第九話 ハロー!民衆!
見黒様が初めて民の前にお立ちになる日が来た。
神託少女が宮廷に迎えられてから二年。城の内側では、見黒様の存在は揺るぎないものになっていた。水鏡の儀式、花木の神託、杞憂の聴取、ままならないの一言から始まった国政改革。いまや宮廷で見黒様の言葉を疑う者はいない。
しかし、城の外——民の間では、神託少女は「噂」でしかなかった。
黒髪の少女が城にいるらしい。何やら不思議な力を持っているらしい。国が良くなっているのは、あの方のおかげらしい。噂は広まっていたが、姿を見た者はいなかった。
陛下が仰った。
「そろそろ、民にもアカリ殿のお姿を見せるべきだろう」
大臣たちは賛成した。国の安定のためには、民心の拠り所が必要だ。噂だけの存在より、姿を見せた方がいい。十四歳の節目にお披露目の儀を行おう——そういう流れになった。
わたくしは見黒様にお伝えした。
「見黒様。来週の祝日に、城の露台から民にお言葉を賜る儀がございます」
「露台?」
「はい。城の正面の、あの高い場所です。下に広場がございまして、民が集まります」
「……わたしが、民に初めて姿を示す日になるということね?」
「はい」
見黒様は少し黙られた。
それから、かすかに口元が動いた。笑っておられた。
抑えておられるようだったが、目の奥に光があった。何か決意を新たにされたような光。
「わかったわ。少し、考えておくわね」
その日から、見黒様は夜の時間を少し長く起きておられるようになった。
鏡の前に立っておられる時間が、いつもより長かった。
*
当日の朝、城は慌ただしかった。
広場には朝早くから民が集まり始めていた。城下の者だけでなく、近隣の村からも来ている者がいるという報告があった。噂の神託少女を一目見ようと、遠方から歩いてきた者もいるらしい。
露台の階下には、宮廷楽師が配置された。管弦の楽器を構え、儀の開始を待っていた。
わたくしは見黒様のお支度をお手伝いした。
まず、衣装。白を基調としたものだった。黒髪が最も映える色だと、衣装係が選んだものだ。裾に銀糸の刺繍が入っていた。光を受けると、かすかにきらめく仕立てだった。
次に、お化粧。
侍女たちが見黒様のお顔にお化粧を施した。白粉で肌を整え、目元に薄く墨を引き、唇にほんのりと紅をさした。
施し終えたとき、侍女たちが息を呑んだ。
十四歳の少女のお顔ではなかった。いや、十四歳の骨格はそのままだった。しかし、白粉と墨と紅が加わることで、年齢の輪郭が曖昧になっていた。大人とも少女ともつかない、不思議な気品が立ち上がっておいでだ。
黒髪は、おろしたままにされた。それがより一層、神秘性を湛えている。
ラルフ将軍が露台の警備を固めていた。将軍閣下は朝から表情が硬かった。民衆の前に見黒様を出すことに、まだ不安があるのだろう。しかし、陛下のご判断には従われた。
正午が近づいた。
*
楽の音が、始まった。
広場の階下から、厳かな管弦の音色が立ち上がった。低く、深く、空気を震わせるような音だった。民が静まった。ざわめきが引いて、音楽だけが広場を満たした。
露台に続く扉が開かれた。
見黒様が一歩を踏み出された。
陽光が差し込む。
白い衣と黒い髪が、光の中に浮かび上がった。銀糸の刺繍が、幻想的かつ力強くきらりと光った。
広場から、声が消えた。
数百人の民が、一斉に黙った。楽の音だけが流れていた。
見黒様が露台の縁に進まれた。足取りが静かだった。十四歳の少女とは思えぬ静けさだった。化粧が施されたお顔は、遠目にはさらに年齢を超えて見えただろう。黒い髪が風を受けて、ゆっくりと揺れた。光を受けて、青みがかって見えた。
楽師たちの演奏が、ふっと止まった。
静寂。
見黒様はしばらく黙っておられた。
広場を見渡しておられた。ゆっくりと、端から端まで。
それだけで、空気が変わった。あの目だった。水鏡の前で見せられるのと同じ、何かを見透かすような、静かな眼差しだった。
見黒様が口を開かれた。
「……わたしが、見えるかしら」
声は大きくはなかった。しかし、静寂の中でよく通り、声が広場に広がっていった。
誰も答えず、しかし誰しもが見黒様のお言葉を待っていた。
「わたしにも、あなたたちが見えているわ」
見黒様は少しだけ目を細められた。
「この世に偶然はないの。わたしがここにいることも、あなたたちがそこにいることも」
間。
風が戻った。たおやかに黒髪が揺れる。
「だから——安心して」
見黒様は空を仰ぐように顔を上げられた。
「不安な時は……星を、月を、太陽を見上げて」
見黒様はそう仰って、静かに微笑まれた。
広場が、震えた。
歓声ではなかった。もっと深い何かだった。泣いている者がいた。膝をつく者がいた。隣の人の手を握る者がいた。空を見上げた者がいた。
あの短い言葉の中に、民は自分たちへの祝福を見たのだ。星も月も太陽もいつもそこにある。見黒様はいつでもそこにいて、我々を見守っていると——そう受け取ったのだ。
わたくしは露台の後ろに控えながら、見黒様の後ろ姿を見ていた。
白い衣に、黒い髪。風に揺れる長い髪の向こうに、数百の人間が泣いていた。
わたくしは日誌に書いた。
「本日、見黒様が初めて民の前にお立ちになった。お言葉は短く、しかし、あの場にいた全ての者の心に届いた。最後に『星を、月を、太陽を見上げて』と仰せられた。見黒様が水面を見下ろして空を映しておられるように、民は空を見上げることで見黒様と同じものを見る。見黒様の存在が城の中だけのものではなくなった日だった」
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来た。ついに来た。
(バルコニーシーン!!!)
心の中でガッツポーズを決めた。前世で何度見たかわからない。漫画で、アニメで、ゲームで。城のバルコニーに立った主人公が、群衆に向かって語りかける場面。あれだ。あの場面を、わたしがやるのだ。
(やりたかった。ずっとやりたかった。鏡の前で何百回と練習してきたけど。オタクが見たいシーンのトップ10(個人調べ)のひとつ!)
エルに「考えておくわね」と言った日から、わたしは夜、鏡の前に立ち続けた。
何を言おう。ストックはたくさんある。二年分の読書で溜まった名言は、もう数えきれない。でも全部は使えないし、丸ままパクりはさすがにダサい。バルコニーシーンは短い方がいい。漫画で学んだ。長々と喋るのは格好悪い。校長先生の話より長い教頭先生とか嫌がられるよね。短く、簡潔に、しかし余韻を残す。これ鉄則。
(三言……。いや、多くても四言かな)
何日も考えた。候補を出しては消し、出しては消した。
最終的に残ったのは、とてもシンプルなものだった。
*
当日の朝。
衣装が来た。白だった。衣装係が選んでくれたのだが、これは正解だ。黒髪に白い衣は最強の組み合わせだ。前世の漫画で何度も証明されている。コントラストがすべてを支える。裾に銀糸の刺繍が入っていた。
(銀糸! 光るやつだ! これ光に当たるとキラキラするやつでしょ!)
テンションが上がった。
髪はおろした。三つ編みにしようかとも思ったが、おろした方が風に揺れる。バルコニーシーンで風に髪が揺れないのは致命的だ。
それから、化粧。
侍女たちがわたしの顔に化粧を施し始めた。
(えっ。化粧してもらえるの?)
白粉で肌を整えられた。目元に墨を引かれた。唇に紅を薄くさされた。
前世では、化粧は自分でやるものだった。しかもわたしは化粧が下手だった。YouTubeのメイク動画を見ながらやっても、なぜか左右非対称になったし、古ぼけた感じになってしまうのだ。コスプレイベントに行くたびに、レイヤーさんたちの化粧の上手さに感動していた。あちら側の人たちは別の生き物だった。
でも今は違う。プロの侍女たちが、わたしの顔にプロの技術で化粧を施している。
(これ……コスプレイベントだ!!)
前世ではコスプレする側ではなかった。見る側だったし、撮る側だった。推しのキャラのコスプレをしているレイヤーさんに「最高です」と伝える側だった。自分でやる勇気はなかったし、やっても推しのイメージを壊すだけだったので踏み込めなかった。
今、わたしは「される側」にいる。
プロに衣装を選んでもらい、プロに化粧を施してもらい、舞台に立つ。
(前世のわたし。あんたがイベントで「憧れちゃうわ〜」って思ってたやつだよ!)
化粧が終わった。
鏡を見る。
(……)
息が止まった。
知らない人がいた。いや、わたしだ。わたしなのだが、わたしの知っているわたしと違った。白粉で肌の質感が変わっている。墨で目の輪郭が際立っている。紅を差した唇は誰しも釘付けになりそう。
爆美女が約束された爆美少女って感じだ。
(これは…………勝ったわ)
何に勝ったのかはわからない。でも、勝った。完全に勝った。
*
露台に続く扉の前に立った。
心臓がどくどくしていた。緊張ではなかった。興奮だった。前世のコスプレイベントで、メイン会場に入る直前のどきどきに似ていた。あのときはスマホを握りしめてスマートチケットを何度も確認する側だったが、今日は舞台に立つ側だ。
扉の向こうから、音楽が聞こえた。
(えっ。BGMがあるの?)
管弦の、厳かな音色が広場に響いていた。低くて深い音だった。
(BGM付き! ライブの演出だ! 前世のライブで暗転してからスポットライトが当たるまでのあの瞬間と同じだ!)
テンションがさらにブチ上がった。
扉がゆっくりと開かれて、光が差し込んだ。
(落ち着け、落ち着くのよ。もったいつけるくらいにゆったりした動作心がけて……!)
一歩、踏み出した。
*
風が吹いている。穏やかで、ボサボサにならない程度の優しい風。髪が揺れて、光が当たって滑らかな髪質を演出してくれてるだろう。完璧じゃん。天ハ我ニ味方セリ。
下に人がいた。たくさんの人がいた。全員がこっちを見ていた。
管弦の音が足元から立ち上がってきていた。この音楽の中を歩いている。わたしが。この衣装で。この化粧で。この黒髪で。
(うおお……すごい。本物だ。本物のバルコニーシーンだ)
広場全体を見下ろした。人、人、人。何百人もいた。遠くの方は顔が見えなかったが、近い方は見えた。目が合った人がいた。口を開けている人がいた。泣いている人がいた。
(泣いてる? もう? わたしまだ何も言ってないんだけど)
でも、わかる気がする。黒髪だ。この人たちは初めて、黒髪の神託少女を見ているのだ。しかも化粧込みのフル装備を。そりゃ泣ける。前世のコスプレイベントで、完璧な推しコスを見たときのわたしと同じだ。「本物がいる」と思ったときの、あの衝撃。
(うーん。ビジュアルの暴力、ここに極まれり)
さて。本番だ。
台詞は決めてある。鏡の前で百回は練習した。短く、簡潔に、余韻を残す。バルコニーシーンの鉄則だ。
楽の音が止まった。
(あ、音楽止まった。ここだ。ここで喋るってことね。演出わかってるな〜この国の楽師さんたち)
まず、間を作る。黙って広場を見渡す。漫画の主人公は、喋る前に必ず間を作る。
ゆっくりと、広場を端から端まで見た。
息をゆっくり大きく吸い込んでから、口を開いた。
「……わたしが、見えるかしら」
(この台詞は実利も兼ねてる。だってバルコニー高いし、本当にわたしが見えてるか確認したいし)
静寂。誰も答えない。答えなくていい。これは問いかけの形をした前振りだ。
「わたしにも、あなたたちが見えているわ」
(見える。顔は遠いけど、表情とかはわかる。案外遠くの人とも目が合うんだな)
「この世に偶然はないの。わたしがここにいることも、あなたたちがそこにいることも」
(これは前に読んだ詩集と前世好きだった漫画にあった台詞が土台。好きなんだよね、この……なんていうの。導かれる感じとか、ここにいることに意味があると肯定される感じとか)
間。
風が戻った。髪が揺れた。
(来た。風。完璧。タイミング完璧)
「だから——安心して。不安な時は……星を、月を、太陽を見上げてね」
(綺麗なもの見ると落ち着くよね。メンブレした時でもこの世界なら特に星はよく見えるし。身分に関係なく同じものが見れる平等さが大事よね)
微笑んだ。練習した微笑みだ。その上、今日はお化粧もある。化粧込みの微笑みは、練習のときより数段良いはずだ。
下から、何か大きなものが来た。声ではなかった。もっと深い、地面が揺れるような何かだった。
(……え、何これ。すごい。全員が一斉に……。泣いてる人もいるし、膝ついてる人もいるし……)
こんなに反応が大きいとは思っていなかった。四言だ。たった四言しか言っていない。しかも中身は「見えますか」「見えてますよ」「偶然じゃないよ」「安心して、空を見上げて」だ。特に深いことは言っていない。
(……前世のライブのアンコールで、推しが「みんな、ありがとう」って一言だけ言って会場が泣いたの思い出した。あのときの空気に似てるな)
*
部屋に戻ると、エルがいた。目が赤かった。
「……エル、泣いてたの?」
「い、いえ……風が……目に……」
「風のせいね」
「はい。風のせいです」
二人で少し黙った。
わたしは鏡の前に立った。化粧はまだ残っていた。
(……今日のわたし、過去最高だったと思う。衣装、化粧、音楽、風、全部の要素が完璧に噛み合ったわ……!)
鏡の中の自分に、小さく頷いた。
「エル」
「はい」
「今日のわたしは、皆の標になれたかしら」
(バルコニーシーンとして成立してた? 映えてた? 観客の反応的にどうだった?)
エルがしばらく黙っていた。それから、深く、深く頭を下げた。
「……民の心に、灯が点りました。あれは、標そのものでございました」
「そう。よかったわ」
(よかった。ちゃんと”それっぽく”なれてたみたい。楽師さんたちの演出のおかげもあるけどね)
「あの楽師たちにお礼を言いたいわ。わたしのしたいことを理解してくれてたみたい」
(BGMがあるとないとでは全然違うよね〜。やっぱあの人たちは演出のプロだわ)
窓の外を見た。広場にはまだ人が残っていた。
(ああ、みんなまだいる。……ふふ。神託ごっこに付き合ってくれる人が、城の中だけじゃなくなったわね)




