第七話 ままならないものね
それは、午後のお茶の時間に起きた。
その日は見黒様のために、宮廷の菓子職人が腕を振るっていた。この国で最も上等とされる焼き菓子の盛り合わせ。蜜を絡めた木の実の菓子、薄焼きの生地を何層にも重ねた品、香辛料を練り込んだ干し果実の飴。どれも、貴族の宴でしか出されないものだった。
見黒様はひとつ手に取り、口に運ばれた。
噛んで、飲み込んで、しばらく黙っておられた。
わたくしごときが「お口に合いますか」と聞ける空気ではなかった。見黒様の目が、どこか遠くを見ておられたからだ。
それから、ふぅ、と。
小さく、ため息をつかれた。
そのため息は、演技ではなかった。わたくしはこの二年間、見黒様のお傍にいて、演技と本心の区別がつくようになっていた。あのため息は本物だった。何かを——深く、切実に——嘆いておられた。
「……ままならないものね」
見黒様はそう仰って、窓の外に目をやられた。
春の風が吹いていた。
わたくしの背中に、冷たいものが走った。
*
その日の夕方、わたくしは侍従長に報告した。
「見黒様が、午後のお茶のお時間に、深い憂いとともに『ままならない』と仰せられました」
侍従長の顔色が変わった。
「ままならない? 何が、ままならないと」
「仰りませんでした。ただ、お菓子を召し上がったあと、遠くを見ておられて——」
「お菓子が口に合わなかったのか」
「いえ、そうではないように見えました。もっと——大きな何かを、憂いておられるように」
侍従長は少し考えてから、大臣に報告した。
大臣は別の大臣に相談した。
翌朝には、緊急の評議が開かれていた。
「見黒様が『ままならない』と仰った。これは看過できない」
「何が『ままならない』のか。国政か。民の暮らしか。外交か」
「あるいは、我々には見えていない何かを——水鏡で、ご覧になったのではないか」
評議は半日続いた。
結果として、三つの施策が同時に動き始めた。
国境の警備体制の見直し。備蓄穀物の点検と増産計画。それから、都市部の貧民への施策の再検討。
いずれも、以前から課題として認識されていたが、後回しにされていたものだった。見黒様の一言が、後回しを許さなくした。
ラルフ将軍は国境警備の陣頭指揮を執ることになった。出立の前に、見黒様のもとに挨拶に来られた。
「見黒様の御懸念、必ずや払拭いたします」
見黒様は少し首を傾げられた。
「頼りにしているわ、ラルフ。気をつけてね」
将軍閣下は深々と頭を下げた。
見黒様が何を懸念しておられるのか、将軍閣下にもわからなかったのだろう。しかし、見黒様が「ままならない」と仰ったのだ。それだけで、動く理由としては十分だった。
*
事態が思わぬ方向に動いたのは、その数日後のことだった。
厨房の料理長が、見黒様のために新しい菓子を考案したのだ。
きっかけは、わたくしが料理長に相談したことだった。「見黒様が憂いを見せられた。何か、気晴らしになるようなものはないだろうか」と。
料理長は腕を組んで考えた。そして翌日、一皿の菓子を持ってきた。
南方の森で採れるという、青い小さな実——甘く漬け込んだものを、焼き菓子の上にたっぷりと載せ、さらに蜜をかけたものだった。
見黒様の前に置かれた瞬間、見黒様の目が変わった。
わたくしはあの変化を見逃さなかった。いつもの穏やかな目ではなかった。何かを——見つけた、という目だった。
見黒様は一口、召し上がった。
しばらく黙っておられた。
それから、ゆっくりと笑われた。
「……ふふ」
あの笑みだった。水鏡の前で見せられるのと同じ、うっそりとした、しかし本物の笑みだった。
見黒様は菓子をもう一口召し上がって、それから静かに仰った。
「求めるものと違ったとしても、それこそが最適解……ね」
その言葉は間違いなく、見黒様にとって良い兆しが得られたのだと分かった。
料理長が涙ぐんだ。
わたくしも、少しだけ目の奥が熱くなった。
その言葉は翌日、宮廷中に広まった。
「見黒様が仰った。求めるものと違っても、それこそが最適解だと」
大臣たちがその言葉をどう受け止めたかは、想像に難くない。
先日始まった三つの施策——国境警備、備蓄増産、貧民施策——のいずれも、当初の理想通りには進んでいなかった。現場では妥協が必要になっていた。その妥協に悩んでいた大臣たちにとって、見黒様の言葉は天啓そのものだった。
「理想とは異なる形であっても、それが今この国にとっての最適解なのだ」
施策は加速した。
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ホットケーキが食べたい!!!!!!
午後のお茶の時間に、菓子職人が作ってくれた焼き菓子を食べた。美味しかった。美味しかったのだが、食べた瞬間に、前世の記憶がぶわっと蘇った。
(あああ〜〜〜生クリームゴテゴテのホットケーキ食べたい。バターたっぷり溶かして、メープルシロップびっしゃーってかけて、生クリーム山盛りにして……ああ無理だ、ホットケーキミックスもメープルシロップもこの世界にない)
ホットケーキ。休日の午後に作って食べるやつ。何も考えずにバターを溶かして、焼いてる間にシロップを出して、焼き上がったらどかどか重ねて、その上に生クリームを山盛りにして。カロリーのことは考えない。考えたら負けだ。あの背徳感込みで、ホットケーキなのだ。
この世界にバターはある。小麦粉もある。でもホットケーキミックスがない。メープルシロップがない。生クリームはあるらしいが、前世のあのふわふわの感じとは違う。
無理なのだ。再現できない。近いものは作れるかもしれないが、あれそのものは無理なのだ。
ふぅ、とため息が出た。
「……ままならないものね」
本心だった。ままならない。ホットケーキが食べたいのに食べられない。この世界で唯一の不満と言っていい。本はある。鏡はある。黒髪もある。池もある。頼りになるエルもいる。でもホットケーキがない……!!!!
窓の外に目をやった。春の風が気持ちよかった。
(まあ、しょうがないか。異世界なんだし。全部が全部、前世通りにはいかないわよね)
気持ちを切り替えて、本を開いた。
*
数日後、なぜかラルフ将軍が出立するという話を聞いた。国境の警備がどうとか。
挨拶に来てくれた。
「見黒様の御懸念、必ずや払拭いたします」
(懸念? わたし、何か言ったっけ?)「頼りにしているわ、ラルフ。気をつけてね」
将軍は深々と頭を下げて去っていった。
(何の話だったんだろう。まあ、お仕事頑張ってくれるならいいか)
最近、こういうことがよくある。わたしが何か言うと、知らないうちに宮廷が動いている。前も「今日はいい天気ね」と言っただけで天文官が記録を始めたことがあった。たぶん、何か仕組みがあるのだろう。宮廷の文化として、上の人間の発言を拾って動くシステムが出来上がっているのだ。前世でいえば「上司のひとこと」で部署全体が動くやつだ。あれの宮廷版。
深く考えなかった。
*
その数日後のことだった。
エルがいつもと違う顔で部屋に来た。本ではなく、お盆を持っていた。
「見黒様。料理長が、新しいお菓子を考案いたしました。よろしければ、お召し上がりになりませんか」
「あら、いただくわ」
お盆の上に、小さな皿があった。
焼き菓子が一つ。その上に、青い小さな実がたっぷり載っていた。甘い蜜がかかっていた。
(……ん?)
見た目が、何かに似ていた。
ブルーベリー。前世で馴染みあるブルーベリーに似ていた。粒の大きさが少し違うが、色と形がほぼ同じだった。
一口、食べた。
甘い。酸味が少しあって、蜜と合わさると、とてもよかった。焼き菓子の生地がさくっとしていて、その上の果実の甘さがじわっと来る。
(……おいしい)
ホットケーキではなかった。メープルシロップの味でもなかった。生クリームのふわふわもなかった。
でも、すごくおいしかった。
前世にはなかった味だった。この世界にしかない味だと思う。前世のホットケーキを再現しようとしたのではなく、この世界の食材で、この世界の職人が、この世界の技術で作った菓子だった。
(……ああ、これはこれで、いいじゃない)
ゆっくりと笑った。
「……ふふ」
もう一口食べた。やっぱりおいしかった。
「求めるものと違ったとしても、それこそが最適解……ね」
ホットケーキじゃないけど。でもこれでよかった。
ううん、これがよかった。
エルが、また何か感動した顔をしていた。
料理長が涙ぐんでいるのが見えた。
(なんで泣いてるんだろ。あ、でも新しいお菓子だし、おいしいって反応があれば嬉しいか。本当に大感謝〜!)
ホットケーキ食べたい欲が少しずつ成仏する感じがして、気持ちが解けていく。
「料理長」
「はい」
「これ、明日も出してもらえるかしら。気に入ったわ」
「もちろんです!」
「あと、この実の名前を知りたいわ。何か本に載っているかしら」
「早速お調べいたします」
エルと料理長が退出した。
わたしは残りの菓子を食べ終わって、窓の外を見た。
ホットケーキは無理だけど、この世界にはこの世界の良いものがある。前世のものを全部再現しようとしなくても、ここにあるもので、十分幸せになれる)
(……って、これわりといいこと考えてない? 今のちゃんと覚えておこう。いつか使えるかも)
本を開いた。
今日は農政の記録と、北方の建築技術書と、恋愛譚の新刊だった。




