第四話 面白いのだから読めばいいのに
わたくしが見黒様の従者に任じられたのは、見黒様が宮廷に到着された翌々日のことだった。
侍従長に呼ばれ、「お前が神託少女殿のお世話係を務めよ」と言われたとき、正直なところ、困惑した。わたくしは宮廷の下働きとしてはまだ日が浅く、格式ある役目を任されるような身分ではなかった。
侍従長は、わたくしの顔を見て言った。
「見黒様はまだ十二歳であらせられる。年の近い者を傍に置く方がよいと、陛下がお決めになった」
なるほど、齢の問題だった。
わたくしは十四だった。宮廷の従者としては最も若い部類に入る。見黒様との歳の差は二つ。たしかに、老齢の侍女よりは見黒様の気が楽だろう、という判断は理解できた。
ただ、相手は神託少女だ。
あのラルフ将軍を、一言で膝をつかせたという神託少女。
わたくしはその場を見ていない。しかし話は宮廷中に広まっていた。あの頑固者の将軍閣下が泣いた。そのことだけで、見黒様が並の人間ではないことは明白だった。
覚悟を決めて、見黒様の部屋を訪ねた。
*
最初に驚いたのは、見黒様の声だった。
「よろしくね。あの、早速なのだけれど書庫に行きたいの」
挨拶を終えた直後に、それだった。
神託の言葉でもなければ、聖女の祈りでもなかった。書庫に行きたい。ただそれだけだった。
わたくしは見黒様を書庫へお連れした。見黒様は書庫の扉が開いた瞬間、一瞬だけ足を止められた。天井まで続く本棚を見上げて、静かに笑われた。
その笑みの意味を、わたくしはそのとき読み取ることができなかった。
見黒様は物語の棚の前にお座りになって、本を開かれた。わたくしは後ろに控えた。
三時間が経った。
見黒様は一度も顔を上げられなかった。わたくしは三時間、見黒様の後ろ姿を見ていた。黒い髪が窓からの光の中で、時おり青く光った。
翌日も同じだった。その翌日も。
見黒様は毎日、書庫にお出でになった。わたくしは毎日、後ろに立った。
*
七日目に、見黒様がわたくしに声をかけられた。
「エル」
「はい」
「あなたも読んだらどう?だって暇でしょう?わたしを眺めるだけに時間を使うのは勿体ないわ」
わたくしは一瞬、言葉を失った。
従者に対して「暇でしょう」と仰るお方は、宮廷にはいない。いたとしても、それは蔑みの言葉として使われる。しかし見黒様の口調には、蔑みがなかった。本気でわたくしの時間を気にかけておられるようだった。
「い、いえ、見黒様のお傍に控えるのが務めでございますので」
「控えながら読めばよいでしょう。ほら、物語の棚。面白いのがたくさんあるわ」
面白いの、がたくさん。
神託少女殿が、わたくしに本を勧めておられた。
わたくしは本棚から一冊、手に取った。どれを選べばよいのかわからなかったので、目についたものを取った。南方の冒険譚だった。
それからは、見黒様が読んでおられる間、わたくしも読んだ。
同じ部屋で、同じ時間に、別々の本を読んだ。
不思議な時間だった。
*
十日目を過ぎた頃から、わたくしは見黒様のお部屋に本をお持ちするようになった。
最初は見黒様のご要望通りのものを。やがて、わたくしが選ぶようにもなった。見黒様の好みが、少しずつわかってきたからだ。
見黒様はどんな本でも読まれた。
戦術書を。食材帳を。絵巻を。武器図鑑を。農政の記録を。詩集を。そして市井で流行している恋愛譚を読まれた。
戦術書をお持ちしたとき、見黒様は目を輝かせて「面白いわよ、これ。穂先の形で用途が全然違うの。知っていた?」と仰った。武器図鑑をお渡ししたとき、「あら、この短剣の意匠、綺麗ね」と仰った。
宮廷の家臣たちは口々に言っていた。
「見黒様は軍略にも通じておられる」
「武具の真理を見抜かんとしておられるのだ」
わたくしは、少し違うのではないかと思った。
見黒様は「通じようとしている」のではなく、「面白がっている」のではないか。
しかしその考えは、すぐに打ち消された。
面白がっているだけの人間が、あのような言葉を発するはずがないからだ。
*
あるとき、わたくしは絵本をお持ちした。
見黒様が前日に「子供向けでもかまわないから、この国の昔話が読みたいわ」と仰ったからだ。しかし、差し出す手が少し震えた。神託少女殿に、子供向けの絵本をお渡しするということの重みが、急に胸にのしかかった。
「あの……見黒様であれば、このようなもの、くだらないとお感じになるかと思うのですが……」
見黒様は、わたくしを見た。
あの目だった。将軍を一言で落としたと言われる、あの静かな目だった。
「持ってくるように頼んだのはわたしなのに。エルはおかしな人ね」
「はあ、しかし……」
「あなた、絵巻や絵本はくだらないものだと思っていて?」
体が固まった。
「これらの物語には必ず教訓があるものよ」
その一言が、わたくしの中に深く刺さった。
わたくしは宮廷に来る前、田舎の家で育った。本はほとんど読まなかった。読む機会がなかった。絵本は子供が読むもの、物語は暇人の娯楽——そういう価値観の中で育った。
見黒様は、その価値観を、静かに、しかし完全に否定された。
くだらないものなどない。そう仰ったのだ。
わたくしは深々と頭を下げた。
「失礼いたしました」
それ以来、わたくしは本を選ぶとき、種別で迷うことをやめた。戦術書も絵本も恋愛譚も、同じ重さでお持ちすることにした。
見黒様は、あらゆる知識に貴賤をつけないお方なのだ。わたくしは、そう理解した。
*
それから数日後のことだった。
朝、大臣の一人が見黒様のもとに報告に来た。わたくしは部屋の隅に控えていた。
大臣が何かを報告し終えて、「見黒様、いかがお考えでしょうか」と伺いを立てた。
見黒様は少しの間、何か遠い場所を見ておられるような目をされた。それから、静かに口を開かれた。
「……実りとは、ただ成功を願うことだけではないわ。不意の不幸さえ、共に背負う覚悟が必要になる」
大臣が、目を見開いた。
「おお……!まさに……まさに、仰る通りでございます……!」
大臣は深く感じ入った様子で、何度も頭を下げながら退出した。
わたくしは、見黒様の言葉を反芻していた。愛とは、相手の不幸さえ共に背負う覚悟。それは大臣への助言であると同時に、もっと大きな何かを示唆しているようにも聞こえた。国と民との関係。為政者の覚悟。あるいは——
ふと、見黒様の文机の上に、昨夜読み終えたばかりの本が置いてあるのが目に入った。
『騎士様と私の秘めごと』
市井のラブロマンス。
「愛とは、相手の幸せを願うことだけではない。相手の不幸さえ、共に背負う覚悟だ」
わたくしは、その本を見た。見黒様の言葉を思い出した。そしてまた本を見た。
……いや、まさかね。
わたくしは何も言わなかった。
翌日も、いつも通り三冊の本をお持ちした。
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宮廷に来て二週間が経つ頃には、わたしの日常は完全に固まっていた。
朝起きる。顔を洗う。鏡で黒髪を確認する。これは日課だ。光の加減で青みがかって見える日と、真っ黒に沈む日がある。どちらも好きだ。確認が終わると、髪を一回だけ梳かす。三つ編みにするか、おろすか、今日の気分で決める。
朝食を食べる。この世界のパンは前世のパンより少し重い。けどなんだろう、ベーグルに近くて、全然嫌いではない。むしろ好きな感じ。
それからエルが来る。
エルは毎朝、本を三冊持ってくる。
この習慣がいつ始まったのか、もう正確には覚えていない。最初はわたしが「あれ読みたい、これも」と言っていたのが、いつの間にかエルが自分で選んでくるようになった。
選び方が良い。
ジャンルが毎回バラバラなのだ。今日は戦術書と絵本と食材帳、明日は詩集と武器図鑑と冒険譚、みたいな感じで来る。前世でいえば、図書館の司書さんが「あなたの好みだとこのあたりも合うと思いますよ」って選んでくれるやつだ。あれだ。最高のやつだ。
(エル、本の選び方のセンスあるな〜)
わたしは心の中でそう思いながら、毎日ページをめくっていた。
*
書庫は自宅部屋(座敷牢)に続く天国その2だった。
天井まで本棚が続いていて、梯子が架かっていて、窓から差し込む光の中を埃がきらきらしていた。実家の座敷牢にも本はたくさんあったが、ここは桁が違った。
歴史書、地誌、軍記、薬学書、天文書、農政の記録、古い条約の写し、宮廷歌人の詩集、近隣諸国の風俗記。全部面白そうだった。全部読みたかった。
でも一番嬉しかったのは、物語の棚だ。
この世界にも物語がある。この世界にも、誰かが誰かのために書いた話がある。設定は前世と違うが、根っこは同じだ。人間が書いたものには、どこかしら人間の気配がする。
物語の棚近くの机に向かうこと、三時間。そのあいだ、エルはずっと後ろに立っていた。
次の日も。その次の日も。
(エル、座ればいいのに。というか暇でしょう。わたしを見ていても何も起きないわよ)
七日目に、さすがに声をかけた。
「エル。あなたも読んだらどう?だって暇でしょう?わたしを眺めるだけに時間を使うのは勿体ないわ」
エルは目を丸くした。何か想定外のことを言われた顔だった。
断られるかと思ったが、しばらく迷ったあと、「では、お言葉に甘えて」と小さい声で言って、本棚から一冊抜いた。
南方の冒険譚を選んでいた。
(お、趣味合うかもしれない)
それからは、同じ部屋で、同じ時間に、二人で本を読んだ。エルはときどき、読んでいる途中で小さく息を呑んだり、ページを戻したりしていた。没頭するタイプらしい。
(いいね。本を読んで没頭できる人は、信用できる)
前世のわたしの、数少ない持論だった。
*
武器図鑑を持ってきてもらった日のことだ。
剣の断面図とか、槍の穂先の種類とか、そういうのが細かく描いてあるやつで、わたしは大喜びだった。
(剣の種類萌える〜。前世のファンタジーRPGの武器設定資料集みたい。この短剣の意匠なんかたまらないわね)
エルは不安そうな顔をしていた。
「……見黒様が、このような本もお読みになるとは」
「あら、どうして?」
「いえ、神託少女であらせられる見黒様が、武具の書に興味をお持ちになるのは、少し……意外かと」
「面白いわよ、これ。穂先の形で用途が全然違うの。知っていた?」
「は、はあ……」
エルの困惑した顔が面白かった。
前世でも同じだった。「え、女の子なのにそういうの好きなの?」と何度言われたかわからない。そのたびに「好きなものは好きなの。性別は関係ないの」と返していた。
今は「神託少女なのに」に変わっただけだ。本質は同じだ。
*
子供向けの昔話が読みたいと頼んだら、エルが一冊持ってきた。差し出す手が少し震えていた。
「あの……見黒様であれば、このようなもの、くだらないとお感じになるかと思うのですが……」
この台詞を聞いた瞬間、わたしの中のオタクの魂が反応した。
前世で何百回と聞いた言葉だ。
「そんなの読んで何になるの」「まだそういうの読んでるの」「いい歳して漫画?」
全部同じだ。面白いものを面白いと言って何が悪い。
「持ってくるように頼んだのはわたしなのに。エルはおかしな人ね」
「はあ、しかし……」
「あなた、絵巻や絵本はくだらないものだと思っていて?」
エルが固まった。
「これらの物語には必ず教訓があるものよ」
(……というか、面白いんだから読めばいいのに〜もったいない)
本音はそっちだった。教訓がどうとかは後付けだ。面白いから読む。それだけだ。
でも口から出た言葉は、どうやらエルにはかなり重く響いたらしい。深々と頭を下げられてしまった。
(なんで謝るのかしら……)
まあいい。結果として、それ以降エルはジャンルに偏見を見せなくなった。
戦術書も絵本もラブロマンスも、同じ顔で持ってくるようになった。そうそう、そういうので良いのよ。
*
ラブロマンスは特によかった。
この世界にもラブロマンスがあると知ったとき、わたしは素直に嬉しかった。設定が違っても、人間が人間を好きになる話は世界共通だ。
『騎士様と私の秘めごと』という本が特に面白かった。身分違いの恋で、騎士が不器用で、令嬢が強気で、すれ違いが三回くらいあって、最後にようやくくっつく話だ。前世でいえば少女漫画の王道だ。王道はいい。王道は裏切らない。
その中に、いい台詞があった。
『愛とは、相手の幸せを願うことだけではない。相手の不幸さえ、共に背負う覚悟だ』
騎士が令嬢に言う場面だった。前後の文脈込みで、かなり刺さった。言い回しが綺麗だった。オタクは良い台詞を見つけたらストックする。前世からの習慣だ。
翌朝、たまたま大臣が来ていた。何かの報告をしに来たらしいが、わたしはまだ昨夜の余韻に浸っていた。
大臣が話し終えて、「見黒様、いかがお考えでしょうか」と聞いた。
正直に言うと、報告の内容はあまり聞いていなかった。
でも何か言わないといけない雰囲気だったので、頭に残っていた言葉をぽろっと出した。
「……実りとは、ただ成功を願うことだけではないわ。不意の不幸さえ、共に背負う覚悟が必要になる」
大臣が泣きそうな顔で感動していた。
「おお……!まさに……まさに、仰る通りでございます……!」
何に感動したのだろう。大臣の報告と、わたしが言ったことの間に、どういう繋がりがあったのだろう。わからない。でも刺さったらしい。
刺さるときは刺さる。汎用性の高い名言というのは、そういうものだ。前世の漫画で学んだ。
エルが後ろに立っていた。その目が、ほんの少しだけ、文机の上の『騎士様と私の秘めごと』に向いた気がした。
(……気づいた?)
でもエルは何も言わなかった。
次の日も、いつも通り三冊持ってきてくれた。
いい従者だと思った。
*
本を読むたびに、頭の中のストックが増えていった。物語の言い回し、歴史上の名言、詩の一節、花の名前と意味、剣の名称、軍略の定石。全部バラバラのジャンルだったが、全部わたしの中に入っていった。
前世ではそれを「オタクの雑学」と呼ばれた。この世界では、まだ呼び名がついてなさそうだった。
でもそのうち、誰かが大層な名前をつけるかもしれない。「聖女の叡智」とか「神託の源泉」とか。
(全部ただの雑学なんだけどな)
わたしは今日も、エルが持ってきた本のページをめくった。今日は農政の記録と、南方の冒険譚と、絵本が一冊。
「エル」
「はい」
「この冒険譚、面白そうね。あなたも読むかしら?」
「……お言葉に甘えて、見黒様が読み終わられた後に」
「今日中には終わるわ。夜には渡せるわね」
「……今日中、ですか」
「ええ」
エルがまた、あの顔をした。困惑と、それから何か別のものが混ざった顔。
(なんでかしら。本を速く読めるだけなのに)
わたしは気にしなかった。
ページをめくる音だけが、部屋に残った。前世から変わらない、一番好きな音だ。




