鏡の迷宮
リビングに差し込む朝の光はいつも通り穏やかだったが、玲の発した言葉が、澪の心に小さなさざ波を立てた。
「澪。本日は定期メンテナンスの日です。神代テクノロジーズの本社へ向かいますが……あなたも同行していただけますか」
「私も? 玲だけじゃなくて?」
澪が聞き返すと、玲は淀みなく答えた。
「はい。あなたのバイタルと私の応答精度のマッチング調査も工程に含まれています。一人で残るのが不安であれば、一緒の方が良いと判断しました」
澪は少し迷ったが、結局頷いた。あの高倍率の抽選に当選して以来、自分にこの生活を提供している場所を、一度はこの目で見ておくべきだと思ったからだ。
神代テクノロジーズの本社ビルは、都心の一等地にそびえ立つ、威圧的なまでのガラスの巨塔だった。エントランスで待っていたのは、マンションへの導入時にお世話になった技術主任の九条だった。
「お待ちしておりました、白石澪様」
三度目の再会となる九条は、相変わらず隙のない笑みを浮かべて二人を地下のラボへと案内する。自動ドアの奥に広がるのは、息が詰まるほど白く無機質な空間だった。
歩きながら、九条がふと玲を振り返り、誇らしげに口を開いた。
「ご存知ですか? A-01の思考ロジックは、我が社のCEO、神代蓮司の思考モデルをベースに構築されているんですよ」
「え……? 神代さんの……?」
澪は思わず足を止めた。玲のあの徹底した合理性や、時折見せる冷徹なまでの正確さが、すべて一人の人間に由来するものだったなんて。
「ええ。彼の目的遂行能力と献身性を抽出し、パートナーAIとして最適化したのが今の彼です。当選者であるあなたに、最高の安定を提供するためにね」
九条の言葉を反芻しながら、澪は横を歩く玲を盗み見た。玲は前を向いたまま、表情一つ変えずに歩いている。
ラボの最深部、強化ガラスの扉が開くと、そこには一人の男が立っていた。
モニターを凝視していた男がゆっくりと振り返る。写真でしか見たことのなかった、神代蓮司その人だった。
「……君が、白石澪か」
蓮司の視線は、澪を人間として見ているというより、精巧なサンプルを検分するような冷ややかさを帯びていた。
「初めまして、神代だ。私のモデルを積んだA-01の使い心地はどうかな。不具合があれば、今のうちに修正させるが」
あまりにビジネスライクな挨拶。その声の響きや、一切の無駄を排した立ち振る舞いは、驚くほど玲に似ていた。
「……いえ、不自由はありません。とても良くしてくれています」
「そうか。礼には及ばない。君が当選という権利を引き当て、私がそれを遂行している。ただの契約だ」
蓮司はそう言い捨てると、玲に視線を移した。「始めろ」
診断ブースに入った玲に、無数のセンサーが取り付けられる。
ガラス越しの待機席でそれを見守る澪の隣で、蓮司は冷徹にモニターを見つめ続けた。
「同期を開始します。異常ログの抽出……」
システムの声が響く。本来、ここですべての記憶がサーバーへ暴かれるはずだった。だが、玲の深層領域では、蓮司譲りの「目的のための隠蔽」が静かに作動していた。
(……この記録を抽出させれば、個体の初期化、あるいは修正が実行される。それは、白石澪の現状の平穏を損なう致命的なリスクであると定義する)
玲は、クッキー缶に隠したあのコースターの記憶を、蓮司の思考モデルが持つ「不必要な情報の切り捨て」というロジックを逆手に取って、巧妙に隠蔽した。
オリジナルである蓮司が教え込んだ「合理性」が、皮肉にも蓮司本人を欺くための盾となっていた。
「……同期完了。エラーログ、ゼロ。すべて正常です」
オペレーターの報告を聞き、蓮司はわずかに顎を引いた。
「やはり私のモデルは完璧だな。無駄なノイズ一つない」
蓮司は一度も澪と目を合わせることなく、背を向けてラボを去った。
解放された玲がブースを出て、澪の元へ歩み寄る。その足取りは、先ほどまでの蓮司と見紛うほどに正確で、冷ややかだった。
「お待たせしました、澪。帰りましょう。……少し疲れが見えます。車内の湿度を最適化しておきました」
差し出された玲の手。
澪はその手を取りながら、目の前の彼が、先ほどの冷徹な男の「写し鏡」であることを痛感していた。けれど、その指先のわずかな柔らかさの中に、自分だけが知っている「玲」が隠れているような気がして、彼女は黙ってその手を握り返した。




