第十三葉:始まりの場所の、ささやかな名残り
霧深い宿場町を後にした二人は、次なる目的地『霊峰の聖域』へ向かう旅の仕度を整えるため、一度、あのすべての始まりの場所へと戻ってきていた。
人族の辺境にある、薄暗くうらぶれた鉱山街。その片隅にひっそりと佇む、二人が初めて出会ったあのボロ酒場だ。
アルヴィスはフードを深く被り直し、入り口の木製看板を金と黒の瞳で見上げた。そこには、煤で汚れて今にも消えそうな文字で、こう刻まれていた。
――『薄明の止まり木』
「……フン、薄明、ですか。私のような『薄暮』を宿す者が紛れ込むには、妙にお誂え向きの名前だったのですね」
アルヴィスが低い声で皮肉げに呟くと、後ろからレンが荷物を担ぎ直しながら、いつもの飄々とした調子で笑いかけてきた。
「いい名前じゃん。お前の『薄暮』と、俺という新しい『漣』が出会った場所だ。世界のシナリオが狂った始まりの場所としては、これ以上ないキースポットだよ、アルヴ」
「……ただのボロ酒場ですよ。貴方がニヤニヤしながら、私に得体の知れない菓子を突き出してきた、最悪の出会いの場所です」
「おいおい、最悪とは心外だな! あのプリン、めちゃくちゃ美味そうに食って、残りをじーーっとガン見してた奴がよく言うよ」
「っ……、それは、不意を突かれただけで……!」
アルヴィスは三年前の王太子だった頃なら絶対にあり得ないほど顔を赤くし、思わず「素」の口調で言い返してしまった。
レンの前でだけは、完璧な仮面がこうも簡単に剥がされてしまう。
二人が店に入ると、レンから破格の口止め料を受け取った宿主が、もはや神でも見るかのような崇拝の眼差しで二人を迎え、店の最奥にある極上の個室へと案内した。
「ほら、約束の『シュークリーム』。街道を歩きながら、親父の権能で作っておいたんだわ」
レンが机の上に並べたのは、ふっくらと焼き上げられた薄い生地の菓子だった。半分に割ると、中から溢れんばかりの濃厚な黄色いクリームが顔を覗かせる。
「……これが、しゅーくりーむ……!」
アルヴィスはゴクリと喉を鳴らし、レンを警戒しながらも、視線は完全にその菓子に釘付けになっていた。
「毒は入ってないよ。今回は自分から食う? それとも、また俺が無理やり口に突っ込んであげようか?」
「結構です! 自分で食べます!」
アルヴィスはひったくるように菓子を手に取ると、大口でかぶりついた。
サクッとした生地の食感のあと、プリンをさらに濃厚にしたような、とろける甘みが口いっぱいに広がる。アルヴィスの金と黒の瞳が、再び至福の衝撃で見開かれた。
「――っ、美味っ……!」
「あはは、素直でよろしい!」
旅路は未だ過酷で、教団の陰謀は世界の根幹を脅かしている。
しかし、『薄明の止まり木』の奥席で甘味を頬張る二人の間には、かつてアルヴィスが抱えていた、あのジクジクとした孤独な鬱々とした影は、もうどこにも残っていなかった。




