、孤独な彷徨の中にいらっしゃるかもしれない。しかし、この郷の全ての命が、貴方の味方であることを忘れないでくだされ……」
大長老の祈るような呟きが、世界樹の葉を揺らす風に乗って、遥か遠くの空へと溶けていく。
彼らがどれほど自分を愛し、待ち望んでいるか。それを、まだ当の本人は知らない。
自分がすでに忘れ去られた過去の遺物(廃太子)だと、高貴な諦念の中で割り切ろうとしている。
だが、彼の隣には今、世界のシナリオをひっくり返す無二のバディ――レンがいる。
民たちの涙と祈りが報われ、アルヴィスが再びこの緑の玉座へと胸を張って凱旋するその日まで、彼らの旅路は、決して止まることはないのだ。




