1階:隠す
カイルには、反応する時間すら与えられなかった。
心臓が一拍する間に、ヴェルカンは木陰から巨体を起こしていた。
次の瞬間には、奴はもう目の前にいた。
灰色の毛並み。黒い縞模様。すでに振り下ろされている前足、剥き出しの爪。かつて自分を真っ二つに引き裂いたのと、全く同じ一撃。
だが、今回のカイルは、ただ大気の揺らぎだけを凝視していた。
(そこだ。空間が歪んだ)
思考が完了するよりも早く、彼の肉体が動いていた。
カイルは凄まじい勢いで真横へと身体を投げ出した。鋭い爪が、つい先ほどまで彼の脇腹があった空間を虚しく切り裂く。その強烈な風圧だけでボロ布のようなコートが激しく煽られ、足元の石畳が真っ二つに割れた。
ヴェルカンは軽々と着地し、首を巡らせた。
その顔に、初めてかすかな驚きの色が浮かんでいた。
「あぁ」カイルの声は微かに震えていたが、その口元には笑みが浮かんでいた。「俺は忘れてねぇよ」
彼は短剣を強く握り締めた。
【 『ゴアポイント』を装備しました 】
【 『レイスチェーン』が連結されました 】
彼の左手から鉄鎖がスルスルと解け落ちる。クッと手首をスナップさせると、鋭い刃が弧を描いて回り始めた。
一度、二度。
そして、一気に加速する。
鎖が風を切り、まるでワイヤーが悲鳴を上げるような音を響かせながら、短剣はカイルの周囲で凄まじい旋風を巻き起こした。それはかつて一度も練習したことのない動きだった。だが、今の彼の肉体はその術を知っている。これまでの数々の小さな経験が、一つの技術として身体に刻み込まれていた。
(武芸百般:19パーセント)
(十分だ。これだけあればいける)
短剣の軌道が、銀と緑の混ざり合う一筋の残像へと昇華していく。
まるでヘリコプターのプロペラのようだった。
カイルは歯の隙間から静かに息を吐き出した。
そして、ヴェルカンに向かって真っ直ぐに突撃した。
* * *
二つの影が、庭園の中央で激突した。
ヴェルカンが跳躍する。カイルはその懐へと滑り込み、短剣が奴の肩口をかすめて通り過ぎた。毛並みまであと紙一重の距離。
……外した。
ヴェルカンが身体をひねり、前足を鋭く突き出す。カイルが頭を低く下げると、その髪の毛を爪がかすめていった。間髪入れずにカイルが鉄鎖を大きく振り回すと、大振りの弧を描いた鎖が獣を強制的に後退させた。
【 ルーンシェル:発動中 】
ガキィン、ガキィン、ガキィン!
石が砕け散る音。鎖が大気を引き裂く音。同じ空間を奪い合おうとする二つの存在が、何度も、何度も火花を散らし、互いの肉体を捉えきれずに弾け合う。
(同じだ。速度は完全に互角だぞ)
(この糞猫と、対等に渡り合えてるんだ!)
ヴェルカンが左へと鋭くステップを踏む。
だが、カイルはすでに先回りをしていた。
奴が右へと反転する。
カイルもまた、その動きに完全に追随した。
心臓が十拍する間、両者は完全に互角の攻防を繰り広げた。古木の周囲を二つの残像が円を描くように駆け巡り、枝からは葉がむしり取られ、怪しく光る実が石畳の上を転がった。
しかし、カイルには短剣があった。
そしてその短剣には、致死の毒が塗られている。
ヴェルカンが間合いを詰めようとするたび、回転する刃がそれを拒絶した。カイルが鎖を l 繰り出すたび、獣は攻撃に転じる代わりに、回避を最優先せざるを得なかった。
(こいつ、刃を徹底的に警戒してやがる)
(掠り傷一つ、負いたくないってわけか)
その思考は、最初は微かな違和感として、そして次の瞬間には確信へと変わった。
見えた。
ヴェルカンは、一度として短剣を真っ正面から受け流そうとはしなかった。普通の獣なら、邪魔な武器を前足で叩き落とそうとするはずだ。
だが、奴は避けていた。
例外なく、すべてを。
カイルの笑みが、さらに深く刻まれる。
「へぇ」彼は静かに声を漏らした。「お前、思ったより頭が良いんだな?」
ヴェルカンの耳が不機嫌そうに伏せられた。
「分かってんだろ、これが何なのか。この毒を喰らったらどうなるかをな」
彼は首を少し傾げた。
「誰かに教わったのか? それとも、身をもって痛い目を見たのか?」
獣が低く唸り声を上げた。地鳴りのようなその響きが、足元の石畳を微かに震わせる。
「よし」カイルは言った。「なら、その知恵がどこまで通用するか試してやろうじゃねぇか」
【 『縮地』:使用可能 】
「縮地」
【 『縮地++』を発動しました。 】
【 効果時間:3秒 】
世界が、劇的にスローモーションへと変わった。
* * *
すべての事象が、一本の『線』と化した。
紫色の空を背景に、灰色の残像となって静止するヴェルカン。銀の糸の先で一筋の火花と化した短剣。そして、己自身の肉体はただの影のようだった。
カイルは流れる水のように滑らかに庭園を駆け抜けた。彼が左へ切り込めば、ヴェルカンもそれに追随する。右へ切り込めば、やはりヴェルカンも合わせて動く。倒壊した太い枝を飛び越え、空中を反転しながら、彼は鉄鎖を大きく薙ぎ払った。
ヴェルカンは身体をひねってそれをかわす。
カイルは戻ってくる短剣を逆手に掴み直し、その勢いのまま鎖を自分の前腕へと巻き付けた。
(自分を斬るなよ。自分に当てるなよ。絶対に……)
刃が彼の肘のすぐ脇をすり抜け、袖を微かに焦がすような風切り音を立てた。
問題ない。
彼の両手は、武器が今どこにあるかを完全に把握していた。
(武芸、か)
(すべては、この手の中に刻まれてる)
彼は短剣を全力で投げつけた。
指先から放たれた刃は一筋の閃光となり、ドン、と重苦しい音を立てて最も近い石柱の深くまで突き刺さった。連結された鉄鎖がピンと張り詰め、ブゥンと低く振動する。
ヴェルカンの動きが止まった。
カイルの右手は、今や完全に自由になっていた。
「アーチャー」彼は静かに呟いた。
彼の左の掌に、淡い光がぽっと灯った。
何もない空間から、骨のように白く、薄く湾曲した一振りの弓が姿を現した。
彼は弦を引いた。
手に矢は握っていない。背中に矢筒もない。しかし、彼の指が弦を後ろへと引き絞ると同時に、淡い青色の光を放つ一本の矢が収束するように出現し、弓へと番えられた。
【 『アーチャー』:発動中 】
【 『鷹の目』:発動中 】
彼の視界が爆発的に冴え渡った。庭園の光景が、あり得ないほどの超高精度で脳内に引き込まれる。ヴェルカンの顔に生えている髭の、その一本一本すら明確に数えられるほどだった。
彼は指を離した。
ヒュッ。
光の矢が放たれた。
ヴェルカンは反射的に身をかわし、矢は奴の頭部があった空間を通り抜けて背後の壁へと激突し、火花となって弾け飛んだ。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ。
さらに三発。その執拗な射撃が、ヴェルカンに強制的な回避を強いる。そして一発かわすたびに、奴の身体は半歩ずつ左へと追いやられていった。
(追い込む……!)
(あと一発だ!)
獣は低く、凶暴な唸り声を上げながら庭園の隅へと跳躍した。しかし、そこにはあらかじめ石柱に突き刺され、通路を塞ぐようにピンと張り巡らされていた『鉄鎖の罠』が待ち受けていた。
奴が一瞬、躊躇した。
カイルは力任せに鎖を引いた。
短剣が石柱から引き抜かれ、石の破片を激しく飛び散らせながら彼の手元へと戻ってくる。
「捕まえたぞ」彼は静かに息を漏らした。
ヴェルカンは空中でもがいたが、戻ってきた刃は容赦なくその脇腹を切り裂いた。
一筋の赤い線が走る。
獣は壁に反響するほどの、凄まじい高音の悲鳴を上げ、四足で激しく着地した。
【 状態異常:毒を付与しました 】
* * *
一瞬、庭園に静寂が戻った。
ヴェルカンは脇腹を大きく波打たせながら身を低くしていた。毛並みには細い黒い線が走り、その傷口から緑色の光沢がじわじわと広がっていく。
カイルはふいごのように激しく息を切らせていた。
両腕は震え、シャツは汗でぐっしょりと濡れている。『縮地』の効果時間は終了し、視界の端でクールダウンのカウントが刻まれていた。
【 縮地:クールダウン残り20秒 】
(毒は回った。絶対に効いてくるはずだ)
(あとは時間を稼ぐだけだ)
ヴェルカンが頭を持ち上げた。
その琥珀色の瞳が細められる。
――そして、奴の姿が消えた。
速いのではない。残像すら残していない。
完全に消え失せたのだ。
さっきまで奴が立っていた場所の空気は完全に空っぽだった。大気の揺らぎも、影も、石を引っ掻く爪の音すらも一切なかった。
カイルの血の気が一気に引いた。
【 モンスター能力を検知:隠蔽 】
【 詳細:術者の姿を完全に視覚から消失させる 】
「隠蔽……」彼は呟いた。
(だから最初の時、一瞬で消えたのか)
(動く姿が見えなかったんじゃなくて、姿そのものを消してたんだ)
彼は短剣を構え、未だに光を放つ弓を左手に握ったまま、ゆっくりと周囲を警戒するように旋回した。
「よし……」彼は言った。「上等だ。来いよ」
(聴け。音を聴くんだ)
一枚の枯れ葉が、石畳の上をカサカサと転がった。
風だ。
他には何も聞こえない。
彼は誰もいない庭園に向かって光の矢を放ち、さらにもう一発撃ち込んだ。二発とも遥か彼方の壁に突き刺さった。
(どこだ? どこにいる?)
耳を極限まで澄ます。心臓がドクドクと激しく脈打つ。
気配を察知したのは、ほんの一瞬遅かった。
すぐ背後の肩の近くで、微かな足音が聞こえた。
カイルが振り返る。
獰猛な顎が、彼の左肩へと食らいついた。
* * *
目の前が真っ白になるほどの激痛が走った。
指ほどもある巨大な牙がルーンシェルを突き破り、筋肉と骨の深くまで食い込んだ。ヴェルカンはカイルを地面から吊り上げ、まるでボロ雑巾のように庭園を引き回した挙句、力任せに投げ飛ばした。
カイルは背中から石柱へと激突した。
ドゴォン、と重苦しい音を立てて石柱が砕け散る。彼はその衝撃で跳ね返り、地面を転がってようやく止まった。
【 警告:致命的なダメージを受けました 】
【 警告:ヴェルカンからこれ以上の攻撃を受けると、残機を失います 】
彼は冷たい床に頬を押し付けたまま横たわり、口内に広がる血の味を噛み締めていた。
左腕が、あり得ない角度でだらりと垂れ下がっている。
(脱臼した……)
(腕を根元から噛み外されやがった)
視界がぐにゃりと歪む。
(意識を飛ばすな)
(次を喰らったら、残機は15になっちまう)
(15だぞ)
胸の奥から、黒く猛烈な怒りが湧き上がってきた。
(ふざけるな)
(嫌だ、絶対に嫌だ。二度も同じヘマをしてたまるか!)
彼は無事な方の右腕に力を込め、無理やり身体を押し上げた。
目の前に、ヴェルカンが姿を現した。
まさに目と鼻の先。奴の吐息から漂う、生臭い血の匂いを感じられるほどの至近距離だ。
その顎が、彼の頭部を正確に狙って大きく、広く開かれた。
カイルの身体から、一瞬にして一切の無駄な動きが消えた。
そして、頭の中で何かがぷつりと切れた。
「今日じゃねぇよ」
【 縮地:使用可能 】
「縮地!」
* * *
時間が劇的に引き延ばされる。
棺桶の蓋が閉じるかのように、巨大な顎が迫り来る。
カイルは勢いよく身体を沈め、大きく開かれた口の下を滑り込むようにして膝でスライディングした。彼の髪の毛から指一本分ほどの隙間を抜けて、牙が激しい音を立てて噛み合わされた。
彼は動きを止めなかった。
ブーツの底で石床を氷のように滑らせながらヴェルカンの首回りへと回り込み、その動きに短剣を追随させる。
獣は身体をひねろうとしたが、遅すぎた。
カイルは奴の首の側面に向け、短剣の柄元まで深く突き刺した。
「死ね」
彼はそれを真横へと力任せに抉り抜いた。
ヴェルカンが絶叫し、激しくのたうち回る。
猛毒が、津波のように獣の全身へと駆け巡った。
わずか心臓の二拍分の間に、緑色の血管が奴の首から顔全体へと這い回るように広がっていった。目、鼻、口から血が滲み出る。毛並みの縞模様は黒く、濡れそぼっていった。
カイルは武器を手放し、後ろへと倒れ込んだ。
左腕に、爆発的な激痛が走る。
彼は悲鳴を必死に噛み殺した。口の中に鉄の味が広がる。
ヴェルカンはよろめき、一歩、二歩と進んだところで、その足が完全に崩れ落ちした。
奴は真横へと叩きつけられるように倒れ込み、その下に血溜まりを作った。巨大な脇腹が激しく上下し、そして――完全に停止した。
【 モンスターを討伐しました:ヴェルカン 】
カイルは仰向けに倒れたまま、空を見上げて激しく肩で息をしていた。
左半身全体が、心臓の鼓動に合わせてドクドクと激しく脈打っている。
「……」
彼は待った。しかし、ウィンドウは開かない。
「……」
彼はさらに待った。
「これだけかよ……」彼はかすれた声を出した。「何もなし、か?」
彼は右の肘でかろうじて身体を支え、本来ならドロップ品が現れるはずの、何もない空間を凝視した。
「何一つ落とさねぇのかよ? これだけ苦労したってのに! この糞野郎が……これだけ酷い目に遭わせておいて、ドロップすら無しなのかよ!」
当然、ヴェルカンが答えることはなかった。
カイルはもうしばらくの間、じっとその死体を見つめ続けていた。
それから、彼は再び石床に頭をごつんと投げ出した。
「どうでもいいか」
彼は深く吸って、吐いた。
「関係ねぇ。俺の勝ちだ」
目を閉じると、自然と口元が上へと吊り上がっていった。
(勝った)
(俺は本当に、あの化け物に勝ったんだ)
その時、彼の腹がグゥと鳴った。
それも、凄まじく大きな音で。
カイルは思わず吹き出した。
「分かった、分かったよ」
彼は膝をついて身体を起こし、庭園の古木へと視線を向けた。
「まずは目の前のことからだ」彼は言った。「何か食わねぇと」
* * *
一歩歩くごとに、身体中に激痛が走った。
だらりと垂れ下がった左腕は一歩踏み出すたびに大きく揺れ、その衝撃が脳天を突き刺すような鋭い痛みとなって駆け抜ける。脇腹は軋み、喉はカラカラに渇いていた。
だが、あの木はもう目の前だった。
黒々とした樹皮。重重しく広がる枝。その先には、まるで残り火のように怪しく赤く光る丸い実が実っていた。
カイルは幹へと辿り着くと、そのまま根元に背中を預けるようにしてずるずると座り込んだ。震える右手を伸ばし、最も近くにあった実を一つ、ぷつりと千切る。
それは、じんわりと温かかった。
見た目よりもずっしりと重い。
目の前に、ウィンドウがスライドするように開いた。
【 果実:サンライズ 】
【 詳細:あらゆる負傷を瞬時に治療する 】
カイルはその文字を凝視した。
それから、疲れ切った短い笑い声を漏らした。
「最高だな」彼は言った。「少なくとも、これで傷は治せる。一石二鳥ってやつだ」
(食料であり、治療薬でもある)
(この場所も、思ったより悪くないかもしれないな)
彼は果実を口元へと運んだ。
だが――その瞬間、彼は致命的な過ちを犯していた。
彼は気づいていなかった。そして、その事実に気づくのは、ずっと後になってからのことだった。
あのヴェルカンは、何一つアイテムをドロップしなかった。
スキルも、コインも、一本の毛皮すらも。
本物のモンスターを討伐したならば、必ず何かしらの戦利品が落ちるはずなのだ。
彼は、完全に油断していた。
果実の皮に歯を立て、その濃厚な甘みが彼の舌に届いたのは、ほんの半瞬のことだった。
次の瞬間、世界が激しく歪んだ。
* * *
音すら聞こえなかった。
姿すら視えなかった。
まるで崩落する巨大な建造物に真っ正面から激突されたかのような、凄まじい衝撃が彼の胸を直撃した。
カイルの身体が、完全に地面から浮き上がった。
彼は庭園を真横に吹き飛び、石畳の上を激しく転がりながら、背後の石柱へと猛烈な勢いで叩きつけられた。ドゴォンと音を立てて石柱が中央から真っ二つに割れ、周囲に大量の砂埃と石の破片が降り注ぐ。
痛い。
全身を、圧倒的な激痛だけが支配していた。
【 警告:致命的なダメージを受けました 】
【 ルーンシェル:ダメージを10%軽減しました。 】
【 推奨:速やかに該当エリアから離脱してください 】
彼は必死に呼吸をしようとした。
しかし、肺から競り上がってきたのは熱くドロリとした血の塊だった。彼はそれを石床へと激しく吐き出し、うめき声を上げながら腹を抱えて丸くなった。
「な……んだって、んだよ……」
(今のは何だ?)
(殺したはずだ。俺は確かに、あの化け物をぶち殺したはずだろ!)
彼は無事な方の片腕に力を込め、無理やり身体を押し上げようとした。
だが、両足がガタガタと震え、全く力が入らない。
そのまま、再び地面へと崩れ落ちた。
「動け……」彼は声を絞り出した。「頼むから、動いてくれよ……!」
しかし、足はピクリとも反応しなかった。
彼は重い頭を、ゆっくりと持ち上げた。
その視線の先に映った光景が、彼の肺から残ったすべての空気を力任せに搾り取った。
庭園の中央に、あのヴェルカンが平然と立っていた。
いや、彼が先ほど倒した個体とは、明らかに違っていた。
サイズはこれまでの倍近くあり、その肩幅は巨大な門の扉ほどもあった。毛並みは漆黒に染まり、その身体にはかすかに銀色の光沢を放つ縞模様が刻まれている。そして振り上げられた爪は、まるで何振りもの長剣のように長く、湾曲し、鋭く研ぎ澄まされ、不気味に濡れそぼっていた。
奴の頭上には、一つのアイコンが浮かんでいた。小さく、だが強烈な輝きを放つ、金色の『王冠』のマーク。
【 モンスターを識別しました:ヴェルカン 】
【 危険度:階層ボス(フロアボス) 】
カイルはそれを凝視した。
「嘘だろ……」彼は掠れた声で呟いた。「冗談じゃねぇぞ……」
ウィンドウの文字が切り替わる。
【 ヴェルカンは『隠蔽』を使用し、自身の真の正体と姿を偽っていました 】
カイルの口内が、一瞬にしてカラカラに渇ききった。
(死んでなかったんだ)
(ただ、姿を隠してやがった)
(最初から、ずっと……)
巨大なヴェルカンが静かに頭を下げ、その琥珀色の瞳がカイルを真っ正面から捉えた。
その瞳に、怒りの色は一切なかった。
あるのは、ただ獲物が力尽きるのを待つかのような、冷徹なまでの『忍耐』だけだった。
(勝てっこない……)
(立ち上がることすら、できねぇのに)
胸の奥から、冷たく、そして巨大な絶望の波がじわじわと、止まることなく湧き上がってきた。




