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神託少女は今日もテキトーを言う  作者: 絹田屋


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第十六話 それは実績解禁ってやつよ


 見黒様が将軍閣下に杞憂をお尋ねになったのは、冬の始まりだった。


 庭の池は薄い氷が張っていて、水鏡の儀式はこの季節だけ中断される。見黒様は「池が凍ると水底が見えないわ」と残念そうに仰っていた。代わりに部屋の鏡の前にいる時間が少し長くなった。冬は窓からの光が低い角度で入るので、見黒様曰く「冬の光は陰影が深くなって趣がある」とのことだった。


 見黒様の杞憂収集は、宮廷の定例行事として完全に定着していた。毎週決まった時間に、誰かが見黒様のもとを訪れて杞憂を語る。家臣たちは「今週見黒様に話す杞憂があるか」を意識して暮らすようになっていた。杞憂が見つかると安心する、という奇妙な習慣が根づいていた。


 しかし、将軍閣下だけは一度も杞憂を語られたことがなかった。


 見黒様がお尋ねにならなかったわけではない。以前一度、さりげなく水を向けられたことがあった。将軍閣下は「杞憂などはございませぬ」と短く仰っただけだった。

 あの方は、弱さを見せることを知らない人だった。いや、知らないのではなく、許さない人だった。自分に対して。


 だからこの日、見黒様が改めて尋ねられたとき、わたくしは少し驚いた。


「ラルフ。ねぇ、あなたの杞憂を聞かせてくれるかしら」


 将軍閣下が固まった。あの屈強な体が、一瞬だけ石になった。


「……杞憂、でございますか」


「ええ。心配していたけれど、実際には起きなかった話」


 将軍閣下は剣の柄に手をかけたまま、しばらく黙っていた。目を伏せていた。


 部屋の中が静かだった。暖炉の火がぱちぱちと鳴っていた。窓の外では、冬の風が木の枝を揺らしていた。


 それから、将軍閣下は柄から手を離された。


 わたくしはその動きを見逃さなかった。あの方が柄から手を離すのは、構えを解くということだ。四年間お傍にいて、初めて見る仕草だった。



「……見黒様が宮廷にお越しになった最初の年からです」


 将軍閣下の声は、いつもより静かだった。


「わたくしは、毎晩、見黒様のお部屋の前を巡回しておりました。護衛の務めです。しかし……それだけではありませんでした」


 間があった。暖炉の火が爆ぜた。


「毎晩、考えておりました。もしこの城に敵が入り込んだとき、わたくしは見黒様をお守りできるだろうか、と」


 将軍閣下の目は伏せられたままだった。


「四年前、あの御方を——戦場で、守れなかった。俺の代わりに傷を受けて、あの御方は逝かれた。あのとき以来、俺はずっと……」


 声が、わずかに詰まった。将軍閣下の喉が動いた。


「また同じことになるのではないかと。今度は、見黒様を。もしここにいて、それでも守れなかったら。もし目を離した隙に何かが起きたら」


 将軍閣下の手が、かすかに震えていた。柄を握っていたときは見えなかった。


「それが、四年間一日も消えたことがありません。結局、何も起きておりません。見黒様は御無事です。だから杞憂です。……そう、思っております」


 将軍閣下は言い終えて、口を閉じた。

 部屋が静かだった。暖炉の火の音だけが残った。


 わたくしは息をするのも忘れていた。あの将軍閣下が、あれほどの言葉を口にされるとは。


 見黒様は、少し間を置かれた。

 それから、あっさりと仰った。


「それ、杞憂ではないわよね」


 将軍閣下が顔を上げた。


「あなたが毎晩歩いていたから、何も起きなかったのでしょう? それは杞憂じゃなくて功績よ」


 それだけだった。


 見黒様は軽く仰った。当然のことを述べるように。空が青いね、と言うのと同じ温度で。


 将軍閣下が、息を呑んだ。


 目が見開かれていた。それから、少しずつ、顔が崩れた。崩れた、というのは正しい表現ではないかもしれない。解けた、の方が近い。四年間張り詰めていたものが、解けた。


 深く頭を下げた。鎧が音を立てた。


「……かたじけなき、お言葉」


 声が、震えていた。

 見黒様はもう本に戻っておられた。



 将軍閣下が退出されるとき、わたくしは廊下までお見送りした。


 将軍閣下の歩き方が、少し違った。


 いつもは重く、硬く、一歩一歩が地面を踏みしめるような歩き方だった。この日の将軍閣下は、少しだけ、軽かった。鎧の重さは変わらないはずなのに、中にいる人間が少しだけ軽くなったように見えた。


 振り返らずに、廊下の角を曲がっていかれた。

 わたくしは部屋に戻って、お茶をお持ちした。


 見黒様がぽつりと仰った。


「エル。あんなに硬い鎧を着ている人でも、中は柔らかいものなのね」


 わたくしは深く頷いた。


 鎧とは、将軍閣下の外見のことではないだろう。あの方が長年纏ってこられた、強さという鎧のことだ。誰よりも強く、誰よりも厳しく、誰よりも揺るがないように見える——その鎧の内側に、あれほど柔らかいものが眠っていたのだ。


 見黒様はそれを、一言で見抜いておられた。


 わたくしは日誌に書いた。


「本日、見黒様がラルフ将軍の杞憂をお聞きになった。将軍閣下は四年分の重荷を見黒様の前に差し出された。見黒様はそれを『杞憂ではなく功績だ』と仰せられた。大きな武勇ではなくとも、守り続けてきたこと自体を、功績と認められたのだ。将軍閣下は泣かれていた。あの方にとって、それがどれほどの救いであったか。わたくしには計り知れない」


-----


 ラルフ将軍の杞憂を聞いた。


 ずっと聞いてみたかったのだ。杞憂収集を始めてからもう何十人に聞いたかわからない。エルの手紙、侍女の洗濯物、庭師の苗木、料理長の香辛料、大臣の外交失言。全部面白かった。頭の中の分類フォルダが「家族編」「家事編」「仕事・育成編」「仕事・完璧主義編」「仕事・外交編」と増え続けている。


 でも、ラルフのがまだなかった。


 前に一度聞いたら「杞憂などない」と返された。あの人らしかった。でも杞憂がない人間なんていない。あるけど言わないだけだ。


 四年経ったし、もう一回聞いてみよう。


「ラルフ。ねぇ、あなたの杞憂を聞かせてくれるかしら」


 ラルフが固まった。しばらく黙っていた。剣の柄にかけていた手を、静かに離した。


(あ、柄から手離した。珍しい。ラルフがあれやめるの、初めて見たかも)


 話し始めた。


 毎晩わたしの部屋の前を歩いていたこと。四年間ずっと。守れなかったらどうしようと毎晩考えていたこと。四年前に戦場で守れなかった人がいて、それがずっと消えないこと。


(へぇ。知らなかった。毎晩歩いてたんだ……。わたしが本読んで、鏡の前でセリフ練習して、のんきに寝てる間に、この人はずっと見回りしてたのかな)


 話が終わった。

 ラルフの手が少し震えていた。


(ふむふむ。カテゴリは「護衛編」かな)


 少し間を置いてから思った。


(あれ。これ、杞憂なの?)


 ちょっと引っかかった。

 杞憂というのは「心配したけど何も起きなかった」話だ。でもラルフの場合、何も起きなかったのは偶然じゃない。毎晩巡回してたから起きなかったのだ。


 前世でやったRPGを思い出した。毎日同じクエストをこなし続けると、ある日ぽんと実績が解除される。「護衛任務を○日連続達成」みたいなやつだ。四年間毎晩なら千四百日以上。それはもう杞憂じゃない。やりこみ勢の実績だ。


「それ、杞憂ではないわよね」


 ラルフが顔を上げた。


「あなたが毎晩歩いていたから、何も起きなかったのでしょう? それは杞憂じゃなくて功績よ」


(「実績解除」だとこの世界では通じないから「功績」かな。同じことよね)


 ラルフが頭を下げた。鎧が音を立てた。声が震えていた。


(あ、泣いてる。この人が泣くのは初日以来だ)


 うんうん。ちょっとだけ分かる。毎日の継続系ミッションでなかなか実績分かりにくいのよね。お花の水やりとかは花が咲いて報われた感じするけど、毎日雑草抜いたりするのはまっさらな地面じゃないと分からないっていうか。まぁわたしの場合は前世の無人島開発ゲームなんだけど。



 ラルフが帰った。


 帰るとき、廊下をちらっと見た。後ろ姿がいつもと少し違った。歩き方がほんの少しだけ軽い気がした。


(……鎧の重さは変わらないはずなのに。不思議)


 部屋に戻って、お茶を飲んだ。


「エル。あんなに硬い鎧を着ている人でも、中は柔らかいものなのね」


「……! はい……まさに、仰る通りです」


(だって鎧ごしにあんなに震えてたもの。鎧の中身は普通の人間なのよね。あたりまえだけど、なんか面白い)


 本を開いた。今日の三冊のうち一冊は、古い騎士の叙事詩だった。


(エルの選書、たまに妙にタイムリーなのよね。偶然かしら)


 読み始めた。


 騎士の叙事詩には、主君を守り続けた老騎士の話が載っていた。四十年仕えて、一度も剣を抜くことがなかった騎士。「剣を抜かなかったのは、弱かったからではない。抜かせなかったのだ」と書いてあった。


(……ラルフっぽいな。この騎士)


 ページをめくった。


(しかしラルフの杞憂、分類に困るな。「護衛編」でいいのかしら。いや、もうちょっと正確なカテゴリ名がある気がする。「護衛編・千四百日連続達成」とか。長いな。まあいいか、仮置きで)

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