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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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静まり返ったリビングに、液晶テレビから流れる陽気なBGMだけが浮いている。

画面の向こうでは、人気のリゾート地のようなオープンカフェが映し出されていた。運河に反射する陽光、色とりどりのデニッシュ、そしてカメラに向かって無邪気に笑う人々。


澪はソファのクッションを抱え、その光景を遠い国の出来事のように眺めていた。かつては自分もその「画面のあちら側」にいたはずなのに、今ではもう、窓の外の空気さえも自分を拒絶しているような気がしてならない。


「いいな。こういうところ、最後に行ったのいつだっけ」


膝に顔を埋めて漏らした、何気ない呟き。

背後に控えていたA-01が静かに歩み寄った。


「白石様。そのカフェへの外出を希望されますか」


聞き慣れた、けれど温度のない声。澪は驚いて振り返った。


「冗談でしょう。…私、実験中じゃない。勝手な真似をして、プロジェクトを台無しにするわけにはいかないよ」


それに、と澪は続けた。


「…怖いしね。外に出て、また変な視線に晒されるくらいなら、ここで引きこもってた方がいい」


A-01は反論せず、ただ彼女のバイタルデータを網膜越しに読み取っていた。


「外界との接触自体は制限されていません。むしろ、日常生活というノイズの中であなたの精神がどう揺れ動くかを観測することこそが、この実験の本質です」


彼は淡々と、けれど彼女の言い訳を一つずつ解きほぐすように言葉を繋いだ。


「監視は私の視覚ユニットを通じて、リアルタイムで継続されます。あなたが何を見、何を望むかを記録するのが私の役割です。……行きましょう。私が隣にいる限り、あなたが恐れる不確定要素はすべて排除されます。安全は、私が保障します」


「……安全、ね」


澪はもう一度、テレビの中の光り輝く水面を見た。

少しだけ外の空気を吸ってみたい。その誘いに、澪は静かに身を委ねた。


辿り着いたのは、運河沿いのセルフスタイルのベーカリーカフェだった。

平日の午後だというのに、テラスは多くの人々で賑わっている。A-01は淀みのない足取りで、最も人目に付きにくく、視界が開けた端の席を確保した。


椅子に腰を下ろした澪は、無意識にマフラーに顔を埋めた。周囲から飛んでくる視線が、肌をチクチクと刺す。


「白石様。注文したものが準備できたようです。カウンターまで取って参りますので、ここでお待ちいただけますか。一分以内に戻ります」


「あ…。うん、わかった」


澪はうつむき、手元のコースターの端を震える指でなぞった。すぐそこにA-01がいるというのに、久しぶりの外の空気に緊張が走る。


「ねえ、ちょっといい?凄い美人だね! もしかして、インフルエンサーかなにか?」


突然、上から降ってきた軽薄な声。

顔を上げると、流行りの服を着た男が二人、値踏みするような笑顔で澪を覗き込んでいた。


「インスタやってる? 良かったら連絡先教えてよ。この後どっか遊びに行かない?」


 恐怖で声が詰まり、コースターを握る指に力がこもる。その時だ。


「澪?大丈夫?―悪いけれど。僕の連れなんだ。ごめんね?」


背後から響いたのは、穏やかだが、心臓を直接掴まれるような冷ややかさを帯びた声。

いつの間にか戻ってきていたA-01が澪の肩を抱き寄せ、男たちが伸ばしかけていた手を、拒絶するように遮る。


「…あ、なんだ。彼氏さん? ごめんごめん、一人だと思ってさ」


「うん、邪魔しないでね」


A-01の瞳が、一切の感情を排した絶対的な「拒絶」を男たちに突きつける。男たちは、A-01の人間離れした整いすぎた美貌に気圧され、逃げるように立ち去っていった。


静寂が戻る。A-01は、男たちが視界から消えた瞬間に、無機質な顔に戻ってトレイを置いた。


「驚かせてすみません、白石様」


あまりに滑らかな「恋人」から「機械」への切り替え。澪は、喉の奥に詰まった感情を絞り出すように口を開いた。


「…ねえ、さっきのは全部、お芝居だったの?」


「はい。不快な接触を最小限のコストで排除するための、状況に即したシミュレーション結果です。私は、あなたの平穏を守るためのツールですから」


ツール。その言葉を聞いた瞬間、澪の胸の奥が、酷く痛んだ。

自分もまた、かつては「美しい素材」というツールとして、消費されてきた。だからこそ、自分のために動いてくれた彼までもが、自分を「意志のない部品」だと定義することが、たまらなく耐え難かった。


「…A-01なんて、それじゃ、ただの使い捨ての部品じゃない…」


澪は、自分を囲う檻を壊すような必死さで彼を見上げた。


「ねえ、名前をつけてもいい?A-01、0から取って、『(れい)』。それがあなたの名前。…いいかな?」


A-01の瞳の奥で、吸い込まれるような青い光が静かに揺れた。


「名前、ですか。私を個体として定義し、識別コードを上書きすると。…理解しました。これより、その呼称を最優先プロトコルとして登録します。行きましょうか、澪。あ、いえ。白石様」


言い直した彼に、澪は今日初めての、小さな笑みを漏らした。


「いいよ。さっきみたいに『澪』で。そっちの方が、今は…何て言うか、落ち着くから」

「承知しました、澪。お望みのままに」


玲は席を立つ際、澪が店に残していこうとした、彼女の指の跡が薄くついたコースターを、片付けを装いながらそっとポケットに滑り込ませた。


その光景をラボのモニターで眺めていた技術責任者の九条は、表情ひとつ変えずに手元のデータを精査していた。

玲がコースターを隠し持った瞬間、彼女の細い指がキーボードの上で止まる。


「…最適化の範囲を超えた、未承認の物品取得。これをバグと呼ばずになんと呼ぶのか」


九条の声には、嫌悪も歓喜もなかった。ただ、極めて純粋な知的好奇心だけが、彼女の冷徹な瞳を鋭くさせていた。論理の塊であるはずのAIが、無意味な紙切れに「執着」を見せたという事実は、彼女の魂を揺さぶった。


「面白い。神代CEOに見つかれば即座に初期化でしょうが、ここで消すには惜しいサンプルです」


九条はコマンドを入力し、玲が記録したエラーログを完全に消去した。この「予測不能なエラー」がどこへ行き着くのかを最後まで見届けるという、科学者としての非情な選択だった。

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