8階:ランタンフォール
カエルとキラがダンジョンの奥深くへ進むほど、各階層は危険を増していく。時に、最も美しいものこそ、決して触れてはならないものなのだ。
第8階層は、生き残るために必要なのは力だけではない、ということを思い出させてくれる。時には、観察眼や忍耐力、そして残された僅かな選択肢を最大限に活かすことが重要なのだ。
そして今、カエルは階層ボスを隠れ家から誘い出す決意をした。
果たして、その計画が彼にとって上手くいくかどうか、見ものだな。
読んでくれてありがとう。次の章でまた会おう!
―― ルーク
(完全に手詰まりだ……。この第八階層は、これまでの全ての法則が通用しねぇ)
カイルは頭を抱え、浮かび上がる半透明のマップを凝視した。
マップの表示はただ淡い光のシミのようにぼやけており、三つのアーチの先はどれも一様に『未知の領域』を示す完全な黒塗りで埋め尽くされている。下水道の時のように酸の海が染み出しているわけでもなく、果樹園の時のように音の周期があるわけでもなく、白骨の階段の時のように塔の幾何学的な構造に矛盾があるわけでもない。
ただ、等間隔に並んだ三つの黒石のアーチと、それらを妖しく、等しく照らし出す黄金のランタンの列があるだけだった。
カイルの首元のマフラーに、微かに汗がにじむ。
(システムの警告通りだ。環境のヒントが、文字通り一つも存在しねぇ。……いや、存在するヒントの全てが『同じ(偽物)』なんだ)
「カイル……」
キラが彼の黒いコートの袖を、さらに強くぎゅっと握り締めた。
「どの扉が正解か、分からない?」
「あぁ……」カイルは掠れた声を絞り出した。「今回はマジで分からん。五感も、マップも、全部使い物にならねぇ。どこを選んでも、ただ奈落へ真っ逆さまに歩かされるような不気味さしかねぇんだ」
彼の胸の奥で、底の知れない焦燥感とパニックの波が激しく渦巻く。
だが、その時。
カイルの手を握るキラの指先が、不思議なほどにひんやりと冷たく、そしてどこまでも『穏やか』であることに気がついた。彼女はこの圧倒的な暗黒と、正解のない死の罠を目の前にしても、微塵も怯えてなどいなかった。
彼女は下からカイルの顔を覗き込み、その口元に、いつも通りの上品で、どこか狂気を孕んだ美しい微笑みを浮かべた。
「迷う必要なんてないよ、カイル」
彼女の声は優しく、甘く、彼の脳髄を優しくとろけさせるかのように響いた。
「どれが正解かなんて、関係ないよ。もし間違った扉を選んで、その先にどんな化け物や死の罠が待ち受けていたとしても――私がこの新しい力で、全部綺麗に切り裂いて、君の道を切り開いてあげるから」
彼女の両眸が、暗闇の中で妖しく真紅に燃え上がる。
「君はただ、私の隣で、私のことだけを見て進んでくれればそれでいいんだよ?」
カイルはその言葉に、これまでで最も強烈な『違和感』と、背筋が凍りつくような悪寒を覚えた。だが、今の彼には、この狂気じみた少女の差し出す手を拒むだけの明確な選択肢は残されていなかった。
彼は深く息を吸い、意を決して、中央の二つ目のアーチへと歩みを進めた。
「……あぁ、分かった。お前を信じるよ、キラ」
――彼らの魂の最奥に潜む『S』は、脳内の暗闇の中で、今や堪えきれないといった風に狂おしい爆笑の声を響かせていた。
(あはははは! 最高! 最高よカイル! ついにここまで来たわね!)
(環境のヒントが嘘を吐く世界で、貴方はついに『狂気』そのものを道標に選んだのよ!)
(さあ、その二つ目のアーチをくぐりなさい。その先で、貴方の愛らしいヤンデレお嬢さんが、一体どんな美しい血飛沫の宴を見せてくれるのか、私は本当に楽しみで仕方がないわ!)
それは、これまでに出会ったどの化け物よりも巨大だった。
炎の輪が激しく揺らめき、消えかける光の中で、その悍ましい輪郭がじわじわと浮かび上がってくる。それは一本の巨大な、ねじくれた『柱』のようだった。だが、その表面は無数の半透明の肉片が蠢く流動体で形成されており、その中央には、人間の胴体ほどもある巨大なランタンのガラスケースが埋め込まれていた。
そのガラスの奥で、ドロドロとした真紅の炎が不気味に燃え盛っている。
【 モンスターを識別しました:ランタン喰らい(ランタンイーター) 】
【 危険度:階層ボス(フロアボス) 】
「……あいつが、この階層の主か」カイルは声を絞り出した。
奴が動くたびに、周囲の闇が物理的な質量を持って彼らへと押し寄せてくるようだった。足元の炎の輪が急激に小さくなり、周囲を漂っていた黄金のランタンが、次々と奴の肉体へと吸い込まれては消失していく。文字通り、光を『喰らって』いるのだ。
「カイル」キラの声が耳元で響いた。「あいつのコア……あのガラスの中の炎を消せばいいんだね?」
「あぁ、間違いない!」
カイルは即座に叫んだ。
【 『疾走』を発動しました 】
世界が劇的に速度を落とす。
カイルは一筋の黒い残像となり、ランタンイーターの足元へと滑り込んだ。手首の鉄鎖が鋭く弾け飛び、『ゴアポイント』が閃光となって奴の流動する肉体へと突き刺さる。強烈な手応え。抉り抜くと同時に致死の毒が注ぎ込まれたが、相手は痛気にする風でもなく、巨大な肉の触手を鞭のようにしならせてカイルを薙ぎ払おうとした。
「させないよ!」
銀色の凄まじい斬撃波が、カイルの目の前を鋭く駆け抜けた。
キラが放ったS+級スキル『裂空の弧月』の一撃。その美しく狂気じみた三日月型の衝撃波は、迫り来る巨大な触手を根元から一瞬にして綺麗に両断し、背後の石壁までをも深く切り裂いた。
ボスが耳をツんざくような、地鳴りのような咆哮を上げる。
「ナイスだ、キラ!」
カイルは着地すると同時に左手を掲げ、光の弓を物質化させた。弦を極限まで引き絞る。番えられた青い光の矢の周囲に、猛烈な大気の渦が収束していく。
【 『風の射手』:発動 】
「吹き飛べッ!」
放たれた矢は、凄まじい爆風を伴って一直線にボスの胸部へと着弾した。ドゴォォォンという大音響とともに奴の流動する肉体が大きく弾け飛び、中央の巨大なガラスケースが完全に露出する。
むき出しになった、真紅のコア。
「今だよ、カイル!」
キラが叫び、カイルはすでに次の行動へと移っていた。戻ってきた短剣を逆手に掴み直すと、足元のレンガを力任せに蹴り、剥き出しになったガラスケースに向かって真っ直ぐに跳躍した。
「これで、終わりだぁぁ頭!」
カイルは渾身の力を込め、短剣をそのガラスのど真ん中へと突き立てた。
パリィィィンッ!!
ガラスが粉々に砕け散り、中の真紅の炎が激しく煙を上げて消滅していく。ランタンイーターの巨体は、まるで支えを失った泥のようにドロドロと地面へと崩れ落ち、そのまま光の粒子となって暗闇の中へと完全に霧散していった。
【 第八階層ボス:ランタンイーターを討伐しました 】
カイルは激しく地面に着地し、肩で息をしながら短剣を引き戻した。
その瞬間、彼らの背後にあったあの三つの黒石のアーチの頭上で、チリンと心地よい鈴の音が響いた。
中央の『二つ目のアーチ』だけが、突如として鮮やかな緑色の光を放ち始め、確かな進路を示したのだ。
「……やった、な。正解は二つ目だ」カイルは掠れた声で笑った。
「うん、やっぱりカイルの作戦通りだったね」
キラが彼の隣へと歩み寄り、その繋いだ手にそっと自分の指を絡ませた。彼女の瞳は暗闇の中で未だに怪しく真紅に潤んでいたが、その口元には、いつも通りの上品で穏やかな笑みが完璧に修復されていた。
(流石は私のカイル。どんな絶望的な場所でも、君は私のために道を切り開いてくれる)
(さあ、次の階層へ行こう? 邪魔な虫はもう誰もいない。この地獄の先まで、ずっと二人きりで登っていこうね)
衣服の奥、彼女の手首に染み付いた血の匂いは、激しい戦闘の硝煙にかき消されてカイルに届くことはなかった。カイルはただ、彼女の手の温もりに安堵しながら、緑色に輝く二つ目のアーチの先へと歩みを進めた。
彼らの魂の最奥に潜む『S』は、脳内の暗闇の中で、今や狂おしい愉悦の笑声を響かせていた。
(あはは、お見事! 本当に最高の一幕だったわ、カイル!)
(ボスを倒して道を無理やりこじ開けるなんて、どんどん『怪物』に近づいていくじゃない。その隣にいる血塗られたお嬢さんと、貴方は本当にお似合いの二人よ)
(さあ、次はいよいよ第九階層。第十階層の守護者のフロアを目前に控えたその場所で、一体どんな美しい破滅の物語が紡がれるのか、私は本当に楽しみで仕方がないわねぇ?)




