第1階:予期せぬ死
カイルは錆びた鉄棒を持ち上げた。
手は震えていない。自分でも驚くほど冷静だった。
(よし。あのアーチャーは中級クラスだった。俺はそれに勝ったんだ)
(今度の相手は、ただのデカい猫に過ぎない)
彼は一歩、前へ踏み出した。
ヴェルカンが消えた。
移動したのではない。文字通り消え失せたのだ。木の下の空間はぽっかりと空き、つい先ほどまで奴がいた場所の空気が、まるで陽炎のように揺らめいていた。
カイルが瞬きをした、その瞬間。
目の前に、途方もなく巨大な影が立ちはだかっていた。
顔を確認する余裕すらなかった。見えたのは、灰色の毛並み、黒い縞模様、そして振り上げられた一本の悪魔のような前足。それはまるで、何本ものナイフを束ねたかのように爪を剥き出しにしていた。
(なっ……)
その前足が、振り下ろされる。
痛みはなかった。
ただ、自分を支えていた糸をぷつりと切られたような、奇妙で軽い感覚だけがあった。視界のなかの庭園が斜めに傾く。木々が目の前を通り過ぎていく。紫色の空が見え、次の瞬間には石畳の床が顔面に向かって急接近してきた。そして数歩離れた場所に、まだ直立している『一対の足』が視界に映る。
(あれ、俺の足だ)
【 警告:致命的なダメージを受けました 】
(ああ、そっか)
【 死亡しました 】
世界が真っ白に染まった。
* * *
カイルはガバッと跳ね起き、絶叫した。
冷たい石の床。水滴が滴る天井。暗闇の中でかすかに光を放つ、何列ものガラスのフラスコ。
彼は慌てて自分の腹に手を当てた。傷一つない。肋骨、腰、足を叩いて確かめる。すべて揃っている。すべて繋がっている。核心部分が、激しく震えていた。
「クソッ……」彼は喘ぐように声を絞り出した。「クソ、クソ、クソがっ!」
心臓が、まるで胸を突き破って飛び出そうとする拳のように激しく脈打っている。
「何だ今のは? 一体全体、何が起きたんだ!?」
(動くところすら見えなかった)
(かすかにすら、捉えられなかった)
「動く姿すら、見えなかったっていうのかよ……!」
裏返った声が、壁に反響して虚しく響いた。
カイルは手のひらの付け根を両目に押し付け、必死に呼吸を整えた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。
彼の目の前に、淡く光る半透明のウィンドウが滑り込むように現れた。
【 残機数:16 / 18 】
カイルはそれを凝視した。
16。
もう2つも失った。18個のうち2つだ。ここにきてから、まだ一日程度しか経っていないというのに。
「大丈夫だ」彼は極めて静かに呟いた。「大丈夫。落ち着け」
(お前は無事だ。生きている。バラバラにはなっていない)
(ただの数字に過ぎない)
彼は奥歯を噛み締めた。
(……いや、ただの数字なわけがあるか)
カイルは膝の上に拳を置き、長い間じっと座り込んで呼吸の乱れを抑え込んだ。パニックが収まるよりも、体の震えが止まるまでの方が遥かに時間がかかった。
また別のウィンドウが開く。
【 お知らせ:すべての装備およびスキルが紛失しました 】
【 回収が必要です 】
カイルは顔を上げた。
「……は? 何だって?」
自分の手を見る。
何も握っていない。
腰のベルト、ポケット、傍らの床。錆びた鉄棒も、コインもない。文字通り、何一つ残っていなかった。
ふとフラスコの壁に目をやると、そのうちの4つの中に、まるでガラスに閉じ込められた霧のような、灰色の半透明の淡い輪郭が浮かび上がっていた。
【 錆びた鉄棒:未回収 】
【 縮地:未回収 】
【 アーチャー:未回収 】
【 鷹の目:未回収 】
「冗談だろ……」彼の声が一段と大きくなる。「ふざけんなよ!」
(全部かよ。全部失ったっていうのか)
(さっき覚えたばかりのスキルも、まだ使いこなせてさえいない2つのスキルも)
(あの糞猫に一瞬睨まれただけで、全部オダブツかよ!)
彼は膝に額を押し付け、うめき声を上げた。
すると、他のものより少し小さな3枚目のウィンドウがスライドするように現れた。
【 武芸百般:紛失していません 】
【 技量熟練度:5% 】
カイルはゆっくりと頭を持ち上げた。
「……無くしてない?」
その文字を、3回読み直した。
その瞬間、胸の奥の、自分でも気づかないうちに固く強張っていた何かが、ふっと解けるのを感じた。
「ああ、神様、ありがてぇ……」彼は震えるような笑い声を漏らした。「少なくとも、戦い方だけはまだ体が覚えてる」
(これだけは、俺自身のものだ)
(俺の体に刻まれてる。奴らには奪えない)
(他のものは全部、ただの道具だ)
彼は背筋を伸ばした。
4枚目のウィンドウが出現する。
【 ヒント:ヴェルカンを倒すには、奴と同等、あるいはそれ以上の速度が必要です 】
カイルの動きが完全に止まった。
「奴と同等の速度……」
彼は、あの庭園が一瞬にして地獄と化した瞬間を思い返した。木の下の空白。振り下ろされた前足。音の有無。
「だから……動く姿すら見えなかったのか」彼はぽつりと言った。
(隠れていたわけじゃない)
(ただ、俺の目の限界を超える速度だったんだ)
彼は首の後ろをさすった。
「よし。なら、もっと速くなる必要がある。それか、体の動かし方を工夫するか……まぁ、どっちでもいい。とにかく速くなればいいんだろ」
(速度、身こなせ、反応速度)
(そういう類のものだ)
腹がグゥと鳴ったが、無視した。
「まずは目の前のことからだ」彼は言った。「自分の荷物を取り戻す」
* * *
最初の『亡者』は、一分も経たずに沈んだ。
奴が飛びかかってくる。カイルは本能的に横へステップを踏んだ。奴の顎がピクリと動いた瞬間、その跳躍が始まるよりも先にカイルの体は動いていた。
手元に鉄棒はない。
だが、そんなものは必要なかった。
カイルの拳が亡者の折れ曲がった首筋を正確な角度で捉え、湿った破砕音とともに、その頭部が真横へと弾け飛んだ。
【 モンスターを討伐しました:亡者 】
コインが落ち、その傍らから小さな青い光がふわふわと浮き上がってきた。
【 スキルを検知しました:縮地 】
【 縮地を回収しますか? 】
「ああ、回収する」
【 スキルを回収しました:縮地 】
暗闇の中で、パリンとガラスの割れるような音が響いた。
カイルは息を吐き出した。
(まず1つ。残り3つだ)
彼は足を止めなかった。
2体目の亡者。3体目。5体目。
壁際、階段の踊り場、中庭の隅。カイルは奴らの動きの癖を掴んでいった。足音の質を覚えた。奴らが飛びかかってくるほんの半瞬前に軸線を外せば、勝手に壁に激突して隙だらけの背中を晒すことも理解した。
そして彼は、『縮地』の使い道を変え始めた。
敵の攻撃を避けるためではない。
ただ、純粋に移動するためだ。
左に体をかわすと同時にスキルを発動して間合いを詰め、亡者が振り向くよりも早く、すでにその背後に回り込んでいる。
(攻撃の威力を上げるんじゃない)
(相手より先に、その場所に到達すればいいんだ)
20体目の亡者を倒す頃には、もう心臓の高鳴りは消えていた。
30体目を超える頃には、奴らの突進を数えることすらやめていた。
ただ、淡々と動くだけだった。
途中で、柱の影に転がっている死体の脇に、あの錆びた鉄棒が落ちているを見つけた。彼は特に感慨もなく、それを拾い上げた。
再び、ガラスの割れる音が響く。
彼は歩みを止めない。
【 モンスターを討伐しました:亡者 】
【 モンスターを討伐しました:亡者 】
【 モンスターを討伐しました:亡者 】
ウィンドウがポップアップするたびに、カイルは視界の端へと目をやった。
【 残機数:16 / 18 】
それを見るたび、胸の奥で熱い何かがドロリと渦巻いた。
(16)
(2つの命だ。あの姿さえ見えなかったクソ猫のせいで、俺の命が2つも消えたんだ)
彼は歯を食いしばった。
(絶対に、あの化け物をぶち殺してやる)
鉄棒を振るう腕に、自然と力がこもった。
* * *
変化が訪れたのは、討伐数が23体に達した時だった。
カイルは亡者の爪をかいくぐり、『縮地』を使ってその背後に着地したばかりだった。スキルの効果時間はいつも通り、心臓の一拍分という極めて短い一瞬のはずだった。
だが、そこでウィンドウが開いた。
【 『縮地』が成長しました 】
カイルの足が止まる。
【 『縮地+』を獲得しました 】
【 効果時間:2秒 】
「2秒……?」
彼の口元が、自然とニィと釣り上がった。
「2秒だと!?」
彼はすぐさまそれを試した。崩れた2本の柱の間を、目にも留まらぬ速さで一気に駆け抜ける。激しく波打つ胸を押さえながら急停止すると、喉の奥から堪えきれない笑いが込み上げてきた。
(これまでの倍近く持続する)
(動き回るための時間が、丸々もう一拍分増えたんだ)
彼が振り返ると、1体の亡者が足を引きずりながらこちらへ向かってきていた。
「よぉ、相棒」カイルは指の関節をポキポキと鳴らしながら言った。「手伝ってくれて感謝するぜ」
彼は狩りを再開した。
24体、25体、30体。
彼はまるで仕事中の職人のように亡者を屠っていった。効率的に、静かに、そして淡々と。
40体。
45体。
シャツは汗でぐっしょりと濡れそぼり、両腕は鉛のように重く軋んでいた。眉の上から流れてきた血が目に入りそうになり、彼は何も考えずにそれを手甲で拭い去った。
四十九。
五十。
最後の亡者が倒れた。
【 モンスターを討伐しました:亡者 】
【 『縮地』が成長しました 】
カイルの身体が凍りついた。
【 『縮地++』を獲得しました 】
【 効果時間:3秒 】
「3秒……」彼は呟いた。
3秒間。
彼は頭の中でその意味を咀嚼した。3秒あれば、亡者なら壁を一つ越えられる。3秒あれば、自分なら間合いを詰め、一撃を叩き込み、反転して離脱することすらできる。
(3秒あれば……あの速い奴にも、ついていけるかもしれない)
(かもしれない、だけどな)
彼は崩れた石材の上に腰を下ろし、激しく肩で息をしながら、まるで馬鹿みたいにニヤニヤと笑った。
その時、彼の腹が途方もなく大きな音を立てて鳴り、危うく石材から転げ落ちそうになった。
「分かった、分かったよ」彼は自分の腹をポンポンと叩いた。「分かってるって。今やってるから」
(まだだ。まだ終わっちゃいない)
* * *
次は『骸骨弓兵』の番だった。
もう敵の行動パターンは掴んでいる。あの7秒の周期も、矢が放たれる直前の弦が軋む音も知っている。
彼はもう、瓦礫の陰に隠れたりはしなかった。
ただ走った。
カカトのすぐ後ろで、放たれた矢が石床を砕く。それでも速度は落とさない。弓兵の手が矢筒へと伸びたその瞬間、カイルは次弾までのわずかな隙を突いて『縮地』を発動した。
3秒間。
わずか一拍で距離を詰め、放たれた弓をかいくぐる。弓兵が腰の短剣に手を伸ばすよりも早く、カイルはその頭蓋へと錆びた鉄棒を叩き込んだ。
【 モンスターを討伐しました:骸骨弓兵 】
最初の一体が淡い光をドロップし、彼は震える指先でそれを回収した。
【 スキルを回収しました:アーチャー 】
それから数体を狩った後、今度は鮮やかな金の輝きが現れた。
【 スキルを回収しました:鷹の目 】
パリン、パリンと、暗闇にガラスの音が二度響く。
カイルはニカッと笑った。
「おかえり」
彼は足を止めなかった。
すべてが楽な戦いだったわけではない。ある弓兵の放った矢は彼の太ももをかすめ、別の矢は耳の端を切り裂いた。しかし、戦うたびに何かしらの学びがあり、敵を倒すたびにウィンドウがポップアップした。
【 経験値:3 / 5 】
【 経験値:4 / 5 】
【 経験値:5 / 5 】
カイルの足が止まる。
【 条件が達成されました:『アーチャー』が使用可能になりました 】
【 条件が達成されました:『鷹の目』が使用可能になりました 】
「よしっ!」
彼は誰もいない空間に向かってガッツポーズを決めた。
そして再び獲物を狩り続けた。まだ弓兵は残っているし、ここで足を止めればどうなるかを、彼は嫌というほど知っていたからだ。
すべての弓兵を片付けた頃には、ステータスの数字が再び変化していた。
【 技量熟練度:19% 】
(19パーセント)
(さっき確認した時は、まだ5パーセントだったはずだ)
彼は自分の手を握り締め、その感覚を確かめた。
(分かる。感覚で分かるぞ)
(俺の身体が、次にどう動けばいいのかをもう知っている)
* * *
『城壁守護兵』は、これまでの敵よりも遥かに手強かった。
カイルがそれを見つけたのは、二つの塔を繋ぐ連絡通路の上だった。錆びついた甲冑に身を包んだ巨大な人型の化け物で、片方の腕には巨大なタワーシールドを固定し、もう片方の手には重厚な長剣を握り締めていた。
【 モンスターを識別しました:城壁守護兵 】
【 危険度:中 】
彼は倒壊した彫像の陰に身を潜めた。
(前回来た時は、戦わずに引き返した相手だ)
(だが、今回は逃げない)
最初の一撃の応酬は、最悪の一言に尽きた。
カイルは一気に懐へ飛び込み、鉄棒を敵の盾へと叩きつけた。しかし、その衝撃はまるで雷撃のように彼の腕を駆け抜け、痺れ上がらせた。城壁守護兵は微動だにしない。奴が長剣を水平に一閃すると、カイルは慌てて身体を後ろへと投げ出し、間一髪でその刃をかわした。
「クソっ……」彼は息を荒げた。「今のは……通用しないな」
(硬すぎる。ただ力任せに叩くだけじゃダメだ)
彼は一度距離を取り、じっと観察し、思考を巡らせた。
正面は巨大な盾が覆っている。それ以外は全身が頑強な甲冑に包まれている。しかし、膝の裏にだけ、装甲プレートが重なり合うわずかな隙間が存在していた。
(膝の裏だ)
(亡者は首が弱点だった。こいつは膝がガタついてるらしい)
二度目の攻防は、劇的に改善した。
カイルは敵の攻撃を誘い、大振りの一撃を繰り出させた。すかさず『縮地』を発動。滑り込むような滑らかなステップで、一瞬にして盾の側方をすり抜けて背後へと回り込む。城壁守護兵が巨体を反転させるよりも早く、その膝の裏へと鉄棒を一度、二度、三度と容赦なく叩き込んだ。
巨体がガクリと崩れる。
カイルは崩れ落ちる甲冑の脇へと回り込み、その兜の隙間に向かって鉄棒を全力で突き下ろした。
城壁守護兵は、連絡通路を大きく揺らすほどの凄まじい大音響とともに崩壊した。
【 モンスターを討伐しました:城壁守護兵 】
両腕が激しく震えている。
肺は焼け付くように熱い。
それでも、彼の顔には笑みが浮かんでいた。
一つのウィンドウが開く。
【 ドロップ品を検知しました:2 】
甲冑の残骸から、二つの光が浮かび上がった。一つは深く揺らめく青い光。もう一つは、どこか不吉で危険な気配を孕んだ濁った緑の光だった。
【 スキルを検知しました:ルーンシェル 】
【 階級:Ⅱ++ 】
【 効果:障壁。受けるダメージを10%軽減する。 】
【 ルーンシェルを回収しますか? 】
「ああ、回収する」
【 スキルを回収しました:ルーンシェル 】
カイルは小さく口笛を吹いた。
「10パーセント軽減か。悪くないな」
彼はもう一つの光へと視線を向けた。
【 アイテムを検知しました:ゴアポイント 】
【 種別:短剣 】
【 階級:Ⅳ+ 】
【 効果:毒。この刃によって付けられた傷は、持続的な毒ダメージを与える。 】
【 備考:城壁守護兵が隠し武器として携帯していたもの。 】
カイルはウィンドウの文字を凝視した。
それから、城壁守護兵の死体を見る。
そして、再びウィンドウへと視線を戻した。
「毒の短剣……」彼はゆっくりと口にした。「こいつ、隠し持ってたのかよ」
(一度も抜かなかったな)
(抜く必要がなかったんだ。あの長剣を振り回してるだけで十分だったから。もし、俺の動きが少しでも遅れていたら。もし、俺がもっと弱くて、奴に間合いを詰められていたら……)
背筋に、ツッと冷たいものが走った。
「危ねぇ……」彼は息を漏らした。「もし俺が十分に強くなってなけりゃ、ここでまた命を一つ失ってたかもしれないってことか」
彼は慎重な手つきで短剣を回収した。再び、暗闇にパリンとガラスの音が響く。
カイルは光にかざして短剣を観察した。刃は黒く湾曲しており、そのエッジ部分にはうっすらと緑色の不気味な光沢が走っている。
(手袋なしじゃ、怖くて刃には触れられねぇな)
彼はそれを自分のベルトへと差し込んだ。
(だが、戦利品としては最高だ。もらっていくぜ)
* * *
『鎖の亡霊』は、文字通り悪夢のような存在だった。
それは歩くのではなく、宙に浮いていた。床から手のひら一枚分ほどの高さを保ち、長い身体をくねらせながら石畳の上を漂っている。その身体には錆びついた無数の鉄鎖が巻き付いており、移動するたびに鐘の音のような金属音を不気味に響かせていた。
【 モンスターを識別しました:鎖の亡霊 】
【 危険度:中 】
突如、その鉄鎖が鋭く弾け飛んだ。
鈍重でも、不格好でもない。鎖は耳をツんざくような風切り音を立てて大気を切り裂いた。それは剃刀のように鋭利で、頑丈な石柱を一撃で粉砕するほどの凄まじい威力を秘めていた。
最初の一撃が、カイルの脇腹を真横に切り裂いた。
彼は悲鳴を上げて床を転がり、間一髪で二撃目の鉄鎖が頭のあった場所の石床を粉砕するのをかわした。
「おっと、おい、冗談だろ!」
彼は慌てて柱の陰へと這いずり込んだ。
(クソっ……想像以上にヤバいな)
脇腹が焼けるように熱い。シャツは引き裂かれ、脇から一本の細い血の線が流れ落ちていた。
【 ルーンシェル:発動。ダメージを10%軽減しました。 】
(10パーセント軽減か。これが見合ってなけりゃ、今ので身体を真っ二つにされてたかもしれないな)
(最高だ。またあのギリギリの戦いってわけかよ)
彼は奥歯を噛み締めた。
(考えろ)
あの鉄鎖の動きには一定のパターンがある。常に三本一組だ。二本が攻撃用、一本が防御用。そして、鎖の亡霊が左手を伸ばすたび、その側面の鎖がほんの〇・五秒ほどだけ弛む瞬間があった。
(そこだ)
彼はその弛みをじっと待った。
そして、動いた。
『縮地』を発動。3秒間。
彼は一筋の残像となって部屋を駆け抜け、鎖の亡霊の胸へと短剣を突き立てて、力任せに抉った。
毒の効果は、まるでハンマーを叩きつけたかのように劇的だった。
鎖の亡霊は激しく、そして長く不気味に、音もなく身震いした。次の瞬間、淡い霧の帯となってバラバラに霧散していった。
【 モンスターを討伐しました:鎖の亡霊 】
カイルは脇腹を強く押さえ、激しく喘ぎながら後ろへとよろめいた。
彼はその場に立ち尽くし、待った。
何も落ちてこない。
「……」彼はぽつりと佇む床を見つめた。「おい、マジかよ?」
(あれだけ苦労して、これかよ)
彼は目元ににじんだ汗を拭った。
「よし、分かったよ。もう一回だ」
* * *
彼は次の個体を仕留めた。
ドロップは無し。
さらに次の一体を倒した。
やはり何も出ない。
だが、戦いを重ねるうちに彼は敵の動きを完全に把握していった。どの方向から最初に鎖が放たれるかも覚えた。タイミングよく石を投げつければ、防御用の鎖の気をほんの一瞬だけ逸らせることも学んだ。
途中で何度か被弾もした。だが、その大半はルーンシェルが受け止めてくれた。脇腹の傷跡は、すでに過去の武勇伝のように馴染み始めていた。
七体。
八体。
十二体。
十四体。
両腕は限界を超えて震えていたが、彼の意識は驚くほどに冴え渡っていた。
(あと一体だ)
十五体目の鎖の亡霊が、音もなく長い影を引いて彼の方へと漂ってきた。
カイルは真っ直ぐな、揺るぎない視線でそれを迎え撃った。
(お前の動きはもう分かってる)
(どう動くか、完全に視えてるんだよ)
戦いは、わずか八秒足らずで決した。
彼は一本目の鎖を紙一重でかわし、二本目を潜り抜け、すかさず『縮地』を使って敵の背後へと出現した。短剣が深く突き刺さる。毒がその役割を果たした。
鎖の亡霊が、静かに溶けるように消滅していく。
そして、床に何かが落ちた。
一本のまとまった鉄鎖だった。長く重厚で、鈍い灰色の表面にはかすかな銀の輝きが宿っている。
【 アイテムを検知しました:レイスチェーン 】
【 階級:Ⅳ+ 】
【 効果:強靭かつ鋭利。刃物系の武器に装着可能。 】
【 レイスチェーンを回収しますか? 】
カイルは頬が痛むほどに、ニカッと大きく笑った。
「ああ、回収する」
【 アイテムを回収しました:レイスチェーン 】
続いて、二枚目のウィンドウが開いた。
【 レイスチェーンを『ゴアポイント』に装着しますか? 】
【 YES / NO 】
「当たり前だろ」
彼が短剣を抜くと、鎖が彼の手首に巻き付き、カチリと軽い音を立てて柄の底部にあるリングへと固定された。
淡い光がフラッシュする。
【 『ゴアポイント』が強化されました 】
【 切れ味が上昇しました。 】
【 新能力:投擲。対象に向かって武器を投げ、鎖を使って手元に引き戻すことができます。 】
カイルはそれを光にかざした。
短剣の刃は、まるで思考の刃先のように薄く鋭く研ぎ澄まされ、その柄からは長くて眩い鎖が綺麗な曲線を描いて垂れ下がっていた。
彼は試しに、それを一度軽く振ってみた。
ヒュン、と鋭い風切り音が大気を切り裂く。
「へぇ、こいつはいいな」
彼は少し離れた場所にある柱に向かって、短剣を全力で投げつけた。
短剣はブレることなく真っ直ぐに飛び、ドン、と鈍い音を立てて強固な石柱の深くまで突き刺さり、固定された。
彼が鎖をクッと引く。
すると、短剣はまるで調教された鳥のように、彼の元へと滑らかに戻ってきた。
「よし」カイルは静かに呟いた。「よし、これならいける」
(速度、近接戦闘、遠距離攻撃)
(毒、障壁、そして3秒間の超加速)
(俺はもう、あの木の下で無様に死んだ時の男じゃない)
* * *
彼は腕に鉄鎖を巻き付け、腰に短剣を差し、城塞の廃墟を堂々と歩いて戻っていった。
空は刻一刻と暗さを増していた。城壁の周囲は静まり返り、モンスターたちは今のところ、彼を恐れるように遠巻きに距離を置いていた。
だが、カイルはそんな周囲の様子には目もくれなかった。
彼の頭の中にあったのは、ただ一頭の虎の姿だけだった。
あの木の陰で、急ぐ風でもなく悠然と身体を伸ばしていたあの姿。世界が斜めに傾いた、あの瞬間の感覚。残機というステータスの数字に刻まれた、二つの失われた命。そのすべてが、必ず返してもらうべき借金だった。
彼は上層のテラスへと続く石段を一段ずつ上っていった。
黒い鉄の扉の脇を、一瞥もくれることなく通り過ぎる。
そしてついに、庭園の入り口であるアーチへと辿り着いた。
あの木は、相変わらずそこにあった。
実も、怪しい光を放ち続けている。
そしてその下、紫色の長い影の中で、灰色と黒の縞模様を持った巨大な獣が、ゆっくりと首を持ち上げた。
カイルはアーチの境界線で足を止めた。
彼はヴェルカンを睨みつけた。
ヴェルカンもまた、その冷徹な瞳で彼を見つめ返した。
腹は鳴らなかった。
彼はその瞬間、随分と長い間、自分が空腹を感じていなかったことに気がついた。
(腹が減ってたことすら忘れてたよ)
彼は思わず吹き出しそうになった。
短剣を握る手に、さらに力がこもる。鎖が彼の袖に擦れ、サラサラと小さな音を立てた。
「よぉ、糞猫」彼は静かに声をかけた。
ヴェルカンが、ゆっくりと巨体を起こす。
「第二ラウンドだ」




