6階:連鎖果樹園
その道具屋は、脇通路の壁に埋め込まれた石造りのカウンターに過ぎなかった。
店主の姿はない。棚には何列ものガラス瓶が並び、畳まれた衣服がいくつか置かれているだけだ。カイルが近づいた瞬間、目の前に淡いウィンドウが滑り込むように開いた。
【 道具屋 】
【 代償:試練 】
「へぇ」彼は言った。「システムが店番までやってるってわけか」
彼は無地の暗色のシャツと、頑丈なズボンを一着ずつ購入した。それから通路の隅に移動して着替えを済ませ、その間、キラは行儀よく天井をじっと見つめていた。着替えを終えたカイルが戻り、再び漆黒のコートを肩に羽織ると、ようやくまともな人間に戻ったような心地がした。
キラは小さな回復ポーションを3本購入した。
それから、何も言わずに灰色のマフラーを買い、それをカイルの首元に巻き付けた。
「次の階層からは寒くなるから」彼女は言った。「私に感謝することになるよ」
「俺、寒さは平気なんだけどな」
「ううん、寒くなるから」
彼女の指先がマフラーの結び目を整え、下から彼を見上げて微笑んだ。
カイルは照れくさそうに頬を掻いた。
(いい奴だな)
(妙な優しさだけど……まぁ、悪くない)
(誰かにこんな風に構われたのなんて、いつ以来だろ――)
彼はその先を思考するのをやめた。
* * *
二人はセーフゾーンで数時間ほど休息を取った。
カイルは壁に背を預けて石のベンチに座っていた。キラはその隣に腰掛けていたが、いつの間にか、彼女の頭が彼の肩にこてんと乗せられていた。
カイルはそれに気づいたが、身体を動かそうとはしなかった。
(ただ疲れてるだけだろ。長い一日だったからな)
(こいつの隣は、不思議と落ち着く)
彼は目を閉じ、静かに滴る水音に耳を傾けた。
「カイル」半分眠りに落ちたキラが、微かに呟いた。
「ん?」
「黙っていなくなったりしないでね」
「ああ、しないよ」
本心からの言葉だった。それを口にすることは、ごく自然で当たり前のことのように感じられた。
* * *
第六階層は、一つの『音』から始まった。
平坦で灰色の平原の彼方まで響き渡る、チリンという細く澄んだ銀色の鈴の音。
カイルはゲートをくぐり抜け、その場に足を止めた。
視界の先にはどこまでも木々が広がっていたが、それは本物の植物ではなかった。すべては黒くねじくれた鉄でできており、その枝はまるで人の指のように不気味に曲がっている。そして、すべての枝からは無数の鉄鎖が重々しく垂れ下がり、その鎖の先には一つずつ『鐘』が吊り下げられていた。
鐘のサイズは、小さなものから、大きなもの、そして途方もなく巨大なものまで様々だった。真鍮、青銅、そして黒ずんだ銀。それらがどこからともなく吹き抜ける風に揺られ、一斉に鳴り響いていた。
揃って鳴るわけではない。調和した旋律でもない。それは、大気を絶え間なく震わせる、ザワザワとした落ち着きのない金属音の嵐だった。
【 第六階層:鉄鎖の果樹園 】
「綺麗……」キラがぽつりと囁いた。
「うるさいな」カイルは言った。
彼がマップを開くと、踏破率の数字がごくわずかずつせり上がっていった。
【 踏破率:1% 】
ウィンドウがスライドするように現れる。
【 警告:その下を何かが通過するたび、鐘が鳴り響きます 】
【 モンスターは音に反応して集結します 】
「ハッ、そりゃあ素敵だな」カイルはボソリと毒づいた。「一歩進むごとにアラームが鳴るってわけか」
(よし、考えろ)(何も触るな。慎重に、ゆっくり動くんだ)
彼が注意深く、前方に一歩を踏み出した。
頭上の鐘が、チリンと、繊細で小さな音を立てて鳴った。
すると、少し離れた場所にある別の鐘が、呼応するように鳴り響いた。
さらに、三つ目の鐘が続く。
* * *
最初の『打鐘者』が、二十歩ほど先の枝から降ってきた。
それは蝙蝠のように一本の長い腕で枝にぶら下がっていた、人間の大人が丸々収まるほどの大きさの、鉄の肋骨を持つ化け物だった。本来なら心臓があるべき胸のなかに、黒い金属製の大きな『舌』をぶら下げている。奴は一度大きく身体を揺らすと、地面の草の上へと軽々と着地した。
【 モンスターを識別しました:打鐘者 】
【 危険度:中 】
【 備考:鐘が鳴るたび、さらなる個体が集結します 】
「さらなる個体、ね」キラが静かに言った。「最高じゃん」
また一体、天井から降ってきた。続いて三体目。
わずか十秒の間に、周囲には八体のクラッパーが立ち塞がっていた。
カイルの手がアイテムボックスへと伸びた。
白い光のフラッシュとともに『ゴアポイント』が手元に出現する。鉄鎖が音を立てて解き放たれ、鋭い刃がうなりを上げて回転し始めた。
【 『疾走』を発動しました 】
世界が、劇的にスローモーションへと変わった。
彼は最も近いクラッパーに向かって突撃し、短剣が風を切って鳴り響いた。脇腹を切り裂き、鎖をクッと引いて刃を引き戻し、反転。二撃目の刃が化け物の腕を深く切り落とした。奴は耳をツんざくような悲鳴を上げ、同時にその胸の舌が、ひび割れた鐘のような不快な音を激しく響かせた。
その音が、さらに別の仲間を呼び寄せる。
(音を出すんじゃねぇ……!)
だが、止める術はなかった。奴らは死に際にも、その身体を激しく震わせて音を鳴らすのだ。
「キラ!」彼は叫んだ。「左を頼む!」
「もうやってる!」
彼女はまるで影のように、音もなく、小さく滑らかに動いていた。手元のナイフが鋭く光る。一体のクラッパーが彼女に手を伸ばしたが、彼女はその腕の下を軽やかに潜り抜け、すれ違いざまにその喉元を綺麗に一閃した。
「今回は、そう簡単にはいかないみたいね」キラが呟いた。
「あぁ」
カイルは三つの門をもう一度じっくりと観察した。
赤錆の門。緑青の門。漆黒の門。
どの門の奥からも、ランタンのような淡く穏やかな光が溢れ出ている。今回は強酸の液も、回復の苔も、激しい戦闘の焦げ跡すらも無い。見た目だけでは、どれが罠でどれが正解なのか全く区別がつかなかった。
カイルは頭を悩ませながら、視界の端のマップへと目をやった。
【 踏破率:44% 】
(神様は言っていた。入り口は三つ。正解は一つ)
(ヒントは必ず周囲の環境にあるはずだ)
彼は目を閉じ、耳を澄ませた。周囲の鉄の木々からは、絶えずチリン、チリンと大小様々な鐘の音が不規則に響き渡っている。
(音だ。この階層の最大の特徴は『音』と『鐘』だ)
カイルはカッと目を開けると、それぞれの門に吊り下げられている鐘を凝視した。
赤錆の門の鐘は、風に揺られているにもかかわらず、錆びつきが酷いせいか全く音を立てていない。
緑青の門の鐘は、風が吹くたびに、キィキィと耳障りな甲高い不協和音を周囲に撒き散らしている。
そして漆黒の門の鐘は、風を受けるたびに、低く、深く、どこか厳かだが澄んだ音色を響かせていた。
カイルはフッと口元を緩めた。
「キラ、分かったぞ」
「本当に? どの門が正解なの?」
「漆黒の門だ」
カイルは自信に満ちた表情でその門を指さした。
「この階層のモンスターは、不快な音や不協和音に反応して集まってくる。錆びついて音が鳴らない門や、狂った音を立てる門は、モンスターが活動した痕跡か、あるいは侵入者を誘い込むための偽物だ。だけど、あの漆黒の門の鐘だけは、この orchard(果樹園)の狂った雑音を打ち消すような、綺麗で正しい音を響かせてる。狂ったダンジョンの中で『正しい音』が鳴っている場所……そこだけが、システムに汚染されていない本物のルートだ」
キラはしばらくの間その門を見つめ、それから嬉しそうに目を細めた。
「やっぱり君は凄いね、カイル。頼りにしてるよ」
「よし、行こう。今度こそ第六階層だ」
カイルは漆黒の門へと歩みを進め、太い鉄鎖のカーテンを力任せに押し開いた。




