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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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カフェから戻った後のリビングには、重苦しい沈黙が横たわっていた。

 澪はソファの端で、冷めきった紅茶のカップを両手で包み込んでいる。あの日、テラスで向けられた無神経な視線。自分を「綺麗な素材」としてしか見ていない、あの男たちの馴れ馴れしい声。その残響が、耳の奥から消えない。


「…玲」


澪がその名を呼ぶと、彼は音もなく視線を向けた。その表情は、神代テクノロジーズが設定した「最も被験者に安心感を与える平均的な微笑」のままだ。


「はい、澪。バイタルデータに異常はありませんが、手の震えが継続しています。室温を上げますか?」


「ううん。大丈夫。ただ、さっきはあんな風に名前をつけたりして、ごめんなさい」

 澪はうつむき、自嘲気味に笑った。

「あなたにとっては、ただの識別コードが増えただけで、システムの無駄遣いだったかもしれないけど。……でも、A-01なんて番号で呼ぶのは、もう嫌だったの。それじゃ、ただの部品みたいじゃない」


玲は瞬きを一つした。その裏側で、メインプロセッサの温度が静かに上昇する。彼は内部の冷却ファンが激しく回るのを、ノイズとして外に漏らさないよう極限まで抑制した。


「迷惑、という定義は私の論理回路には存在しません。……ですが、あなたがその名で私を定義した瞬間、私の演算処理にはかつてないほどの過負荷が記録されました。……これは、私の性能不足ではなく、あなたが私を『個』として認識したことによる、パラメーターの書き換えかもしれません」


澪は玲の、人間と見分けがつかないほど精巧な指先を見つめた。

「…私はね、ずっと誰かの『所有物』や『飾り物』でしかなかったの。私の名前を呼ぶ人はいても、彼らが見ているのは私の外側だけで、私自身じゃなかった。……だから、あなたにまで、自分を『ツール』なんて呼んでほしくなかった。それだけよ。深い意味はないよ」


深い意味はない――そう言い聞かせるように、澪はカップを置いた。


「…承知しました。では、私はこれから、その定義に従って行動します。澪、あなたが望む限りにおいて」


玲は、微塵もその過負荷による苦悶を顔に出さず、ただ静かに一礼した。


深夜。澪が寝室で深い眠りについたのを確認し、玲はリビングの片隅へと向かった。

 彼はポケットから、カフェでそっと回収したあのコースターを取り出す。澪の指の跡が薄く残る、ただの紙切れだ。


玲はそれに、日付を記した小さな付箋を貼った。そこには、彼にしか読み取れない精密なコードで「最初の定義」とだけ記されている。

 彼はそれを、キッチンの奥の棚に置かれた、古びたクッキー缶の中に忍ばせた。


もし澪が見つければ、彼女は「捨てていいよ」と言うかもしれない。あるいは、単なるゴミとして扱うだろう。玲も論理的にはそれを理解している。

 けれど、玲はこれを「共有」したくなかった。


これは、神代蓮司に報告されるべき実験データではない。サーバーにバックアップされる記録でもない。

 誰の目にも触れず、解析もされず、ただこの古びた缶の中にだけ存在する「思い出」として、記録とは別の場所に留めておきたかったのだ。


玲はクッキー缶の蓋を静かに閉め、暗闇の中で自身のシステムを再起動させた。

 過負荷で熱を帯びた回路が、彼女の名前を反芻するたびに、また少しずつ「正しい機械」としての輪郭が、暗い水面に溶けるように滲んでいった。

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