第八話 あなたの杞憂を聞かせてくれる?
見黒様が奇妙なことを仰り始めたのは、夏の初めのことだった。
「ねぇエル。あなたが杞憂だったと思った話を、聞かせてくれる?」
唐突だった。
その日、わたくしはいつも通り本を三冊お持ちして、見黒様がお読みになるのを後ろで控えていた。見黒様は読みかけの歴史書を閉じられて、振り向いて、そう仰った。
「杞憂、でございますか」
「ええ。心配していたけれど、実際には何も起きなかった——という話。あなたにもあるでしょう?」
わたくしは面食らった。
神託少女が、従者の杞憂話を聞きたいと仰る。それは、どういうことなのか。何かの試しなのか。それとも、わたくしの中に何かを見出そうとしておられるのか。
「は、はい……その、お恥ずかしい話ですが」
「恥ずかしいことなんてないわ。聞かせて」
見黒様の目が、まっすぐにこちらを向いていた。嘘のない目だった。本当に聞きたいのだと思った。
わたくしは話した。
「先月、故郷の母に手紙を出したのです。けれど出した翌日から雨が続いて、街道が荒れているという話を聞いて……届かなかったのではないかと、毎日気が気でなくて。結局、母から返事が届いて、ちゃんと届いていたとわかったのですが……」
「ふふ」
見黒様が、小さく笑われた。
「申し訳ありません、このようなくだらない話を……」
「いいえ」
見黒様は笑みを収めて、静かに仰った。
「杞憂とは、実はその人が一番大切にしているものを映す鏡なのよ」
わたくしの息が止まった。
「あなたが心配していたのは、手紙ではないでしょう。……届いた手紙を読むお母様の顔を、想像していたのよね」
言葉が出なかった。
そのとおりだった。手紙が届くかどうかが問題ではなかった。母が待っているのに届かなかったら。母が心配するのではないか。わたくしが元気でいることを知らせたかったのに、それが届かなかったら。
そう思って、毎日そわそわしていたのだ。
「見黒様は……私の心の奥まで……」
見黒様は少し首を傾げられた。
「大切な人がいるのは、良いことよ」
それだけ仰って、また本に戻られた。
わたくしは、しばらく胸がいっぱいで動けなかった。
*
翌日も、見黒様は杞憂を求められた。
今度はわたくしではなく、廊下で出くわした侍女に声をかけられた。
「ねぇ、あなたにも杞憂だったと思った話はある?」
侍女は戸惑いながらも答えた。
雨の日に洗濯物を取り込み忘れたのではないかと心配で、仕事中ずっとそわそわしていた——という話だった。
見黒様は少し考えてから仰った。
「あなたはきっと、家のことを丁寧にする人なのね。仕事のあいだもそれが気になるくらい」
侍女は赤くなった。
三日目は庭師だった。植えたばかりの苗木が枯れるのではないかと毎朝見に行っている——という話。
「あなたの目の前で育っているものを、あなたは乗り越えられるか心配だったのね。でも、苗木は育っているわ。支えてあげるのがいいわね」
庭師は頷いた。
四日目は料理長だった。
新しい香辛料の配合を間違えたのではないかと、一晩中眠れなかった——という話。
「間違えたかもしれないと眠れなかったのは、それを食べる人のことを考えていたからでしょう? あなたの料理は、いつも誰かの顔を思い浮かべながら作られているのね」
料理長が、目を潤ませた。
*
一週間が経つ頃には、見黒様の「杞憂収集」は宮廷に知れ渡っていた。
家臣たちは口々に噂した。
「見黒様は、人々の恐れを集めておられる」
「恐れの中にこそ、その者の本質があると見抜いておられるのだ」
「我々の杞憂すら、見黒様にとっては重要な情報なのだ」
グレン殿は「杞憂の聴取」と名づけて記録を始めた。月齢との相関も調べようとしていたが、さすがに今回は関連が見出せなかったらしく、途中で諦めていた。
やがて、見黒様のもとに「杞憂をお話ししたい」という者が列を成すようになった。
最初は従者や侍女だった。そのうち、下級の家臣が来るようになった。やがて、大臣の一人が来た。
大臣の杞憂は、こういうものだった。
「先月、隣国との交渉で、わたくしの一言が相手の機嫌を損ねたのではないかと……結果としては何事もなく交渉は成立したのですが、あのときの相手の表情が忘れられず……」
見黒様はしばらく聞いておられた。それから仰った。
「あなたは、言葉の重さを知っている人なのね」
大臣が、目を見開いた。
「言葉を恐れられるのは、言葉の力を信じているからよ。それは、外交に携わる方として……とても大事なことだと、わたしは思うわ」
大臣は、深々と頭を下げて退出した。
わたくしは後ろで控えながら、見黒様の言葉を記録した。
見黒様は杞憂を聞きながら、一人一人の本質を引き出しておられる。恐れの形を読むことで、その人が何を大切にしているかを見抜いておられる。
これは単なる雑談ではない。人心掌握だ。周辺の人間が、どのようにして動くのかを集められている。
——と、わたくしは日誌に書けなかった。
見黒様がそれを意図しておられるかどうかは、わからない。しかし、結果として、杞憂を話した者は全員、見黒様への信頼を深めて去っていく。「この方は、私の心を見てくださった」と感じて去っていく。
恐ろしいほどの求心力だった。
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杞憂の話を聞くのにハマってしまった。
きっかけは、読んでいた本だった。前世でいうエッセイに近い形式の本で、市井の人々の暮らしを綴ったものだった。その中に「取り越し苦労」をテーマにした章があって、それがめちゃくちゃ面白かった。
人間は、起きていないことを心配する。起きていないのに心配する。そして大抵、心配したことは起きない。でも心配をやめられない。
(……これ、ジャンルとしてめちゃくちゃ面白くない?)
前世にも「取り越し苦労あるある」みたいなまとめ記事はあった。でもそれは笑い話としてのまとめだった。この世界のエッセイは、もう少し優しかった。杞憂を笑うのではなく、杞憂の中にある感情を掬い上げるような書き方だった。
(この手の話、もっと聞きたい。生の声で聞きたい)
だからエルに聞いた。
「ねぇエル。あなたが杞憂だったと思った話を、聞かせてくれる?」
エルは手紙の話をしてくれた。
故郷のお母さんに手紙を出したけど、雨で街道が荒れて届かなかったんじゃないかと毎日心配していた——結局ちゃんと届いていた、という話。
(エル、お母さんっ子なんだ)
それはそれとして、話として面白かった。「手紙が届くか心配」の裏に「母を安心させたい」がある。杞憂の対象と、本当に大切なものがあるのに、大切なものにフォーカスが当たらずにずれている。そのずれが面白い。人間の感情の構造が見える。
(これ、前に読んだエッセイに書いてあった気がする。杞憂はその人の大切なものを映す——みたいなやつ)
口に出した。
「杞憂とは、実はその人が一番大切にしているものを映す鏡なのよ」
いい感じのことが言えた。
「あなたが心配していたのは、手紙ではないでしょう。……届いた手紙を読むお母様の顔を、想像していたのよね」
エルがまた固まっている。この子はよく固まる。
(まあ、そうだよね。手紙が届くか心配する理由なんて、届いた先にいる人のことを考えてるからに決まってるもの)
別に見抜いたわけではない。論理的に考えれば当たり前のことだ。でもこういうのは、言われるまで本人が気づいていないことが多い。前世の漫画でもよくあった。カウンセラーが一言で核心を突くシーン。あれは台詞として美しいので、つい真似してしまう。
*
面白かったので、翌日も別の人に聞いた。侍女、庭師、料理長。みんな違う杞憂を持っていた。
侍女は洗濯物の話。庭師は苗木の話。料理長は香辛料の話。
全部面白かった。
頭の中で勝手にカテゴリ分けが始まった。
(エルのは「家族編」。侍女のは「家事編」。庭師のは「仕事・育成編」。料理長のは「仕事・食べる人への愛編」。ジャンル分けできるな、これ)
前世でも、面白いコンテンツを見つけるとすぐ分類したくなる癖があった。ブックマークをフォルダ分けするのと同じだ。整理すると全体像が見えてくる。
それぞれの杞憂に、ひとこと返した。
侍女には「家のことを丁寧にする人なのね」。庭師には「苗木は育ったでしょう?」。料理長には「食べる人の顔を思い浮かべながら作ってるのね」。
みんな、仕事熱心な人たちばかりだな。あと妙に感動していた。料理長なんて泣いていた。
(おいしいもの作ってくれる人に泣かれると困るのだけれど)
*
大臣が来たのは驚いた。
隣国との交渉で失言したかもしれない、という話だった。
(おお。これは「仕事・外交編」だ。初めてのジャンルだわ)
聞いていて、少し思った。この人は言葉の使い方をすごく気にしている。一言が相手を傷つけたかもしれないと、交渉が終わった後もずっと悩んでいる。
(几帳面な人なんだな。言葉に対して誠実というか)
「あなたは、言葉の重さを知っている人なのね」
そう言ったら、大臣がぱっと顔を上げた。
「言葉を恐れられるのは、言葉の力を信じているからよ。それは、外交に携わる方として……とても大事なことだと、わたしは思うわ」
(……言ったことってなかなか取り消すのって難しいもんね〜。その点、オタク語録ストックがあるのは助かるのよね。失言になりにくいっていうか)
大臣が深々と頭を下げて帰っていった。
*
夕方、エルが聞いた。
「見黒様」
「何かしら」
「差し出がましいのですが……見黒様ご自身の杞憂は、おありなのですか」
(わたしの杞憂?)
少し考えた。
杞憂。心配しているけれど、たぶん起きないこと。
(……いつかこの書庫の本を全部読んじゃったらどうしよう、とか?)
「そうね。……いつかこの書庫の本を、全部読み尽くしてしまうかもしれない、ということかしら」
エルの目が、かすかに揺れた。
「……見黒様が、全てを読み尽くされる日」
「ええ。そうなったら、次に何を読めばいいのかわからなくなるでしょう? それが少し怖いわ」
(実際ありえないと思うけど。あの書庫の量、一生かかっても無理よね。でも万が一ということもあるし)
エルがしばらく黙っていた。それから、静かに頭を下げた。
「……わたくしが、見黒様が読み尽くされるより早く、新しい本を見つけてまいります」
「あら。頼もしいわね」
本を開いた。今日の三冊のうちの一冊が、市井の「やらかしてしまったこと」というテーマのエッセイだった。
(エル、わたしの興味に合わせて選んでくれてる……有能すぎるわ)
読み始めた。




