第五話 水面は物事(わたし)を美しく映すので
見黒様が庭の池をご覧になり始めたのは、宮廷にお越しになって三週間目のことだった。
その日は本を読む手を少し早くに止められて、「少し外に出たいわ」と仰った。わたくしはお供して庭に出た。
城の庭は広い。季節の花が植えられた花壇があり、手入れの行き届いた低木の並木があり、その奥に池がある。庭師が管理している、さほど大きくはない池だ。水は澄んでいて、風がなければ水面は鏡のように静まっている。
見黒様は花壇を素通りされた。低木の並木も素通りされた。
まっすぐに、池へ向かわれた。
池の縁に立ち、じっと水面を見下ろされた。
長い黒髪が、風もないのに少しだけ揺れた。水面に見黒様のお姿が映っていた。色白の肌と黒い髪が、水の中にもう一人いるように見えた。
見黒様は、動かなかった。
一分が経ち、二分が経ち、五分が経った。
わたくしは後ろに控えながら、声をかけるべきか迷っていた。しかし見黒様の佇まいに、声をかけてはいけない空気があった。何かを見ておられる。水面の向こうに、何かを。
十分が経った頃、見黒様が小さく口を動かされた。
「……動いているわね」
わたくしは水面を見た。雲が映っていた。ゆっくりと流れていく雲が、池の中で形を変えていた。
見黒様はそれ以上、何も仰らなかった。しばらくしてから、静かに踵を返し、部屋にお戻りになった。
わたくしは、その日のことを日誌に書いた。
*
翌日も見黒様は池に行かれた。その翌日も。
毎日、同じ時間に。本を読む手を止め、庭に出て、池の前に立ち、水面を見つめられた。
三日目に、わたくしは侍従長に報告した。
「見黒様が、毎日、庭の池をご覧になっておられます」
侍従長の顔色が変わった。
「池を?」
「はい。水面をじっと見つめて、動かれません。何かを——ご覧になっておられるようです」
「……見黒様は、なんと?」
「動いているわね、という一言だけ……」
侍従長は少し考えてから、大臣に報告した。大臣は別の大臣に相談した。夕方には、宮廷の主だった者たちの間に話が広まっていた。
「……おそらく、見黒様は水鏡をお使いになっている」
水鏡。古い文献に記述がある。水面に映るものを通じて、遠くの出来事や未来の兆しを読み取る術だと言われている。伝説の神託少女も水鏡を使ったという記録が残っている——かもしれない。少なくとも、そういう説を唱える学者はいた。
翌朝、わたくしが見黒様に本をお持ちすると、見黒様はいつも通りの顔で仰った。
「ありがとう、エル。今日も午後から庭に出るわ」
「かしこまりました」
午後、見黒様は池の前に立たれた。
今日は、わたくしの他にも人がいた。回廊の陰から、何人かの家臣がそっと覗いていた。侍従長もいた。
見黒様は気づいておられないようだった。水面をじっと見つめておられた。
五分ほど経ったとき、見黒様がまた口を開かれた。
「……ふふ」
笑われた。水面に向かって、小さく、笑われた。
回廊の陰から、息を呑む音が聞こえた。
見黒様は笑みを収めて、また黙って水面を見つめられた。
あの笑みの意味を、家臣たちはそれぞれに解釈した。
「水鏡に良い兆しが映ったのではないか」
「この国の未来に、何か明るいものを見られたのだ」
「いや、あの笑みは——何か試練が来ることを、あらかじめ受け入れておられる笑みなのでは?」
わたくしには、どの解釈が正しいのかわからなかった。ただ、あの笑みが美しかったことだけは確かだった。
*
四日目のことだった。
その日は少し風があった。水面がかすかに揺れていた。
見黒様は池の前に立ち、いつもと同じように水面を見下ろしておられた。わたくしは少し離れた場所に控えていた。
見黒様がしばらく黙っておられたあと、ふと、遠い目をされた。
何かを思い出しておられるような、懐かしいものを見つめるような、そういう目だった。
そして、ぽつりと呟かれた。
「……それもまた、本望……か」
わたくしの体が、勝手に固まった。
本望。見黒様が、何かを「本望」と仰った。何を受け入れておられるのか。何に対して「これでよい」と仰っておられるのか。
見黒様がこちらを振り向かれた。わたくしの顔を見て、少し驚いた顔をされた。
「エル、どうかしたの。顔が白いわ」
「い、いえ……見黒様が、何かをお覚悟なさったのかと……」
「覚悟?……ああ、ええ。そうね、そういうものかしら」
「……!」
わたくしの声が震えていた。自分でもわかった。
見黒様は不思議そうな顔をされていた。なぜわたくしが震えているのか、わからないというような顔だった。
しかし、それこそが見黒様なのだ。全てを見通しておられるがゆえに、動じない。受け入れておられるがゆえに、震えない。
わたくしはその夜、日誌に書いた。
「本日、見黒様は水鏡の前にて『それもまた、本望』と仰せられた。何を受容なされたかは不明。しかしそのお姿は、あらゆる運命を引き受ける覚悟を備えた方のそれであった」
*
一週間後のことだった。
見黒様が初日に仰った「動いているわね」という言葉が、にわかに意味を持ち始めた。
東の国境付近で、小規模な兵の移動が確認されたのだ。
大臣たちの間に緊張が走った。そして全員が、見黒様の言葉を思い出した。
「動いている——見黒様はあのとき、すでに東方の動きを察知しておられたのだ」
「水鏡で、国境の兵を見ておられたに違いない」
ラルフ将軍が、剣の柄に手をかけたまま言った。
「……見黒様の言葉を、軽んじるべきではなかった」
あの将軍閣下が、そう仰ったのだ。
見黒様のもとに報告が上がった。見黒様は報告を聞いて、少しだけ首を傾げられた。
「あら、そう」
それだけだった。
家臣たちは「やはり、とうにご存じだったのだ」と頷き合った。
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池を見つけたのは、庭を散歩していたときだった。
城の庭は広かった。花壇があって、低木があって、その奥に池があった。
池は小さかったが、水が澄んでいた。風がない日は水面が完全に静止して、鏡みたいになっていた。
鏡みたい。
わたしは池を覗き込んだ。
水面に、自分の顔が映っていた。
(……おっ)
色白の肌と、黒い髪。水に映ると、少し色味が変わって見えた。光の加減が鏡とは違った。輪郭が少しだけぼやけて、その分だけ幻想的に見えた。
(これは……いい)
鏡とは別の角度で自分を確認できるということだ。
部屋の鏡は好きだけど、水面は少しだけ曖昧で、そのぶん想像の余地がある。前世で見た漫画の、水面に映るヒロインのコマを思い出した。あれだ。あの感じだ。
(毎日来よう)
即決だった。
*
翌日から、午後になると庭に出て池の前に立つのが日課になった。
水面に映る自分を見て、髪の角度を確認した。三つ編みをほどいた状態で水面に映すとどう見えるか。片方だけ耳にかけるとどうか。少し顎を引くとどうか。
全部よかった。水面は優秀な確認ツールだった。
初日に雲が映っているのが目に入って、つい言ってしまった。
「……動いているわね」
雲のことだった。水面に映った雲が、ゆっくりと形を変えていくのが面白かった。鏡には映らないものが、水面には映る。空が映る。雲が映る。鳥が横切ることもある。
鏡より情報量が多い。得した気分だった。
*
三日目くらいから、回廊の向こうに人の気配がするようになった。
(誰かいるな。何だろう)
気にはなったが、まあいいか、と思った。宮廷の人は色々忙しいのだろう。わたしはわたしの用事がある。今日も水面に映る自分の確認作業だ。
水面を見つめながら、少し口角を上げてみた。意味深な微笑み。前に鏡で練習したやつの水面バージョン。
「……ふふ」
いい。水面に映ると、少しぼやける分、より神秘的に見える。鏡の前で練習するより上級者向けだ。
(水面バージョンのレパートリーも増やしていこう)
満足して、部屋に戻った。
*
四日目は、少し風があった。水面がかすかに揺れていて、映る自分の輪郭が歪んだ。
(今日はちょっと条件が悪いな)
でもまあ、来たからには見る。揺れる水面の中に、自分の黒髪が揺れていた。風で少し乱れていた。それもまた、悪くなかった。
水面を見つめていたら、ふと、前世のことを思い出した。
たぶん地震か何かで死んだのだ。漫画の棚と小説の棚が両方倒れてきて。痛かった記憶はない。気づいたら真っ白で、ああ死んだんだなと思った。
(本に埋もれて死んだか。まぁ……)
ぽろっと、口に出た。
「……それもまた、本望……か」
後ろで、エルがびくっとした気配がした。
振り向くと、エルが固まっていた。顔が白かった。
「エル、どうかしたの。顔が白いわ」
「い、いえ……見黒様が、何かをお覚悟なさったのかと……」
「覚悟?」
覚悟。本に潰されて死んだことを覚悟と言われると、まあ、間違ってはいない。受け入れてはいる。
「……ああ、ええ。そうね、そういうものかしら」
「……!」
エルがなんか震えていた。
(なんで震えてるの??)
本に埋もれて死んだことを「本望」と言っただけなのに。まぁ、本望だったのは確かだ。嘘ではない。そういう意味では合っている。何で震えてるのかはわからないけども。
*
一週間くらい経ったころ、大臣が慌ただしい様子で報告に来た。
東の国境で何かあったらしい。兵がどうのこうのと言っていた。
「見黒様。先日仰っていた通りでございました……!」
「あら、そう」
……んん? わたしなんか言ったっけ?
何が「仰っていた通り」なのかわからなかった。
でも大臣が安心した顔をしていたので、たぶん良いことなのだろう。
(まあ、何事もなければいいわね)
部屋に戻って、エルが持ってきた本のページを開いた。今日は歴史書と、南方の薬草図鑑と、恋愛譚が一冊。
「エル」
「はい」
「明日も池に行くわ。午後から」
「かしこまりました」
「あの池、気に入ったの。綺麗でよく見えるわ」
「……!」
エルの目が、かすかに見開かれた。それからすぐに深々と頭を下げた。
「……見黒様にとっての水鏡が、あの池なのですね」
「水鏡?」
「いえ……水鏡をお使いになっているのだと、……」
「ああ……そうね。皆の言うところでいえば、そういうものかしら」
よくわからなかったが、とりあえず話を合わせた。
エルが深々と頭を下げて、退出した。
わたしは本を開いた。
(水鏡ね。ゲームとか占いとかにもあったな〜。まぁ、水面に映るのってエモいのは事実だし。自分がよく見えるのも事実だし)
前世から変わらない。
わたしはただ、オタク趣味でご機嫌に確認しているだけだ。
窓の外に目をやった。夜の池が、月を映しているのが見えた。池に映る月もなかなかオツなものだな〜と思いながら、いつか夜の池にも佇んでみようと思った。




