第7 フロア:消えた部屋
【 安全地帯に進入しました 】
【 自動回復が開始されます 】
石の扉が背後で静かに閉まると同時に、視界いっぱいに緑の通知が優しく浮かび上がった。
カイルは全身の力が抜けるのを感じ、その場にどっかりと座り込んだ。床を覆う苔はまるで最高級の絨毯のように柔らかく、彼の傷ついた身体を温かく包み込んでいく。
「……正解だ」彼は小さく息を漏らした。「ここが、本物のセーフゾーンだ」
キラが彼の隣に滑り込むようにして腰掛けた。その静かな瞳が、熱を帯びてカイルをじっと見つめている。
「やっぱり君の言う通りだったね、カイル。外へと突き出す二つの道は、ただプレイヤーを虚空の奈落へと叩き落とすための『死の罠』……この塔の湾曲に沿って内側へと曲がる道だけが、隠された本物のセーフゾーン(安全地帯)に繋がっていた」
「あぁ……」カイルは少し照れくさそうに首の後ろをかきむしった。「ただの幾何学の計算だよ。構造の矛盾に気づけば、誰だって見破れる」
「ううん、そんなことないよ」
キラは彼の首元のマフラーにそっと手を伸ばし、その結び目を優しく整え直した。彼女の手は小さく、ひんやりとしていたが、その奥底からは奇妙なほどに強烈な執着の熱が伝わってくる。
「君は特別だよ、カイル。私の、大切な人……」
彼女の口元に浮かぶ笑みは、まるで純粋な少女のように無垢で、美しかった。
――しかしその衣服の奥、彼女の手首には、あのミレイユを完全に屠った際の『生々しい血の匂い』が、まだかすかに、だが確実に染み付いていた。
カイルはただ、彼女の異様なまでの近さに心臓を少し高鳴らせながら、再び静かに目を閉じた。
彼らはいま、第七階層を完全に攻略し終えたのだ。
だが、その肉体の内側――魂の最奥に潜む真紅の瞳の『S』は、システムのバグが弾けるような不敵な笑声を、脳内の暗闇で狂おしく響かせていた。
(あはは、最高ね! カイル、幾何学の計算ですって? 貴方ったら、どんどんこの地獄のルールに馴染んでいくじゃない)
(だけど気をつけなさい? その隣にいる愛らしいお嬢さんは、貴方が正解を選ぶたびに、貴方の『特別』を独占するために周囲のすべてを綺麗に消し去っているのだから)
(さあ、次はいよいよ第八階層よ。この白骨の階段を上り詰めた先で、一体どんな悍ましい『試練』が貴方たちを待ち受けているのかしらね?)
カイルはその文字を二度見した。
【 警告:この階層における環境の手がかりは極めて不確実です 】
これまでの階層では、酸の海、錆びついた鉄鎖、あるいは建物の幾何学的な構造といった「明確な物理的法則」が、必ず正解への道標になっていた。しかし、この第八階層『ランタンフォール』は最初からそのルールを真っ向から否定しにかかっていた。
「手がかりが不確実……?」カイルは眉をひそめた。
「どうしたの、カイル?」
キラが彼の繋いだ手に少し力を込めながら、心配そうに顔を覗き込んできた。
「いや、システムメッセージだ。この階層のヒントは当てにならないらしい」
カイルはそう言いながら、ゲートの先へと一歩を踏み出した。
視界に飛び込んできたのは、底の知れない漆黒の闇だった。上も下も、どこまでが地面でどこからが虚空なのかすら判別できない。その圧倒的な暗黒の中に、無数のランタンが星々のようにぽつぽつと浮かび上がっていた。あるものは淡く、あるものは妖しく揺らめき、静かに空間を漂っている。
耳を澄ませても、風の音すら聞こえない。完璧な、無音の世界。
「……なるほどな。匂いも、音も、風も無い。手がかりが不確実っていうのはこういうことか」
カイルは右手首に幾重にも巻き付けられた『レイスチェーン』の感触を確かめ、奥歯を噛み締めた。これまでの「観察」という最大の武器が、この階層では事実上封じられているに等しかった。
(勘で選ばせるための、完全な運ゲーってわけかよ。ふざけやがって)
彼の胸の奥で、再び冷たい焦燥感がじわじわと広がり始める。
しかし、彼の隣に立つキラは、その漆黒の闇を見つめながら、相変わらず穏やかで上品な微笑みを絶やしていなかった。彼女の左手はカイルの手をしっかりと握り締めたままで、その指先からは、どこか熱狂的とも言える強烈なまでの安心感が伝わってくる。
「大丈夫だよ、カイル」彼女は囁くような、甘い声を出した。「どんなに暗い場所でも、私が君の目になってあげる。君の邪魔をするものは、全部私が消してあげるからね」
彼女の瞳の奥に、怪しい真紅の光がチラリと宿る。
カイルはただ、その言葉に微かな違和感を覚えながらも、今はこの暗黒の階層を突破することだけに全意識を集中させ、闇の先へと歩みを進めた。
――彼らの肉体の内側、魂の最奥に潜む『S』は、システムのバグが弾けるような不敵な笑声を、脳内の暗闇で狂おしく響かせていた。
(あはは、傑作ね! カイル、ついに『ルール無用の地獄』の始まりよ)
(環境のヒントが嘘を吐く世界……。そんな場所で、貴方は一体何を信じて進むのかしら?)
(でも、隣のお嬢さんにだけは気をつけなさい? 彼女は貴方が迷うたびに、貴方を自分の世界に閉じ込めるためなら、どんな狂気だって喜んで受け入れるのだからね)




