第六話 花は誰のために咲くのかしら
見黒様が宮廷にお越しになって、二年が経った。
二年。書けばたった二文字だが、その間に起きたことを書き記すには、わたくしの日誌はすでに十三冊目に入っている。
見黒様は十四歳になられた。
背が少し伸びられた。声が少し低くなられた。しかし本質は変わっておられなかった。毎朝、鏡で黒髪を確認なさる。本を読まれる。午後に池へ行かれる。厨房に甘いものを所望なさる。
変わったのは、見黒様の周囲の方だった。
水鏡の儀式は、今では宮廷の定例となっている。見黒様が池の前に立たれる時間帯は、家臣たちが回廊に控えて息を潜める時間になった。見黒様が何か仰ればその日のうちに記録され、仰らなくても「本日は沈思の日であった」と記録された。
東の国境の件以来、見黒様の予見は三度的中した。
一度目は、南方の港で起きた商船の座礁。見黒様がたまたま「海の色が変わるわ。船底から抜け落ちるせいね」と仰った翌週のことだった。
二度目は、宮廷内の人事異動。見黒様が健啖家を誇る大臣の一人に「あなた、最近少し疲れた顔をしているわね。無理はしないで」と声をかけられた三日後、その大臣に大きな病が隠れたことが明らかとなり、休養に入られた。
三度目は——割愛するが、不正の種を握りつぶしたと言って良い。
ラルフ将軍は、今では見黒様の護衛を自ら買って出ておられる。あの日、謁見の間で膝をつかれてから、将軍閣下は見黒様のお傍を離れようとしない。見黒様は将軍のことを「ラルフ」と名前で呼ばれる。将軍閣下は最初の頃こそ戸惑っておられたが、今では呼ばれるたびに姿勢を正すだけになった。
側近のグレン殿が、興味深い研究を始めておられた。見黒様のお言葉を月齢と照合し、「月の相によってお言葉の質が変わる」という仮説を立てておられるのだ。たしかに、見黒様がやや好戦的な言い回しをなさる時期と、詩的な言い回しをなさる時期には、波があるように見える。グレン殿は真顔で月齢表と日誌を突き合わせていた。
わたくしは、別の仮説を持っていた。
見黒様が好戦的になるのは、戦記ものの本を読まれた直後だ。詩的になるのは、恋愛譚を読まれた直後だ。月齢とは関係がない。
しかし、それは「本に影響されている」ということではないと、わたくしは思う。
見黒様は本を通じて、何かを見ておられるのだ。常人が物語として読むものの中に、見黒様だけが見える真理がある。戦記を読めば戦の本質が見え、恋愛譚を読めば人の心の本質が見える。本は見黒様にとって、水鏡と同じだ。映すものが違うだけで、その奥にあるものを読み取る術であることに変わりはない。
だからこそ、見黒様はあらゆる本を分け隔てなく読まれるのだ。絵本も、武器図鑑も、詩集も。どの本にも、見黒様にとっての真理が潜んでいるからだ。
それをグレン殿に申し上げるつもりはなかった。月の相の研究も、それはそれで間違ってはいないのかもしれない。見黒様の真理は、見る角度によって形を変える。それを、わたくしはこの二年間で学んだ。
*
その日は、春の終わりだった。
庭の花木が盛りを過ぎようとしていた。枝先には花が残っていたが、足元には花びらが散り始めていた。
見黒様は午後の水鏡を早めに切り上げられて、花壇の方へ歩かれた。珍しいことだった。ふだんは池から真っ直ぐに部屋に戻られるのに。
わたくしはお供した。ラルフ将軍は少し離れた場所に控えていた。
見黒様は花木の前で足を止められた。見上げるように枝先を見て、それから足元の散った花びらを見た。
しばらく、黙っておられた。
それから、ぽつりと仰った。
「……土が痩せれば、いずれ幹も枯れる」
わたくしの背筋が伸びた。
「お、見黒様……それは……」
「花は枝の先から咲くものだけれど」
見黒様は、枝先の花をじっと見ておられた。
「それを忘れた木は、次の春に咲かないの」
言い終えて、見黒様はまた黙られた。風が吹いた。花びらが一枚、見黒様の黒髪に落ちた。見黒様は気づいておられなかった。
わたくしは、その言葉を、一字一句、頭に刻んだ。
*
見黒様の言葉は、その日のうちに宮廷に広まった。
広まった瞬間から、解釈が割れた。
保守派の大臣たちは、こう受け取った。花は枝先に咲く。枝先は民だ。幹は貴族だ。土は王だ。
つまり——「我ら貴族が幹の務めを果たさねば、民という花は咲かぬ」。
改革派の大臣たちは、逆に受け取った。花は王侯だ。幹は貴族だ。土は民だ。
つまり——「民こそが国を支える土であり、土が痩せれば全てが枯れる。民を大事にせよ」。
両派とも、見黒様の言葉を根拠に、それぞれ別の改革案を提出した。
保守派は貴族の綱紀粛正を進めた。改革派は民への減税策を立案した。
どちらも、見黒様の真意を正しく汲んでいるという確信を持っていた。
結果として、両方の改革が同時に進んだ。綱紀粛正と減税が同時に行われた国は、当然ながら、前より良くなった。
陛下は見黒様に礼を述べられた。
「アカリ殿の一言で、国が動いた」
見黒様は少し首を傾げられた。
「あら。そう」
いつもの、あの返答だった。
グレン殿は、この日のお言葉を「春の託宣」と名づけた。後の学者たちが「花木の神託」と呼ぶことになる言葉の、最初の名前だった。
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十四歳になった。
二年が経ったらしい。宮廷に来てから数えると、もう二年。体感としてはもっと短い。毎日本を読んで、池を見て、たまに大臣が来て、たまに将軍が来て。日々の密度は高いが、種類が少ないので時間が圧縮される。前世のオタク生活と同じ構造だ。
身長が少し伸びた。声が少し変わった。鏡で確認した。
(よ〜し。黒髪、健在。背が伸びた分だけ映える。成長期、ありがとう)
黒髪は相変わらず最高だった。水面に映してもよし、鏡で見てもよし。むしろ伸びた分だけ髪型の選択肢が増えた。ハーフアップもできるようになった。前世では届かなかった髪型だ。転生してよかった。
日常は完全に固まっていた。
エルが毎朝三冊の本を持ってくる。ジャンルのバランスが年々良くなっている。最近は、わたしが何も言わなくてもわたしの好みを完璧に把握した選書をしてくる。先週は「武器鍛冶の技術書」「宮廷恋愛譚の続編」「南方の虫の図鑑」という組み合わせで来た。完璧だった。虫の図鑑は前世で読んだことがなかったジャンルだが、開いてみたらめちゃくちゃ面白かった。甲虫の翅の構造が美しかった。
エルに「これ面白かったわ」と言ったら、翌日もう一冊虫の本を持ってきた。有能すぎる。
ラルフ将軍は、いつの間にか護衛として定着していた。わたしが廊下を歩くと後ろについてくる。最初は緊張していたが、最近はただ黙ってついてきている。たまに「見黒様、足元に段差がございます」と教えてくれる。親切な人だ。
(強キャラ護衛、二年経っても健在。ありがたい)
側近のグレンという人が、最近やたらと月齢の話をしてくる。「見黒様のお言葉は満月の前後に深遠さを増される」とか言っていた。何のことかわからなかったが、とりあえず「そういうものかしら」と返しておいた。
(満月は関係ないと思うんだけどな。たぶんあれ、少年漫画系の本を読んだ直後に戦闘っぽいことを言うから、それが月齢と偶然一致してるだけだと思う)
まあ、楽しそうに研究しているので、好きにさせておこう。
*
春の終わりの、ある午後のことだった。
池を見に行ったあと、ふと花壇の方が気になって足を向けた。
花木が咲いていた。盛りは少し過ぎていて、枝先にはまだ花が残っていたが、足元には花びらが散り始めていた。
きれいだった。
(あ、これ……)
ふと、前世のことを思い出した。
前世のおばあちゃんが、盆栽の手入れをしながらよく言っていた。「花はね、枝の先に咲くけど、咲かせてるのは根っこなのよ。根っこが弱ると、来年は咲かないの」。おばあちゃんは盆栽が好きだった。小さい鉢の中で木を育てて、花を咲かせて、それを縁側で眺めるのが好きだった。
わたしは盆栽にはそこまで興味がなかったが、おばあちゃんの話し方は好きだった。ゆっくりで、穏やかで、何でもないことを大事そうに言う人だった。
花木を見上げながら、おばあちゃんの言葉が口から出た。
「……土が痩せれば、いずれ幹も枯れる」
後ろでエルが体を固くした気配がした。
(あ、エルがなんかまた震えてる。まあいいか、続けよう。おばあちゃんの受け売りだけど)
「花は枝の先から咲くものだけれど」
枝先の花を見た。白かった。実家の庭の木に少し似ていた。
「それを忘れた木は、次の春に咲かないの」
言い終わって、しばらく花を見ていた。風が吹いて、花びらが一枚飛んできた。髪に止まった気がする。ええやないの、黒髪ならさぞかし映えるはず。
(おばあちゃん元気かな。いや、前世のおばあちゃんだからもういないか。いないのか。……まぁ、わたしも一回死んでるしな)
*
翌日、大臣が二人来た。
別々に来た。
一人目が言った。「見黒様の仰る通り、我ら貴族が幹としての務めを果たさねばなりません。綱紀粛正を進める所存です」。
二人目が言った。「見黒様の仰る通り、民こそが国を支える土。税制の見直しを進めてまいります」。
二人とも、同じ言葉を根拠にしていた。同じ花の話を、全然違う方向に解釈していた。
(え、どっち?……というか、どっちも花の感想から出てきたの?)
わたしは二人の大臣に、同じ返事をした。
「そう。よろしくお願いするわ」
二人とも、深々と頭を下げて去っていった。
エルが後ろに控えていた。
「エル」
「はい」
「わたし、何か助けになるようなことを言ったかしら」
「……見黒様は、真理を仰ったのです」
「ふぅん……まぁ、そうね。真理は、聞く者によって形を変えるものね」
エルがまた日誌に何か書いている気配がした。
(真理、ね。おばあちゃんの盆栽トークが真理になるとは思わなかったわ)
わたしは部屋に戻って、エルが持ってきた本を開いた。今日は南方の薬草帳と、古い詩集と、冒険譚の続きだった。
窓の外では、花びらがまだ散っていた。
来年も咲くといいな。




