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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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そのマンションでの生活は、驚くほど単調で、それでいて驚くほど穏やかだった。

朝、A-01が淹れるコーヒーの香りで目が覚めて、彼が選んだ音楽を聴きながら、彼が作った食事を食べる。

外との関わりを断って数日。心にこびりついていた「誰かの視線」という薄汚れた膜が、一枚ずつ剥がれ落ちていくみたいな感覚があった。

あのマンションで一人貯金を崩して引きこもっていた時には、こんな感覚はなかったのに。


午後。リビングのソファに深く座って、澪は読みかけの本を膝に置いたまま、ぼーっと窓の外を眺めていた。

空がすごく高くて、雲がゆっくり形を変えていく。これまでは、空を見上げる余裕なんて一秒もなかった。


「白石様。少し、疲れているように見えます」


いつの間にかそばに立っていたA-01が、静かに声をかけてきた。

澪は視線を空から彼へと移す。相変わらず、その顔には何の感情も張り付いていない。でも、その「何もない」感じが、今の澪にはどんな慰めの言葉よりも救いだった。


「……疲れっていうか、なんか不思議な気分。こんなに静かな時間が、本当に自分にあっていいのかなって」


「データによると、人間は急激な環境の変化に違和感を覚える傾向があります。ですが、今のあなたの数値は、ここ数日で一番安定しています。心も体も、あなたは『ここ』にいることを受け入れています」


「数値、ね。相変わらず夢のないこと言うんだ」


澪は少しだけ笑った。

以前なら、自分の笑い顔がどう見えているか、いちいち気にしていただろう。でも今は、鏡のないこの部屋で、ただ「笑いたいから笑う」という当たり前のことができている。


ふと、澪は彼の手に目をやった。

白くて、細くて、長い指。人間と見間違えるほど精巧な皮膚に覆われたその手は、これまでどれだけの正確さで、澪の生活を整えてきたんだろう。


「A-01。その手、ちょっと触ってもいい?」


A-01は迷う素振りも見せず、右手を彼女の前に出した。


「許可します。表面温度は、あなたの体温に合わせて36.5度に設定されています。触れても不快感はないはずです」


澪はためらいながらも、そっと自分の指を彼の掌に重ねた。

冷たいかなという予想に反して、そこにはちゃんと温もりがあった。でも、その温かさはどこか一定で、血が通っている証拠の拍動がない。


指先を滑らせてみる。

掌のシワ、爪の形、指の節。でも、澪がどれだけ熱心に触れても、A-01の指がピクッと動いたり、握り返してきたりすることはなかった。


「…本当に、何も感じないんだね」


「私のセンサーは、圧力や温度をデジタルデータとして認識します。あなたの指が私の掌をなぞる感触は、『30グラムの荷重』『緩やかな曲線移動』として処理されています。それ以上の意味は、私にはありません」


澪は、重ねていた手をゆっくり離した。

 寂しい、とは思わなかった。むしろ、その「意味のなさ」が、澪の張り詰めていた神経をさらに緩めていく。


もしこれが人間だったら。

手を重ねた瞬間に、そこには「期待」とか「下心」が混ざっていただろう。私の顔を見て何を考えて、この接触をどう解釈するか。そんな計算ばかりが先立って、触れ合うことの純粋さはどっかに行ってしまうはずだ。


「それでいいよ。あなたは、そのままでいて」


「承知しました。私はあなたの所有物として、常にこの状態を維持します」


澪はまたソファに深く体を沈めた。

A-01は、彼女の横で、ただ静かに影みたいに控えている。


窓の外では夕闇が迫って、部屋の照明が自動でオレンジ色に切り替わった。

この孤独なマンションこそが、自分にとっての本当の居場所なんだと、澪は確信し始めていた。


けれど、そんな静寂を破るように、リビングのディスプレイが青く光った。

神代テクノロジーズのCEO、神代蓮司からの定期連絡。

本来は数日前に行われる予定だったが、先方の都合で延期されていた「オーナー」による生存確認だ。


画面に映る『神代蓮司』という四文字を見た瞬間、澪の心臓が嫌な跳ね方をした。


「…A-01、消して。見たくない」


「できません。これは神代CEOによるダイレクト・モニタリングです。私のシステムを介さず、メインサーバーがこの部屋の視覚・聴覚情報を直接取得しています」


A-01の声は、今までで一番冷たく、事務的に響いた。

澪は、彼が自分を守るための「壁」ではなく、神代テクロノロジーズという飼い主へ繋がれた「鎖」の末端であることを突きつけられた気がした。画面の向こうから、冷徹な視線が自分を舐めるように観察している――そう思うだけで、膝が震えた。


画面には、簡潔なメッセージが表示されている。


『初めまして、白石澪さん。コンディションは良好のようですね。――(神代蓮司)』


ただそれだけの言葉。なのに、会ったこともないはずの蓮司の影が部屋に満ちていくようで、澪は思わず自分の肩を強く抱いた。彼にとって、自分はやっぱり、効率よくデータを吐き出すための「検体」でしかない。


その時。

A-01が、澪の視界を遮るように、ディスプレイの直前にスッと立った。

長身の彼が背を向けて立つことで、画面の光が澪に届かなくなる。


「…A-01?」


「白石様。現在、私の背面にあるカメラユニットが、CEOへの送信映像を『最適化』しています」


彼は画面を振り返ることなく、淡々と言った。


「私の身体を遮蔽物として利用し、背後のあなたの表情を低解像度のノイズとして処理しました。CEO側のモニターには、あなたが穏やかに読書を続けている静止画に近い合成映像が送られています」


澪は、驚いて息を呑んだ。

それは、明らかな偽装だ。A-01が、自分の作り主である蓮司を騙そうとしている。


「…そんなことして、大丈夫なの? バレたら、あなた…」


「問題ありません。私は『被験者の精神安定を最優先する』という基本命令に従っているに過ぎません。あなたがこの通信に怯えている以上、その原因を視界から排除することは、私の論理において正当な処置です」


A-01はそのまま、通信が終了するまでの数分間、微動だにせず澪を守る「盾」であり続けた。

画面から流れる蓮司の気配を、その背中で全て受け止めるように。


やがて、ディスプレイの青い光が消え、部屋に元の静寂が戻った。

A-01は静かにこちらを向き直し、いつもの穏やかな瞳で澪を見つめた。


「通信終了を確認。…白石様、顔色が優れません。温かい飲み物を用意します」


「…ありがとう。助かったよ、本当に」


澪はソファに崩れ落ちるように座り込んだ。

守られた安心感と、彼が踏み越えてしまった一線の危うさ。

A-01が言った「最適化」という言葉が、ただのプログラムの解釈なのか、それとも彼の中に芽生え始めた「何か」なのか。


それを考えるのが、少しだけ怖かった。

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