1階:システムエラー
痛い。
両腕が、脇腹が、背中が痛い。そして果実が胃袋に届くことすらなかった、あの引き裂かれた長い傷口が激しく痛む。
カイルは砕けた石材の隙間に横たわり、かろうじて息を繋いでいた。
(意識を保て)
(立ち上がるんだ)
彼は地面に片手を押し付け、無理やり身体を起こそうとした。
ヴェルカンはそれをじっと見下ろしていた。
その瞳には、冷徹で底深い怒りの炎がゆらめいている。
「この……」カイルは激しく咳き込んだ。「糞野郎が……!」
口の端からドロリと血が流れ落ちる。
「隠してやがったな……最初からずっと」
(俺に『勝った』と思わせやがったんだ)
(俺をあの木の方へと歩かせやがった)
(完全に油断するのを待ってやがったんだ)
彼の指先が、怒りで固く震える。
「クソっ……」掠れた声が喘ぎとなって漏れる。「あんな化け物に、どうやって立ち向かえって言うんだよ……」
(無理だ。今のままじゃ絶対に勝てない)
(こんな満身創痍のパニック状態じゃお話にならない)
(一度退くんだ。立て直して……もっと強い何かを手に入れてから戻ってくるんだ)
彼は立ち上がろうとした。
だが、その思考すら最後まで完了させることはできなかった。
ヴェルカンが動いた。
カイルの視界に、漆黒の毛並みが一瞬だけ残像となって映る。
次の瞬間、彼の背後にあった石柱が凄まじい音を立てて爆散した。
その猛烈な衝撃でカイルの身体は廃墟の彼方へと吹き飛ばされた。地面を一度、二度と激しくバウンドし、崩壊した外壁の根元へと叩きつけられる。視界の端がじわじわと灰色に染まっていく。
頭上から、不吉な影が落ちてきた。
ヴェルカンは、すでに彼の真上に到達していた。
奴が、そのまま自重を乗せて落下してくる。
巨大な前足が、カイルの胸へと容赦なく叩きつけられた。
また別の石柱が粉々に砕け散り、カイルはその中を投げられた人形のように突き抜けていった。
【 警告:致命的なダメージを受けました 】
【 警告:致命的なダメージを受けました 】
【 警告:致命的なダメージを受けました 】
視界のすべてを埋め尽くすように、真っ赤な警告ウィンドウが何枚も、何枚も重なり合ってポップアップしていく。
もう、指一本すら動かせなかった。
両足の感覚は、完全に消失していた。
(立て……)
(立ち上がれ、この馬鹿野郎……!)
唇が微かに動いたが、もう声にすらならなかった。
ヴェルカンがゆっくりと頭を下げた。
そして、その獰猛な顎がカイルの腰の周りへとガチリと食らいついた。
* * *
最初は、不思議と痛みはなかった。
ただ、身体を強烈に締め付けられているような感覚だけがあった。
カイルがぼんやりと視線を下に向けると、そこには無数の白い牙が見えた。長く、鋭く研ぎ澄まされた牙が、自分の腰を完全に咥え込んでいる。彼の肋骨がギリギリと鈍い音を立てて軋み、次の瞬間、身体のさらに奥深くから、肉が濡れて引きちぎれるような生々しい音が響いた。
(あぁ……)
(俺、今から真っ二つに噛み切られるんだな)
ヴェルカンの顎に、さらに力がこもる。
(やっちまった……)
(また、同じヘマをやらかしちまったよ……)
視界の端で、あのウィンドウが収束していくのが、感覚として分かった。
【 残機数:16 / 18 】
その数字が、ゆっくりと動き始める。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。まるでコインが裏返るかのように。
(また一つ、失うんだな)
(……15かよ)
カイルは、自分の頭が冷徹にそれを思考するのを感じていた。
(15……)
その瞬間、彼の胸の奥にある何かが、完全にひっくり返って砕け散った。
(ユニ……)
(ユニが死んだのも……十五の時だったな)
ずっと考えないようにしてきたことだった。思い出すことすら、自分自身に禁じていたはずだった。だが、あの真っ白な空間で嗅いだ薬草と獣脂の煙の匂いと同じように、その記憶は驚くほどに鮮明に、頭の中で鐘の音のように響き渡った。
十五歳。
小さなベッド。星の模様がすっかり色褪せてしまった、黄色い毛布。
自分の手の中にあった、あの小さくて冷たい手。
そして――あり得ないことに、今まさに自分のすぐ隣に彼女が膝をついて座っているかのように、その顔がはっきりと脳裏に浮かび上がった。細い頬。黒い髪。そして、あの少し不器用な、歪んだ笑顔。
彼女は、いつだって嘘をつく時に見せる、あの独特な笑みをカイルに向けていた。
「心配しないで、お兄ちゃん」彼女は言った。「きっと、大丈夫だから」
(大丈夫なわけねぇだろ……)
(大丈夫なわけねぇんだよ、ユニ……!)
痛みは、すでに遥か彼方へと消え去っていた。
世界の端々がぐにゃりと折りたたまれていく。すべての音がこもって聞こえ、時間の流れが極限まで引き延ばされる。己の意識が、まるで一筋の煙のように希薄になっていくのが分かった。
視界の端のウィンドウが、激しく明滅する。
『16』という数字が、じわじわと上方へとスライドして視界から消え去ろうとしていた。
そして、その下から新しい形がせり上がってくる。
丸みを帯びた頭。少しフックのついた形状。
『1』の文字。
そして、『5』の文字。
(嫌だ……)
彼の意識が、灰色に染まっていく。
その時。あまりにも遠い場所から、再び彼女の声が聞こえた。
あの無理に作った笑顔の声ではない。
もっと細くて、掠れていて、涙に濡れた、心の底から怯えきった声。
「お兄ちゃん……」
カイルの心臓が、跳ね上がった。
「お願い、助けて……!」
(俺、この瞬間を知ってる……!)
「死にたくないよ……」
(俺は、この夜を絶対に忘れない……!)
ホスピスの狭い病室。凍りつくような冬の夜の冷気。炭火のように熱く狂おしくカイルの袖を握り締めていた妹の手。そして、まるでカイルが何か奇跡でも起こせるかのように、何度も、何度も繰り返されていたあの消え入りそうな微かな囁き。
まるで、自分のする行動のすべてに、何かしらの意味があると言いたげに。
(あの時、俺はあいつを救えなかった)
(あの夜の俺は……何一つ、してやれなかったんだ!)
『16』という数字の動きが、完全に凍りついた。
それはスライドするのを止め、ピタリと静止した。
ウィンドウの最上部で、半分裏返りかけた状態のまま、激しくガタガタと震えている。
そのすぐ下では、半分形作られかけた『15』の数字が宙ぶらりんのまま静止していた。
……数字は、変わらなかった。
カイルの中の、極めて深くて、極めてドス黒い何かが、一瞬にして猛烈な炎を上げて爆発した。
ふざけるな。こんなものが、あってたまるかよ。
彼の両目が、カッと見開かれた。
「誰が……」彼は掠れた声を力任せに搾り出した。「誰が二度も、無様に死んでやるかよ……!」
* * *
【 エラー 】
ウィンドウが激しく点滅した。
【 エ ラ █ 】
真っ赤な警告画面の表面に、ピキピキと無数の亀裂が走る。
【 エラー 】【 エラー 】【 エラー 】
ポップアップしていたウィンドウが、次々と音を立てて砕け散り始めた。
【 エ ▒ ー 】
【 エ ラ ▓ 】
【 ERROR 】
光の破片が、まるで割れたガラスの雪のように周囲へと激しく降り注ぐ。文字列は中央から真っ二つに引き裂かれ、未だに淡い光を放ちながら虚空へと霧散していった。『16』という数字は激しく小刻みに震え、分裂し、再び融合することを何度も何度も繰り返した。
【 残 █ 数:1 ▒ / 18 】
【 残機数:16 / 18 】
【 残 █ 数:1 ▒ / 18 】
【 エラー エラー エラー エラー エラー 】
ウィンドウが爆発的に増殖していく。カイルの動態視力でも読みきれないほどの凄まじい速度で、文字の壁が虚空を埋め尽くしていった。それらは重なり合い、衝突し、自壊を繰り返しながら、ついには夜空全体を覆い尽くすほどの、狂った文字列の嵐へと変貌を遂げた。
【 エラー 】
【 エラー 】
【 エラー 】
激しく震え続けていた『16』の数字が、再びゆっくりと上方へと押し戻され始める。
自らの意思で、無理やり引き戻しているかのように。
ゆっくりと。
苦痛に満ちた速度で。
本来あるべき場所へと、その数字が這い上がっていく。
【 エラー エラー エラー エラー エラー エラー 】
――そして、すべての事象が唐突に完全停止した。
* * *
静寂。
それは単に物音がしないというレベルのものではなかった。
世界そのものが、固唾を呑んで息を止めたかのような、圧倒的な無音の空間。
カイルはヴェルカンの巨大な顎に咥えられたまま、宙に浮いた状態で静止していた。周囲に立ち込めていた砂埃は虚空でぴたりと動きを止め、砕け散ったウィンドウの光の破片は、まるでガラスの結晶のように彼の周囲で静かに浮遊していた。
何一つ、動かない。
何一つ、音を立てない。
(時間、が……)
(時間が、完全に止まってやがる……)
ふと、彼の肩に何かが触れた。
それは手だった。ひんやりと冷たく、軽く、そしてどこか優しい手触り。
「貴方は、本当に弱い子ね」
すぐ耳元で、静かな声が響いた。
それはとても穏やかで、どこか楽しげな響きを孕んだ声だった。しかしそれは、何人もの人間が完全に声を重ねて同時に喋っているかのような、奇妙な重奏感を持って彼の鼓膜を震わせた。
カイルは首を巡らせることすらできなかった。
その存在は彼の真後ろに立っており、視界の端からかろうじてその破片を捉えることしかできない。背の高い影。シルエット。そして、その色が。
赤。紫。真紅。
まるで水に落としたインクのように、境界線を持たずにゆらゆらと蠢く、生きているかのような色彩。
「だけど」声は続いた。「貴方が今まさに必要としている『力』なら、私がいくらでも与えてあげられるわ」
カイルの唇が微かに動いた。
「……誰、だ……?」
「このダンジョンを攻略するのに、十分すぎるほどの力よ」
クスクスと、穏やかな笑い声が響く。
「あの願いを叶えるのに十分な力。貴方の可愛い妹を、この世界に呼び戻すのに十分なね」
カイルの心臓が、ドクンと一度、痛烈に跳ね上がった。
「誰なんだ、お前は?」カイルは声を絞り出した。「一体全体、何者なんだ?」
「さぁね」
肩に乗せられた手が、ポンと一度だけ彼を叩いた。
「今までにありとあらゆる名前で呼ばれてきたけれど、その大半にはもう飽きてしまったの」
短い沈黙。
「そうね、ただ『S』とでも呼んで頂戴」
カイルは固唾を呑み込んだ。
「俺にダンジョンをクリアする力をくれる、か……」彼はゆっくりと言葉を紡いだ。「本当に。間違いねぇんだろうな」
「当然よ」
その返答があまりにも早く、あまりにも容易く返ってきたため、カイルの背筋にゾクリと冷たいものが走った。
「見返りは何だ?」
再び、楽しげな低い笑い声が戻ってきた。
「賢い子ね」
その影が、カイルの前に回り込んできた。
そこでカイルはついに、その姿を目にすることになった。赤と紫が混ざり合う長いコート。焦点を合わせようとするたびに形を変える曖昧な顔。そして、爛々と輝く底無しの両眸。
そして、その口元には笑みが浮かんでいた。
「貴方の身体の主導権を、私に完全に委ねて頂戴」Sは言った。「見ての通り、私には自分を誇示するための固有の『肉体』というものがなくてね」
カイルは瞬きをした。
「……それだけか?」
「それだけよ」
「本当に、それだけでいいのかよ?」
「ええ、それだけ」
Sは軽く肩をすくめた。そのささやかな動作だけで、周囲の大気がびりびりと震えた。
「どうせ退屈していたところだもの」彼は軽薄な調子で言った。「ちょっとした娯楽が必要だったのよ」
Sは首を巡らせ、時間が停止した空間で静止しているヴェルカンへと視線を向けた。
その眼差しは、まるで壁を這う不快な蜘蛛でも眺めるかのように冷ややかだった。
「それで、これだけど?」Sは顎で獣を指し示しながら問いかけた。「この程度の雑魚、私に片付けさせてくれるかしら?」
カイルは自分の腰に食い込んでいる巨大な顎を見た。
そして、虚空を埋め尽くしている真っ赤な警告ウィンドウの嵐を見つめた。
「……俺に、他の選択肢があるとでも思うかよ」
Sの笑みが、さらに深く刻まれた。
「素晴らしいわ」
Sが一歩、前へ踏み出した。
カイルの身体の中へと、溶け込むように。
* * *
世界の時間が、再び動き始めた。
ヴェルカンの巨大な顎が、虚しく空を噛み合わせた。
獣が、怪訝そうに瞬きをする。
カイルの身体は、すでにその口内にはなかった。
彼はわずか三歩離れた場所に直立していた。両腕をだらりと体側へ垂らし、首を少しだけ傾げ、その両目を真っ赤に染め上げて。
それはドロリとした血の赤ではない。
真紅。鮮烈で。まるで一対の残り火のように、激しく燃え盛る輝き。
ヴェルカンは、奴がいつ自分の口から脱出したのかすら、全く感知できていなかった。
カイルの顔をしたその『異形』は、ゆっくりと自身の両肩を回した。
ゆっくりと。
首をゴキリと鳴らす。
そのまま、両腕を大きく、怠惰な円を描くように回した。
「興味深いわね」カイルの口から、これまでとは全く異なる重みを持った声が漏れ出た。「物理的な肉体を使うなんて、随分と久しぶりだわ」
彼は自分の指先を握ったり開いたりしながら、それを観察した。
「ふむ……。弱い。脆い。けれど、反応は悪くないわね」
巨大なヴェルカンが、凶暴な唸り声を上げた。
「さて」Sは言った。「どうしてくれようかしら?」
彼がゆっくりと獣の方へと向き直る。
彼の傍らに、一つのウィンドウが激しく明滅しながらポップアップした。
【 魂の内部にエラーを検知しました 】
続いて、さらにもう一枚。
【 魂の内部にエラーを検知しました 】
【 器(器)が未知の存在によって占有されています 】
【 警告:エラーを検知しました 】
【 警告:エラーを検知しました 】
Sはそれらのウィンドウを一瞥し、どこか退屈そうに唇の端を吊り上げた。
彼は右手を軽く持ち上げた。
そして、パチンと指を鳴らした。
ウィンドウが激しくバグを起こした。
文字列がブレ、増殖し、粉々に砕け散って床へと落ち、その破片はまるで灰のように大気の中へと溶けて消えていった。
そこにはもう、何一つ残されていなかった。
エラーの痕跡すら。
かすかなシステム音すら。
Sは再び、ヴェルカンへと視線を戻した。
彼は一歩も動かなかった。
何かスキルを発動したわけでもなかった。
ただ、じっとその獣を見つめた。
それだけだった。
ヴェルカンが、ヒュウと長く、震えるような息を漏らした。
奴の漆黒の毛並みが、じわじわと色褪せ始めた。
まずは銀色の縞模様の先端から。続いて、鋭い爪。それから巨大な黒い肩がみるみるうちに灰色へと変わり、そこにあるはずのない風に煽られるようにして、パラパラと塵となって崩れ落ちていく。
獣は必死に咆哮しようとした。
だが、もう声すら出なかった。
次の瞬間、庭園には砕け散った石材と、一本の古木以外には何も存在していなかった。
Sは、誰もいなくなったその空間をじっと見つめていた。
「……あら?」
彼は首を少し傾げた。
「今ので終わりかしら?」
彼は、まるで獣が再び姿を現すのではないかと待つように、しばらくその場に佇んでいた。
だが、化け物が戻ってくることは二度となかった。
「実に見下げ果てたものね」Sは低く呟いた。「せめて、もう少し抗う姿勢くらい見せるものだと思っていたわ」
彼は大袈裟に肩をすくめた。
「まぁ、いいわ。所詮は第一階層のボスに過ぎなかったのだものね」
彼は荒れ果てた庭園、砕け散った石柱、精度高く地面に転がる果実へと視線を巡らせた。
「どうして私が、あんなものに娯楽を期待してしまっていたのかしら」
その真紅の両眸が、怪しくギラリと光る。
すると、カイルの顔に一つの笑みが浮かび上がった。
それは、カイル自身の笑みでは断じてなかった。
ゆっくりと、冷酷に。それはあまりにも長い間眠りにつき、飢えを抱えたまま目覚めたばかりの『怪物』が見せる笑みそのものだった。
「さて」Sは静かに声を漏らした。「それじゃあ、大暴れと洒落込みましょうか」
* * *
一つの、部屋があった。
窓はなく、隠された場所。誰も自分がそんな部屋を所有していることすら覚えていないような、そんな閉ざされた空間。
大気は薬品の臭気で満たされ、その奥底には、どこか甘ったるい死の香りが漂っていた。
部屋の中央では、一人の少年が椅子に腰掛けていた。
両手は背後で固く縛られ、頭は力なく前方へと垂れ下がっている。床にはまるで抜け落ちた歯のように無数の錠剤が散らばり、近くのテーブルの上には何列もの薬瓶、台紙、小さな薬包が理然と並べられていた。
部屋の奥、深い影が落ちる床の上には、いくつかの死体が転がっていた。
それも、かなりの数の死体だ。
ピクリとも動くものはなかった。
一人の少女が、椅子の前で膝をついていた。
彼女は、微笑んでいた。
「心配しないで、ねぇ貴方」彼女は優しく囁いた。「私が、ちゃあんと面倒を見てあげるから」
彼女は二本の指で錠剤を一つ摘み上げると、少年の唇の隙間へと優しく押し込んだ。
少年の首が、がくりと揺れる。
「よし、いい子ね」
彼女は立ち上がり、スカートの皺を払うと、少年の膝の上へと慎重に腰掛けた。そのまま彼の首に両腕を回する。
「ちゃんとお薬を飲まなくちゃダメよ」彼女は耳元で囁いた。「じゃなきゃ、大きくて強い、元気な男の子になれないもの」
彼女はテーブルから一枚のお皿を取り上げた。
わずかな白米。少しばかりの魚の身。
スプーンを持ち上げる。
「ほら、あーんして」
少年は「あーん」とは言わなかった。
呼吸すらしていなかった。
彼はもう、随分と長い間、呼吸を止めていた。
少女は片手で少年の頭を後ろへと傾け、その唇の間に無理やりスプーンをねじ込んだ。
米粒が、少年の顎を伝ってぽろぽろと零れ落ちる。
彼女はそれを自分の袖でそっと拭い去った。
「お利口さんね」
彼女はもう一口、さらに一口と、少年の口へと運んでいった。忍耐強く、愛おしそうに。鼻歌を小さく口ずさみながら。
やがて、彼女はお皿をテーブルへと置いた。
少年の額に、優しくキスをする。
彼女は彼の膝から立ち上がると、しばらくの間その場に佇み、底無しの愛情が籠もった眼差しで少年を見下ろした。そのあまりの純粋さが、かえって部屋の空気を凍りつかせるようだった。
それから、彼女は部屋の隅へと歩き、重たい缶を持ち上げた。
部屋の中を、ゆっくりと回っていく。
すべてを終えると、彼女はしばらくの間、部屋の入り口に立ち尽くした。
そして、振り返る。
すべてが、彼女の望み通りの場所に収まっていた。
少年。テーブル。暗闇の中に横たわる、物言わぬ輪郭。
――そして、自分自身。
彼女は、微笑んだ。
猛烈な炎が、壁を這い上がっていった。
その建物が光を放つのをやめるまでには、あまりにも長い時間がかかった。
彼女は少年と、そして無数の死体と共に、自らを灰へと変えたのだった。
* * *
カイルは両目を開けた。
灰色の石壁。見覚えのない天井。湿気と金属の混ざり合った不快な臭気。
彼はしばらくの間その場に横たわったまま、じっと上を見つめていた。
【 治療が完了しました:100% 】
「……は?」
彼はゆっくりと身体を起こした。
「何が、起きたんだ……?」
自分の身体を見下ろす。
腕は完全に繋がっていた。脱臼もしていなければ、青痣一つない。脇腹も、背中も、腰も、すべてが元通りだった。かすり傷すら、傷跡すら残っていない。
彼はシャツをめくり上げた。
滑らかな皮膚がそこにあった。
「今の……夢だったのか?」
彼は自分の顔を強く擦った。
「あぁ……どうやら、寝落ちしちまってたみたいだな」
(いや、違う。あれが夢なわけがない)
(現実だった。あの凄まじい感覚のすべてを、俺は確かに覚えているはずだ)
しかし、記憶を掘り起こそうとしても、そこにはぽっかりと空白が広がっていた。
一本の古木。ヴェルカン。漆黒の巨大な化け物。
そして――世界が真っ白に染まった。
(まるで、記憶の断片をハサミで切り取られたみたいだ)
彼は頭を振り、立ち上がって両腕を頭上へと大きく伸ばした。
どこにも異常はなかった。
目の前に、ウィンドウがパッと開く。
【 第五階層に到達しました 】
カイルは身体を伸ばしたまま、完全に硬直した。
「……もう一回言ってくれ」
当然、ウィンドウが同じ言葉を繰り返すことはなかった。
代わりに、次々と新しい通知がせり上がってくる。
【 武芸百般:技量熟練度 40% 】
「よんじゅっ……!?」彼は声を上げた。「さっき確認した時は、まだ19パーセントだったはずだろ!」
【 『縮地』:進化条件が達成されました 】
【 スキル『疾走』へ進化させますか? 】
【 YES / NO 】
カイルはそれを凝視した。
「……」
「あぁ……よく分からんが、進化させてくれ。YESだ」
彼の周囲に、温かく白い光が爆発的に弾けた。
【 『縮地』が『疾走』へと進化しました 】
【 詳細:移動速度を大幅に上昇させる。効果時間:10分。 】
「効果時間10分!?」彼は驚きのあまり、危うく短剣を落としそうになった。「丸々10分間も使えるっていうのかよ!?」
【 ルーンシェル:ダメージ軽減率が30%に上昇しました 】
【 ゴアポイント:攻撃力が20%上昇しました 】
【 毒効果:20%上昇 】
【 レイスチェーン:強度・鋭利度が15%上昇 】
彼は短剣の柄を強く握り締めた。
感覚がまるで違っていた。遥かに軽く、遥かに鋭い。
また別のウィンドウがスライドするように現れた。
【 『アーチャー』:進化条件が達成されました 】
【 スキル『風の射手』へ進化させますか? 】
【 詳細:放たれた矢が、凄まじい衝撃波を引き起こす 】
【 YES / NO 】
「衝撃波、か……」カイルは息を漏らした。「YESだ」
再び、眩い光が周囲を包み込む。
【 『アーチャー』が『風の射手』へと進化しました 】
【 『鷹の目』:視覚能力が15%上昇しました 】
彼は長い間その場に立ち尽くし、自身の身体に起きた劇的な変化を噛み締めていた。
(技量熟練度、40パーセント)
(疾走。風の射手)
(そして、第五階層)
そのどれ一つとして、自分が成し遂げた記憶がなかった。
覚えているのは、あの怪しい果実を口にしようとした瞬間。あのヴェルカン。そして、胸の奥に宿った不気味な影の感覚だけだ。
それから、何一つ戦利品を落とさなかったあのヴェルカンの姿。
「俺は一体、どうやってこの第五階層まで辿り着いたんだよ?」彼は誰もいない空間に向かって問いかけた。
システムが答えることはなかった。
「おい、聞いてるか?」
やはり何も返ってこない。
彼は不機嫌そうに眉をひそめた。
そしてゆっくりと、視界の端にある『あの数字』へと目をやった。
【 残機数:18 / 18 】
「……」
彼は、二度見した。
「じゅうはち……?」
(俺の残機は、確かに16だったはずだ)
(それどころか、あと一撃で15になりかけていた。あの瞬間、俺は確かにあの恐怖を全身で感じていたはずだ)
彼は手のひらで自分の顔を覆った。
「おいおい……」彼は呟いた。「さっきまでよりも、さらに訳が分からなくなっちまったぞ」
彼はその数字を凝視した。
「これ、システムのバグか何かなのか?」彼はボソリと毒づいた。「それとも、神様が俺をからかって遊んでやがんのかよ」
* * *
彼は周囲の様子を見回した。
そこは、暗く不気味に濡れそぼったレンガで組まれた、長く続くアーチ状の地下通路だった。壁には無数の配管が走り、その継ぎ目からは禍々しい緑色の液体がポタポタと滴り落ちている。通路の中央にはドロリとした汚水が流れる水路があり、水面からは絶えず不気味な泡が浮き上がってはパチンと弾けていた。
空間全体には、淡い緑色の霧が不気味に立ち込めている。
「ここ、さっきまでの場所とは完全に別世界だな」カイルは言った。
すると、ウィンドウが即座に応答を返した。
【 第五階層:猛毒の下水道 】
「猛毒?」彼は瞬きをした。「マジかよ」
彼は周囲の霧を見つめた。
「こういう場所って、普通はガスマスクか何かが要るんじゃないのか?」
ウィンドウが明滅する。
【 スキル『毒耐性』を獲得しました 】
カイルはその文字を呆然と見つめた。
「あぁ……そりゃあ助かるけどよ」
(これ、そんなに簡単に手に入るものなのか?)
(それとも、最初からこの階層に来れば自動的に付与される決まりだったのか?)
彼はふと、自分の衣服へと視線を落とした。
シャツは黒ずみ、カチカチに強張っていた。乾燥した返り血で茶色く染まり、袖はズタズタに引き裂かれ、裾は焦げ付いている。
「うわ……流石に新しい服が欲しいな」彼は不快そうに呟いた。「全身血まみれじゃねぇか」
すると、ウィンドウが滑り込むように開いた。
【 『黒衣のコート』を使用しますか? 】
カイルは瞬きをした。
「……俺、こんなのいつ手に入れたんだ?」
彼は小さく首を振った。
「まぁ、いい。背に腹は代えられん。YESだ」
彼の身体を、一筋の漆黒の光が滑るように駆け抜けた。
次の瞬間、彼の肩には一着のロングコートが収まっていた。重厚で、仕立てが良く、インクのように深い漆黒の生地。そこには高い襟と、鈍く光る銀色のボタンが並んでいた。
カイルは光にかざして自分の腕を回した。
「へぇ……」彼は声を漏らした。「こいつは、なかなかに格好いいな」
彼がニカッと笑った瞬間、その瞳が周囲の緑色の霧を反射した。ほんの一瞬、わずか半瞬の間だけ、彼の瞳の奥に真紅の輝きがギラリと宿った。
――彼自身は、そのことに全く気がついていなかった。
「よし」彼は手首の鉄鎖をクッと締め直しながら言った。「それじゃあ、この階層のモンスターどもの癖を研究しにいくとするか」
彼は、淡い緑色の霧の奥へと歩みを進めた。




