第6層(セーフゾーン):静寂の門
(危ねぇ……。前の階層の推理に引っ張られて、危うく『漆黒の門』を選んで罠に飛び込むところだった。今回は『緑青の門』が正解だ)
カイルはフゥと胸をなでおろし、自分の観察眼が冷や汗交じりの直感で勝ったことを確信した。
「さあ、行こう」
彼は太い鉄鎖のカーテンをくぐり、緑青の門の先へと進んでいった。
* * *
彼が最初に足を踏み入れた。
緑青の門の先は、淡く温かい光に照らされた、長く狭い通路へと続いていた。その通路の最奥には、低い石造りの天井と、踏みしめられた柔らかい苔の絨毯が広がる円形の広間が待っていた。
彼はベンチにどっかりと腰を下ろした。
【 安全地帯に進入しました 】
【 自動回復が開始されます 】
肩にずっしりと乗っかっていた重荷が、一気に転がり落ちていく。
「こっちで正解だ!」彼は通路の奥に向かって叫んだ。彼の声が心地よく壁に反響する。「入ってくれ!」
一瞬の後、キラが中へと入ってきた。
彼女は嬉しそうに微笑み、その両眸は爛々と輝いていた。
「本当に、また当てちゃったね」
「運が良かっただけだよ」
「ううん」彼女はカイルのすぐ隣、身体を寄せるようにして座った。「君が、本当に強いだけだよ」
カイルはそんな風にストレートに褒められ、何と言っていいか分からなかった。
彼は少しきまり悪そうに、視線を別の方向へと逸らした。
* * *
だが、その安全地帯は、完全に無人というわけではなかった。
広間の少し離れた奥、小さな石造りのテーブルの周囲に、四人の先客が腰掛けていた。
足を引きずり、灰色の髭を蓄えた、背の高い年配の男。
顎のラインに一本の鋭い傷跡を持つ、がっしりとした広い肩幅の女。
カイルとそれほど年齢の変わらない、怯えたように絶えず扉を気にしている少年。
――そして、一人の少女。
年齢は二十一歳前後、短く切り揃えられたブラウンの髪と、敏捷そうで利発な瞳が印象的な少女だった。彼女はカイルたちが部屋に入ってきた瞬間に顔を上げ、その表情を一気にパッと輝かせた。
「新しい顔ね」彼女は言った。
「あぁ」
「私はミレイユ。こっちはドラン、ブリサ、そしてトマス」彼女は手をひらひらと振った。「緑青の門を通ってきたの?」
「あぁ」
「緑青の門!」ミレイユは跳ね起きると、こちらへと歩み寄ってきた。「誰もあの緑青の門なんて通らないわ。私たちの仲間の半分は漆黒の門へ向かって、二度と戻らなかった。私たちも同じヘマをするところだったのよ」
テーブルからドランが鼻を鳴らした。
「運が良かった。俺たち二人が後ろに残っていたからな」
「君が謎を解いたんだね」ミレイユが言った。「どうやって?」
カイルは首の後ろを少し引っ掻いた。
「鐘の音を数えたんだ。それから鉄鎖の様子を見た」
「鐘の音を数えた、か」彼女は笑った。「天才的ね」
彼女の視線がカイルの肩、鉄鎖のかすかな輝き、そしてマフラーへと落ちた。
「それにそのスキル。果樹園で君が戦っているのを遠くから見ていたの。あの風の矢……あれは普通のアーチャーの技じゃない。どうやって進化させたの?」
「勝手にそうなったんだよ」
「じゃあ、その速度は? 最初は『縮地』から始まったの?」
「あぁ。それが『疾走』になった」
彼女の両目が大きく見開かれた。
「疾走! 私、何週間も縮地を進化させようと必死になってるの。毎回の戦闘で使っているのに、何も起きないのよ」彼女はカイルの手を自分の両手でぎゅっと握り締めた。「お願い。どうやったのか教えてくれない? 何でもするわ。ただ、どんな条件が必要なのか知りたいの」
カイルは瞬きをした。
彼女の手は温かく、素早く、そして切実な熱を帯びていた。
「教えてやりたいのは山々だけどよ」彼はぎこちなく言った。「どうやって起きたのか、俺自身もさっぱり分からねぇんだ。目が覚めたら勝手にそうなってた」
「分からないの?」
「あぁ、すまん」
彼は自分の手を、優しく引き抜こうとした。
ミレイユはもう一瞬だけ、その手を強く握っていた。
それからふっと手を離し、少しきまり悪そうに笑った。
「ごめんなさい。ちょっと興奮しちゃって」
「気にするな」
彼はキラの方へと向き直った。
彼女は彼が離れた時と全く同じ場所に腰掛けていた。
その口元には、いつも通りの微笑みが浮かんでいる。
しかし、彼女の両手は膝の上できれいに折り畳まれており、その瞳は静かで、どこか辛抱強い関心を湛えてミレイユをじっと見つめていた。
* * *
ドランは自分の知っていることを彼らに話してくれた。
静かな声を持つ背の高い彼は、長い沈黙を挟みながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。彼はカイルがこれまで出会った誰よりも長く、このダンジョンに囚われている男だった。
「上層の階層には、たちの悪い連中がいる」彼は言った。「青のマーカーだろうが、赤のマーカーだろうが関係ない。そのうちの何人かは、ただの娯楽として他のプレイヤーを狩り続けている。次の階層へ進む直前まで待ち伏せして、そこから奈落へ叩き落とすんだ。お前の残機が完全にゼロになるまで、何度も、何度もな」
「なんでそんなことを……?」カイルが尋ねた。
「できるからさ」ドランは肩をすくめた。「あいつらには、上へ登ろうなんて意志は端からない。ただ、他人の絶望を楽しむのが好きなだけだ」
カイルの胃のあたりが、不快にギュッと締め付けられた。
「そいつらに、名前はあるのか?」
「一つだけ、聞いたことがある」ドランの目は疲れ切っていた。「『引き潮』だ」
(アンダートウ、か)(ひどく不吉な名前だな)
「もしそんな連中を見かけたら」ドランは言った。「迷わず走って逃げろ」
キラが静かに声を漏らした。
「そうするね」
* * *
セーフゾーンの光が微かに減光し、この場所に夜が訪れた。
ミレイユのグループは部屋の隅で身体を丸めていた。カイルは壁に背を預けて座り込む。
キラはそのすぐ隣、身体をぴったりと寄せるようにして座り、両膝を抱え込んだ。彼女の肩が、彼の腕に優しく押し付けられる。
「君、あったかいね」彼女が微かに呟いた。
「お前もな」
「ん……」
彼女はカイルの肩に頭を乗せた。
カイルの両目が、じわじわと自然に閉じられていく。
(少しは、いいかもしれないな)(ほんの少しの間くらいなら、身体を休めてもいいはずだ)
彼は、彼女の静かで規則正しい呼吸の音を聞きながら、心地よい眠りへと落ちていった。
* * *
キラはパチリと両目を開けた。
彼女は長い間、微動だにせず横たわったまま、彼の寝息に耳を澄ませていた。
やがて、彼女は一筋の煙のように、音もなくしなやかに立ち上がった。
広間の向こう側では、ミレイユもまた目を覚ましており、ベンチの端に腰掛けてノートの束に何かを熱心に書き殴っていた。
キラは足音を立てずに彼女の元へと歩み寄った。
「眠れないの?」
「あ……」ミレイユは shy(内気)な笑みを浮かべて顔を上げた。「うん。カイルが言っていたことを、ずっと考えてて。スキルの進化についてね」
「分かるよ」
キラは彼女の隣へと腰掛けた。
「私、ちょっと見せてあげられるよ」彼女は言った。「そのことについてね」
「本当に?」
「この通路の突き当たりに、ちょっといい場所があるんだ。そこで私、進化のヒントをいくつか掴んだ気がして。すごく静かな場所だよ」キラの声はどこまでも穏やかで、親しみやすかった。「一緒に行こ?」
ミレイユの顔が一気にパッと輝いた。
「もちろん!」
* * *
広間の先へと続く通路は長くて薄暗かった。
二人の足音が、柔らかい苔の絨毯の上で静かに反響していた。
キラは少し前を歩いていた。
「君、すごく可愛いね」彼女は言った。
「え……」ミレイユは少し照れたように笑った。「ありがとう。自分ではそんな風に思ったことないけど……」
「君が、あの子の手を取った時」
ミレイユの歩調が、不自然に緩んだ。
「……え?」
「カイルの手だよ。君、両手でぎゅっと握り締めてたでしょ」キラが、ゆっくりと反転した。「随分と長い間、離さなかったよね」
彼女の顔には、完璧なまでに美しい微笑みが浮かんでいた。
だが、その両眸は、全く笑っていなかった。
「別に、変な意味があったわけじゃないのよ」ミレイユは本能的な恐怖を覚え、一歩後ろへと下がった。「私はただ……」
「分かってるよ」
キラの手の中に、一振りの鋭利なナイフが物質化するように出現した。
「変な意味なんて無かったことくらい、ちゃんと分かってる」
【 『隠蔽』を発動しました 】
次の瞬間、彼女の姿が完全に虚空へと消失した。
ミレイユが悲鳴を上げようとしたが、その声は途中で無残に掻き消された。
* * *
暗闇の中に、肉が濡れて引きちぎれるような生々しい音が響き渡った。
続いて、一つの肉塊が苔の上へとガクリと崩れ落ち、床一面に鮮烈な血の水溜まりが急速に広がっていった。
キラはその死体の真上に立ち尽くしていた。
彼女の手首を、一筋の細い血が伝い落ちる。彼女は自分の衣服の袖を使い、短剣の刃についた血液を慎重に、丁寧に拭い去った。
「ごめんね」彼女は静かに声を漏らした。「君に個人的な恨みがあるわけじゃないんだ」
彼女は身をかがめ、物言わぬ骸と化した少女の顔から、一房の髪の毛を優しく払い除けた。
「だけど――私のもの(・・・・)に触れるのは、誰であれ許さないの」
やがて、その死体がゆっくりと輪郭を崩し始めた。
まずは外側から、そして中央へと。わずか数秒の間に肉体は淡い霧へと変わり、その霧も消え去って、床には大量の血痕だけが取り残された。
(あの子は今頃、残機を一つ失って、また一番下の第一階層で目を覚ましてるはずだよ)
(また登ってくればいい。みんなそうしてるんだから)
キラは立ち上がった。
彼女は通路の小さな洗面台で入念に両手を洗い、爪の間の汚れまで完全に擦り落とし、黒いコートの襟元を綺麗に整えた。
彼女が広間へと戻ってきた時、その口元にはいつも通りの穏やかな笑みが完璧に修復されていた。
彼女はカイルのすぐ隣に座り、その肩にそっと頭を預け、穏やかに両目を閉じた。
* * *
翌朝、ミレイユが座っていたベンチは完全に空っぽになっていた。
「あいつなら朝早くに出て行ったぞ」ドランがひょいと肩をすくめた。「よくあることだ」
カイルは不思議そうに眉をひそめた。
「挨拶も無しにか?」
「そういうこともあるさ」
キラがカイルに向かって、清らかな水が満ちた水筒を差し出してきた。
「ほら」彼女は明るい声で言った。「しっかり飲んでね。今日も長い一日になるんだから」
彼はそれを受け取った。
(奇妙だな……)(すごく良い奴そうに見えたのに)
彼は小さく首を振り、水筒の水を一気に飲み干すと、二人は第七階層への扉を開けて地獄の先へと出発した。




