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EIGHTEEN LIVES:再生の迷宮〜二度目のチャンスのダンジョン〜  作者: ルーク
【 旅路に縛られし者へ、ようこそ 】

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10/19

5階:有毒な下水道

 淡い緑色の霧が、まるで濡れた布のように彼の身体にまとわりついていた。


 カイルは黒衣のコートの銀ボタンに片手を添え、もう片方の手を短剣の柄の近くに置きながら、ゆっくりと地下通路を進んでいった。前方からはポタポタと水滴の滴る音が聞こえる。すぐ脇の水路を流れるドロリとした緑色の汚水はブクブクと泡立ち、数秒ごとに水面へ浮かび上がった不気味な泡がパチンと弾けていた。


(よし、落ち着いて考えろ)


(俺はあの化け物に真っ二つに噛み切られる寸前だった。だが、そうはならなかった)


(そして気がつけば、俺はなぜか第五階層にいる)


 彼はふと足を止めた。


「おい」彼は特に宛てもなく、空間に向かって声をかけた。「システム」


 パッとウィンドウが開く。


【 スタンバイ 】


「どうやって俺が第五階層まで来たのか教えてくれ」


 無言。


「俺はあのヴェルカンを倒したんだよな? それとも他の誰かがやったのか? 俺はあの木の後からの記憶が全くないんだ」


ウィンドウはただ淡い光を放ちながら、静かに佇んでいるだけだった。


「……最高だな」カイルは毒づいた。「本当に役に立つシステムだよ」


(まるで、本のページを一枚丸ごと破り取られたみたいだ)


(そしてシステムは、そこに何が書かれていたのかを絶対に教えてくれない)


 彼は無理やりその思考を頭の隅へと追いやった。


(後回しだ。今は何も知らない未知の階層にいる。まずはここを調査するのが先決だ。残りの謎は、この毒霧まみれの場所から脱出してから考えればいい)


   * * *


 最初のモンスターは、カイルがそれを見つけるよりも早く襲いかかってきた。


 彼の頭上を走る鉄パイプの中から、じっとりと濡れた不気味なうめき声が聞こえた。次の瞬間、その開口部からヌルヌルとした一本の長い影が滑り出てきた。それは骨のない軟体動物のようでありながら、その円形の口内には無数の鋭い牙がリング状に並んでいた。


【 モンスターを識別しました:下水すすり(下水ガルパー) 】

【 危険度:中 】

【 警告:腐食性の猛毒ブレスを吐き出します。金属を溶かすため注意してください 】


 カイルは即座に真横へとステップを踏んだ。


 ガルパーがその口を大きく開く。


 黄色がかった緑色の濃霧が一気に吐き出され、カイルがつい先ほどまで立っていた床の鉄格子へと激しく浴びせられた。鉄の格子がジューッと凄まじい音を立てて白煙を上げる。わずか二秒の間に、強固な鉄棒はまるで熱で溶けたワックスのように黒くドロドロに軟化し、そのまま水路へと自重で折れ曲がっていった。


 カイルはそれを凝視した。


「おいおい」彼は言った。「勘弁してくれよ」


(毒耐性を手に入れたとは言っても、あの液を顔面に喰らったらどうなるか試すつもりは毛頭ねぇぞ)


 彼は短剣を抜いた。手首から鉄鎖がサラサラと音を立てて解ける。


【 『疾走(ダッシュ)』を発動しました 】

【 効果時間:10:00 】


 周囲の光景が、一気に後方へと流れていく。


 その身のこなしは、かつてヴェルカンと対峙した時と酷似していた。だが、あの時よりも遥かに滑らかで、遥かに速い。彼の肉体は、思考が完了するよりも先に次に動くべき場所を完全に理解していた。二発目のブレスを完全に頭を下げて潜り抜けると、短剣を器用に手の中で一回転させ、そのまま全力で投げつけた。


 ドン。


 刃がガルパーの柔らかい喉元へと深く突き刺さる。


 彼は力任せに鉄鎖をクッと引いた。


 ガルパーは水気を孕んだ苦悶の悲鳴を上げ、パイプに身体を打ち付けながら激しくのたうち回った。しかし、カイルはすでに次の行動に移行していた。戻ってきた短剣を空中で掴み取ると、即座に身体をひねり、今度はその脳天へと深く突き下ろした。


 猛毒の効果が、一瞬にして獣の全身へと回る。


 ガルパーは激しく身震いし、完全に力を失うと、グチャリと生々しい音を立ててパイプの奥へとずるずると滑り落ちていった。


【 モンスターを討伐しました:下水すすり 】


 カイルは深く息を吐き出した。


「今の……めちゃくちゃ上手くいったな」


(上手くいきすぎだろ)


 彼は手の中で短剣を弄んだ。


(少し前まで、危険度『中』の相手と戦う時は、いつだって死に物狂いだったはずだ。アーチャー、ウォールガード、チェーンレイス……どいつもこいつも、化け物じみて強かった。なのに――)


(今のは、ただのウォーミングアップにしか感じられなかった)


 彼はあのヴェルカンの姿を思い返した。世界が自分の目の限界を超えて斜めに傾き、その動きを何一つ捉えられなかったあの絶望。


 だが今、彼はガルパーの口が開くよりも前に、その予兆を明確に視覚で捉えていた。


(俺は強くなってる)


(それも、圧倒的にだ)


(……だけど、それはモンスターどもも同じってことか)


 ガルパーのあの無駄のない動きを見れば、それは一目瞭然だった。亡者よりも遥かに速く、弓兵よりも遥かに狡猾だ。このダンジョンは一階層進むごとに、出現するモンスターの質が明確に変化し、その危険度も確実に跳ね上がっていくのだと、彼は今更ながらに理解した。


 上へ登れば登るほど、地獄は深くなっていく。


 彼はもう一度、緑色の汚水へと視線を向けた。


「よし」彼は静かに呟いた。「絶対に油断するなよ、俺」


   * * *


 六体目のモンスターを仕留める頃には、彼はこの階層に関する三つの重要な事実を学び終えていた。


 一つ目は、この下水道には明確な生息の『リズム』があるということ。ガルパーは配管の中に潜んでいる。壁を這い回るのは、無数の足を持った細長い『配管の這い寄り(パイプストーカー)』。そして深い汚水の水溜まりには、水面下に潜みながら体温を感知して音もなく近づいてくる、白く肥大化した『酸液の膨れ物(アシッドブロート)』が浮遊していた。


 二つ目は、そのどれ一つとして、油断すれば一瞬で残機を持っていかれる油断ならない相手だということ。


 そして三つ目は――あのブロートが、この中で最も最悪な存在だということだった。


 最初の一体を処理した時、カイルは距離を取り、光の矢を使って遠距離から仕留めた。


 弓は、今や思考を挟むまでもなく彼の左手に物質化するようになっていた。淡く輝く白い曲線。弦を引くと同時に収束する青い光の矢。指を離すと、放たれた矢は凄まじい風切り音を伴う衝撃波を引いて一直線に飛び去った。


 矢が命中した瞬間、ブロートの身体が激しく風船のように弾け飛んだ。


 カイルに与えられた猶予は、脳内で(あ、マズい)と思考するわずか四分の一秒にも満たない一瞬だった。


 ドゴォォォン!!


 凄まじい爆発とともに、黄色がかった緑色の毒霧の波が地下通路全体へと猛烈な勢いで広がっていった。衝撃波が壁を激しく揺らす。天井からは無数の酸性液の滴が激しく降り注ぎ、触れた鉄パイプをジューッと音を立てて一瞬で溶かしていった。


 カイルは反射的に強固な石柱の陰へと飛び込み、コートを頭から深く被るようにして背中を丸めた。


 背後を、凄まじい熱量を持った毒霧が通り過ぎていく。


 脳内の片隅で、彼の持つ『毒耐性』のスキルがかすかに警告音のように脈打っていた。


(スキルが守ってくれてはいる。だが、これが直撃しても耐えられるかどうかの実験なんて、クレイジーな真似は御免だぜ)


 大気が完全にクリアになってから、彼は恐る恐る柱の陰から這い出て天井を見上げた。一本の太い配管が中央から完全に消滅しており、破断した断面からは今もなお緑色の危険な液体がポタポタと滴り落ちていた。


「よし」彼は言った。「こいつらは遠距離から射殺する。そして撃ったら即座に隠れる。これだ」


 それ以来、彼は常に自分の近くに身を隠せる石柱があることを確認してから行動するようになった。


 彼は独自のパターンを確立させていった。


 距離を取っての一撃。即座の遮蔽物へのダイブ。頭の中で十を数える。そして立ち上がり、再び前進する。


 すべての処理を終える頃には、その一連の動作はほとんど『ルーティン』と化していた。


(ほとんど、だけどな)


 彼の口元に、自然と不敵な笑みが浮かぶ。


(このペースなら、夕食の時間までにはこの階層のモンスターを完全に絶滅させられそうだな)


 ふと気がつくと、彼の腹は、驚くほどに静まり返っていた。


(奇妙だな……)


(あの木の下で目覚めてから、一度も空腹を感じてねぇぞ)


 彼は自分の腹を軽くさすってみたが、今は深く考えるのをやめて前へと進むことにした。


   * * *


 カイルの目の前に、その『袋』をドロップしたモンスター――『溝背負い(ガターバック)』が現れた。


 それはまるで、極端に前屈みになった人間の成れの果てのような姿をしていた。異常に長い脊椎を持ち、両腕は地面を引きずるほどに長い。その背中には、無数の金属の破片や腐り落ちたボロ布がパンパンに詰め込まれた、重そうな巨大な革袋が太いベルトで固く固定されていた。


【 モンスターを識別しました:溝背負い 】

【 危険度:中 】


 ガターバックはカイルの姿を視界に捉えた瞬間、猛烈な勢いで反転した。


 襲いかかってくるのではない。全力の『逃走』だった。


「おい!」カイルは声を上げた。「待て! 止まりやがれ!」


 彼は逃げる背中を追いかけ、三つの地下通路を駆け抜け、緑色の汚水が波立つ水路に架けられた一本の頼りない板の橋を渡った。背中の巨大な袋を激しく上下に揺らしながら、ガターバックは驚異的な速度で逃げ続ける。しかし、奴は一切攻撃を仕掛けてこようとはしなかった。ただひたすらに、逃げる。


(あの袋を、必死に守ろうとしてやがるな)


(一体、中に何が入ってやがるんだ?)


 カイルは走りながら光の矢を放った。放たれた一撃は正確に化け物のカカトを撃ち抜き、その巨体を前方に激しく転倒させた。


 ガターバックは地面を激しく転がりながら反転した。そして、ついにその長い指先を鋭く剥き出しにし、耳をツんざくような狂気じみた悲鳴を上げながら、今度はカイルに向かって明確な『殺意』を持って襲いかかってきた。


 カイルは身をかがめて鋭く頭を下げ、その懐へと滑り込ませた短剣が、ガターバックの肋骨の下を正確に捉えた。


 あとは、猛毒がすべてを終わらせてくれた。


【 モンスターを討伐しました:溝背負い 】


 化け物の巨体が地面へと崩れ落ち、背負っていた巨大な革袋が不格好に転がった。


 革袋のベルトが弾け飛び、中から十数枚の腐り果てたボロ布が無残に溢れ出す。


 カイルは深いため息を漏らした。


「ゴミかよ。やっぱりな」


 その瞬間、目の前にウィンドウがスライドするように開いた。


【 アイテムを検知しました:アイテムボックス 】

【 種別:収納 】

【 詳細:任意のアイテムを空間内に収納・保管できます 】

【 アイテムボックスを回収しますか? 】


 カイルは瞬きをした。


 彼は破裂した革袋の中へと視線を落とした。


 まだ、そこにあった。溢れ出たボロ布の山の隙間に、破裂することなくひっそりと収まっている、小さな革製のポーチ。色は黒ずみ、使い込まれているようだったが、そこには鈍く光る銀色の留め金がついていた。


「おぉ……」彼は声を漏らした。「おいおい、最高じゃねぇか」


 彼はそれを拾い上げた。


「ああ、回収する」


【 アイテムを回収しました:アイテムボックス 】


 彼の手の中で、小さなポーチが淡い光となって綺麗に霧散していった。


代わりに、彼の目の前の虚空に、直径数十センチほどの円形の白い光がぽっかりと浮かび上がった。それはまるで、穏やかな光を放つ小さなポータル(門)のようだった。


 カイルは驚いて一歩後ろへと下がった。


「よし……」彼は恐る恐る、ゆっくりと口を開いた。「これ、ただ中に物を放り込めばいいのか? それとも……」


 ウィンドウがパチリと点滅した。


【 左様です 】


カイルはその文字を呆然と凝視した。


「……」


「おい、待て。今、俺の質問に答えたか?」


しかし、ウィンドウはそれ以上何も語らなかった。


 彼はしばらくその場で待ってみた。


 何の反応もない。


「はぁ……」彼は首の後ろを困惑気味にさすった。「新機能かよ」


(システムは今まで、一度だって俺の問いかけに答えたりしなかった。ただ一方的に事実を通知してくるだけだったはずだ)


(なのに、今の質問には唐突に応答を返しやがった)


(一体、何が変わっちまったんだ?)


 いくら頭をひねっても、納得のいく答えは出なかった。彼はその疑問を、脳内にある『後回しにする問題の山』の一番上へと放り込んだ。その山は、ここにきてからどんどん高くなる一方だった。


 彼はまず、手元にあった短剣をその光のポータルへと差し込んでみた。


 刃は音もなく滑らかに空間へと吸い込まれ、完全に姿を消した。


 続いて、光の弓。それから錆びた鉄棒。最後に、手元に残っていたわずかな余剰の物資を次々と放り込んでいく。


 アイテムが吸い込まれるたびに、頭の中でチリンと心地よい鈴の音が響いた。


【 収納完了:ゴアポイント 】

【 収納完了:錆びた鉄棒 】


すべての収納を終えた時、彼の身にまとっているのは、あの漆黒のロングコートとブーツ、そして右手首にまるで手袋のように幾重にも巻き付けられた『レイスチェーン』だけだった。


(万が一のため、これだけは手元に残しておくか)


 彼は指を何度か握ったり開いたりして馴染ませる。


 鉄鎖がジャラリと静かに擦れ合った。


「よし」彼は言った。ここにきてから数日ぶりに、自分の身体が驚くほど軽くなったような解放感を覚えていた。「これでかなり動きやすくなったな」


   * * *


 彼は立ち上がり、長く続く地下通路の先へと視線を向けた。


「さてと」彼は言った。「この階層のマッピングを始めるとするか」


(暗闇で道に迷って、緑色の酸の底なし沼にでも真っ逆さまに転落するのは御免だからな)


【 マップ:猛毒の下水道 】

【 踏破率:3% 】


 彼は歩き始めた。


 それから一時間近くの時間を、彼はマッピングに費やすことになった。


 どの通路も、一筋縄ではいかない複雑なパズルのようだった。頭上には無数の配管が複雑な蜘蛛の巣のように絡み合い、足元にはブクブクと不気味に泡立つ緑色の液体の底なし沼をまたぐように、何本もの細い足場が渡されている。床のレンガの中には、頑丈そうに見えて踏むと一瞬で崩れるものもあれば、逆にボロボロに見えてしっかりと体重を支えてくれるものもあった。二度ほど、足元の古い板を踏み抜くような不穏な軋み音を聞き、二度とも彼は慌てて足を引いて別のルートへと迂回した。


 頭の中のマップが、じわじわと形作られていく。


【 踏破率:9% 】


【 踏破率:14% 】


【 踏破率:21% 】


 ふと、彼は通路の壁に設置された一つの『扉』の前に差し掛かった。


 それは暗い鉄で作られた大きなアーチ状の扉で、頑強なレンガの壁の奥深くに埋め込まれるように配置されていた。扉は固く閉ざされている。その隙間からは、淡い緑色の液体がわずかに染み出し、足元の床に小さな不気味な水溜まりを作っていた。


 カイルは歩調を緩めた。


 しばらくの間、彼はその扉をじっと見つめていた。


 だが、彼は静かに首を振った。


「流石に、リスクが高すぎるな」


 彼はその場を離れ、前進を再開した。


 それからさらに百歩ほど進んだ場所で、彼は二つ目の扉を発見した。


 今度の扉は、最初の一枚よりも少し幅が狭かった。しかし、その表面は錆びついた極太の鉄鎖でこれでもかと頑丈に縛り付けられており、側面の壁には、かつて激しい戦闘があったことを物語る古い焦げ跡が上に向かって黒々と伸びていた。


「なるほどな」彼はぽつりと言った。「これで二つ目か」


(二つの扉)


(神様は確かに言っていた。入り口は三つあり、そのうち次へ進める正解の扉は一つだけだと)


彼は片手をコートのポケットに入れ、いつでも短剣を引き出せるようにしながら歩みを早めた。


 マップの踏破率が四十パーセントに達した頃、彼はついに三つ目の扉へと行き着いた。


 それは長くて広い直線の地下通路の最奥に、ぽつりと佇んでいた。高さのある、極めてシンプルなデザインの鉄の扉で、その表面の中央には、小さな鉄製のリングが一つだけポツンと取り付けられていた。


 カイルはその正面で足を止めた。


「これで……三つすべて揃ったな」


 彼は長く、深い息を吐き出した。


(三つの入り口。第六階層へと繋がっているのは、このうちの一枚だけだ)


(残りの二つは……)


彼はその先を思考するのをやめた。神様の警告は、あまりにも明確だったからだ。


(行き止まり。あるいは、中に入った瞬間に背後から完全にロックされる死の罠)


 彼は自分の顎を指でさすった。


(なら、俺はどうすればいい? この階層のボスをどこかで見つけ出して、そいつをぶち殺せばいいのか?)


(それとも、神頼みで自分の運の良さに賭けるか?)


 彼は天井からポタポタと滴り落ちる緑色の危険な液体を見上げた。


 壁際に広がる、触れただけで肉を溶かしそうな酸の水溜まりに視線を落とす。


(もし、この階層のボスの正体が、俺の想像通りだとしたら……)


 その光景は、容易に脳裏に思い描くことができた。


 ヘドロと骨が複雑に絡み合って形成された巨大な巨体。全身から絶えず強酸の雨を撒き散らし、一歩踏み出すごとに足元のレンガをドロドロに溶かしてクレーターを作り出すような、そんな化け物。


 あるいは、身体そのものが完全に致死の猛毒液で形成された流動体の怪物か。


「あぁ」カイルはボソリと毒づいた。「百パーセント間違いない。全身が酸まみれか、あるいはボスそのものが酸の塊だ」


(そんな奴の正体を、身をもって確かめたい奴なんてどこにもいねぇよ)


(だけど、扉を勘で選んで間違えれば、その時点でゲームオーバーの行き止まりだ)


「あーー、クソっ」彼は両手で自分の顔を強く覆った。「このダンジョン、本当にプレイヤーの心を折るのが上手いよな」


 彼はその場に、長い間じっと佇んでいた。


 やがて、彼はゆっくりと両手を顔から下ろした。


(待てよ……)


(神様は確か、何かしらの『手がかり』があるはずだと言っていなかったか?)


(いや、神様じゃない。システムだ。第一階層の時、システムメッセージがそんなことを言っていた気がする)


(なら……この扉の周囲を調べれば、何かしらのヒントが見つかるかもしれないってことか?)


 彼は三つ目の扉に向き直った。


「よし」彼は言った。「徹底的に調べてやろうじゃねぇか」


 彼は一歩、その鉄の扉へと近づいた。


   * * *


 その扉は頑強な黒鉄で作られており、古い歴史を感じさせたが、手のひらを近づけると、かすかにじんわりとした温かみを帯びているのが分かった。


 彼はその場に身をかがめ、扉の敷居の石床にそっと指先を走らせた。


(酸の痕跡は……無いな)


 扉の目の前の床は、驚くほどに乾燥していた。そして、綺麗だった。これまで彼が歩いてきたすべての通路には、例外なく緑色の不気味な液体の薄い膜がレンガの表面を覆っていた。しかし、この扉の前の石畳だけは、本来の白い地肌を剥き出しにしたまま、完全に乾ききっていた。


 彼は鼻をひくつかせ、周囲の空気を吸い込んだ。


 腐敗臭はしない。薬品の鼻を突くような臭気もない。


 そこには、微かで、しかし非常に清涼な香りが漂っていた。それはまるで、冷たい湧き水のようであり、雨が上がった直後の古い地下室のような、どこか落ち着く匂いだった。


 彼は意を決して、その冷たい金属の表面に自分の耳をそっと押し付けた。


 低く、一定のハミングのような脈動音。


「へぇ……」カイルは静かに呟いた。


(よし。これは……何かしらの手がかりだな)


 彼は一歩後ろに下がり、上を見上げた。


 扉の上部にあるわずかな隙間から、微かな風が吹き抜けていた。それはまるで扉が呼吸をして息を吐き出しているかのように、ひんやりと優しく彼の頬を撫でた。


 彼は周囲の壁を確認した。


 レンガのひび割れの間には、淡い緑色の苔が小さく、柔らかいパッチのように群生していた。


(苔、か。こんな強酸まみれの場所に?)(筋が通らねぇな)(まさか……)彼はその先を思考するのをやめた。


(他の二つも確認しに戻るか)


 彼は今来た地下通路を引き返した。


 二つ目の扉の前で足を止め、彼はそれを注意深く観察した。


 焦げ跡は、思っていたよりも深くまで達していた。黒く太い筋がドアフレームに沿って伸びている。巻き付けられた鉄鎖は重々しく垂れ下がり、完全に錆びついている。鍵穴の傍らの石壁には、まるで鋭い爪を持つ何かが力任せにこじ開けようとしたかのような、長くて深い傷跡が何本も刻まれていた。


 彼は周囲の空気に意識を向けた。ここの風は、外に向かっては吹いていなかった。逆に内部へと吸い込まれており、下部の隙間に向かって塵や瓦礫の破片を引きずり込んでいた。まるで排水口のように。


「面白いな」カイルはボソリと呟き、反転した。


(残るは最初の一つ、か)


 彼は片手を顎に当て、もう片方の手で目の前にマップを浮かび上がらせながら、再び地下通路を歩き始めた。


(三つ目の扉。乾燥した床。かすかな脈動音。外への風。そして苔)(二つ目の扉。焦げ跡。爪跡。内への風)(なら、一つ目の扉は……)彼は眉をひそめた。


(一つ目の扉のところで、俺は何を見たっけ?)彼は記憶を呼び起こしようとした。黒い鉄。その下を流れる緑色の液体。(ただ通り過ぎただけだったから、注意深く見てねぇな)(一度戻って――)


 彼はさらに一歩、前へと踏み出した。頭の中のマップ、踏破した経路を示す小さなドット、自分が歩いてきた軌跡をなぞる淡い光の線。そちらに意識を集中させるあまり、彼は足元を全く見ていなかった。自分の足の目の前の石床に、一本の長く白い亀裂が走っていることに、彼は気づかなかった。


 ブーツの底が地面を踏みしめた。次の瞬間、石床が砕け散った。


   * * *


 それは崩落したのではなかった。文字通り、抜け落ちたのだ。つい先ほどまで足元にあったはずの確かな石の感覚が消え失せ、次の瞬間には完全な虚空が広がっていた。


「しまっ――」


 身体が落下するよりも早く、手首の鉄鎖が動いた。彼の右手が反射的に突き出されると、手首に巻き付いていたレイスチェーンが鞭のように鋭く伸び、通路の縁から突き出ていた一本の突起した石材へと巻き付いた。ガキィン、と鈍い金属音が響き、鎖が一気にピンと張り詰める。


 カイルは凄まじい衝撃とともに奈落の壁へと叩きつけられ、片腕一本で宙吊りになった。ブーツの先は虚しく空を蹴る。彼の遥か下方、十数メートル先には、禍々しい鮮やかな緑色に発光する致死の酸の池が、不気味にグツグツと煮えたぎっていた。


「クソッ……」彼は息を荒げた。「今のはマジで危ねぇ……」


(よし、落ち着け。体を引き上げるんだ)


 彼は空いている左手で鎖を掴んだ。


 その時、突起した石材からピキリと不穏な音が響いた。指の関節を鳴らしたかのような、乾いた小さな音。カイルが咄嗟に見上げると、鎖が巻き付いているまさにその根元に、一本の細い亀裂が走り始めていた。「嘘だろ、待て待て待て――!」彼は声を漏らし、腕の力だけで必死に、一刻も早く身体を引き上げようとした。しかし、無情にも石の突起が完全に破断した。彼の身体が、再び落下を始める。


「疾走(ダッシュ)!」


【 『疾走(ダッシュ)』を発動しました 】


 世界が、劇的にスローモーションへと変わった。


 破断した巨大な石の破片が、宙をゆっくりと回転しながら彼の脇を通り過ぎて落下していく。カイルは空中で強引に身体をひねると、奈落の壁を力任せに蹴り、その落下する石材の表面へと両足で着地した。彼の体重を受けて石材がさらに加速して落下する。その一瞬の足場を利用して、彼は全力で跳躍した。ブーツの下で石材が粉々に砕け散り、彼は耳元で吹き荒れる爆風を切り裂きながら、凄まじい勢いで上方へとロケットのように飛び上がった。通路の縁が、目の前に急速に迫ってくる。


 彼の指先が、かろうじて通路の縁を捉えた。彼は激しく呼吸を乱しながら、緑色の不気味な光を放つ酸の池の上で、再び宙吊りの状態で行き詰まった。


(助かった……)


(マジで生きて戻れたぞ!)


 しかし、その安堵も束の間、彼の指が掴んでいる通路の縁がボロボロと崩れ始めた。彼の両手の下のレンガに、蜘蛛の巣のような細い亀裂が一瞬にして広がっていく。


「冗談だろおい……」カイルは掠れた声を漏らした。亀裂はさらに広がっていく。


(嘘だろ)(嘘だと言ってくれ)


 彼は諦めたように両目を閉じた。(あーあ。どうやら、本当に残機を一つ失う羽目になりそうだな)彼が再び目をカッと見開いた、その瞬間。一本の手が、彼の右手首をガチリと力強く掴んだ。


   * * *


 その手は小さく、ひんやりと冷たかったが、あり得ないほどの超人的な怪力を秘めていた。グイッと力任せに引っ張られる。カイルの巨体は一瞬にして上方へと引き揚げられ、頑強な石床の上へと完全に仰向けにひっくり返された。彼はヒューヒューと喉を鳴らして荒い息を吐き出し、視界の前にチカチカと白い斑点が踊るのをただ見つめていた。数秒の間、彼はその場から動けなかった。


 やがて、彼は天井を見上げたまま声を絞り出した。「助かった……。本当にありがてぇ」


 思考を挟むまでもなく出た言葉だった。だが、次の瞬間、冷徹な思考が頭に追いついた。


(待てよ)(おい、ちょっと待て)(……今、誰が俺を引き揚げたんだ?)


 彼は猛烈な勢いで上体を起こしたため、視界がぐにゃりと一瞬眩んだ。


 数歩離れた場所に、一人の少女が佇んでいた。年齢は彼と同じくらい、まだ若かった。長い黒髪を首の後ろで緩く一本に束ね、いくつかの毛束が彼女の顔にかかっている。灰色のコートを身に纏い、その裾は埃で白く汚れていた。その瞳は驚くほどに静かで、深い色を湛えて真っ直ぐにカイルを見つめており、口元には控えめで上品な笑みが浮かんでいた。


 彼女の頭上には、淡く光る一つのアイコンが浮かんでいた。そこにはただ、名前だけが刻まれている。


【 橘 キラ 】


 カイルは呆然と瞬きをした。(何だその名前?)これまで一度も聞いたことのない、奇妙な響きの名前だった。


(そんなことより……)


 彼の心臓が、ドクンと奇妙な高鳴りを上げた。(ここにきてから、初めて人間に会ったぞ……!)


「気をつけないとダメだよ」少女が口を開いた。その声は低く、どこか心地よい温かみを帯びていた。「この階層の床は、本当に風化が進んでいて不安定だから」


 カイルは立ち上がり、衣服についた埃をパパッと払い落とした。「あぁ」彼は言った。「今まさに、身をもってそれを痛感したところだ」


 彼は少し、気恥ずかしそうにぎこちなく頭を下げた。「とにかく、ありがとな。本当に命拾いしたよ」


 少女は微笑んだ。「気にしないで」


 彼女は首を少し傾げた。「外の第五階層に来たのは、これが初めて?」


「あぁ」彼は答えた。「お前は?」


「私?」彼女はクスクスと静かに笑った。「実は、ここにはもう随分と長くいるんだ。この階層のボスをどうやって片付けようか、ずっと考えていたところでね」


「マジで?」


「マジだよ」


 彼女の瞳には、敵意のようなものは一切なかった。「ところで、君は一人なの?」


「あぁ」


 彼女はカイルをじっと凝視した。「え……ちょっと待て」彼女が一歩、前へと踏み出してきた。「それって、第一階層から第四階層までのボスを……君が一人で全部ぶち殺してきたってこと?」


 カイルは口を開き、閉じ、再び開いた。「まぁ、そうなるな」彼は言った。「色々と……複雑な事情があってよ」


(これ以上に、核心を突いた真実はねぇな)


 彼女は長い間、カイルを観察するように見つめていた。やがて、今度は先ほどよりも少し大きな笑みを浮かべた。「面白いね」


 カイルは彼女の頭上へと視線を向けた。(こいつが赤のマーカーか、それとも青のマーカーかを確認したい)


 彼はその頭上の名前アイコンへと意識を集中させた。……何も起きない。ただ名前が表示されているだけだった。色もなければ、何かしらのマークすら付いていない。(なんでステータスアイコンが見えねぇんだ?)(青か赤か、それだけでも知りたいってのに)


 その時、彼の目の前に、小さくて淡いウィンドウが滑り込むように開いた。


【 対象はスキル『隠蔽(コンシール)』を使用し、自身のステータスを隠蔽しています 】


 カイルは驚いて瞬きをした。「またシステムが俺の問いかけに答えやがった……」彼はボソリと呟いた。「おいおい、一体どうなっちまってんだ?」


 彼はしばらく待ってみたが、やはりそれ以上の通知は来なかった。(まぁ、いい)


 彼は少女をじっと見つめていた。(隠蔽、か)(あのヴェルカンが姿を消すのに使っていたのと同じスキルだ)(ってことは、こいつもあれと同じ技術を持ってるってことかよ)


 彼の喉の奥が、緊張でギュッと締め付けられる。(こいつ、相当強いかもしれないな)


「ほら」キラが言った。「いつまでそんな場所で突っ立ってるの?」


 カイルはハッと我に返った。


「モンスターどもが集まってくる前に、早くこのエリアから離脱しないと」


「あぁ、そうだな」


 彼は彼女の背中を追うように、その一歩後ろへと付いていった。


「どこに向かってるんだ?」


「ここに来た時に見つけた、安全な隠れ家だよ」


 二人はしばらくの間、無言のまま地下通路を歩いた。


「ところで」カイルは口を開いた。「お前のこと、なんて呼べばいい?」


「キラって呼んで」彼女は歩きながら、肩越しに振り返って言った。「そっちの君は、カイルでしょ?」


「あぁ」


「そっか」彼女は優しく微笑んだ。「よろしくね、カイル」


 二人は淡い緑色の霧の中を、並んで歩み進めていった。

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