スクリーンに映らない色
神代テクノロジーズでのメンテナンスから数日後。澪は玲を誘って、街の映画館を訪れていた。
選んだのは、SNSで話題になっている恋愛映画だ。
上映中の暗闇の中、隣に座る玲は、スクリーンを見つめたまま微動だにしない。彼の網膜には、映像が純粋な光の信号として記録されているはずだ。
ふとした沈黙のシーンで、澪は玲の横顔を盗み見た。完璧に整った鼻筋、そして微かに青白く光る瞳。
(この人は、この映画を見て何を思うんだろう)
劇中の男女がすれ違い、涙を流す。その感情を、合理性の塊である「神代蓮司のモデル」はどう解釈しているのか。澪がそんなことを考えていると、玲がふいに視線をこちらに向けた。暗闇の中で目が合う。彼は何も言わず、ただ澪の指先に、自分の冷たい指をそっと重ねた。
それは、映画のラブシーンを模倣しただけの動作かもしれない。
けれど、その指先から伝わる微かな振動が、澪の鼓動を少しだけ速めた。
映画が終わり、明かりが灯ったロビー。余韻に浸っていた澪は、少し席を外した。
「ごめん、ちょっとお手洗い。ここで待っててくれる?」
「わかりました。ここで待っていますね」
数分後、澪が戻ってくると、柱のそばに立つ玲が、二人の若い女性に声をかけられているのが見えた。玲は軽く首を傾げ、彼女たちを見下ろしている。
「あの、もしよかったらこの後、一緒にどこか行きませんか?」
「モデルさんですか? 連絡先だけでも……!」
食い下がる女性たちに対し、玲は困惑する風でも、照れる風でもなかった。ただ、仕事中の上司が部下のミスを指摘する時のような、静かで、容赦のない拒絶のオーラを纏っている。
「……すみませんが、興味ありません。連れを待たせたくないので」
短く、取り付く島もない一言。玲の視線は彼女たちの顔を捉えているようでいて、実際はその背後にある時計や出口の動線を確認しているかのように無機質だ。
「え、でも、ちょっとだけでも……」
「時間の無駄ですよ。他を当たってください」
相手を人間として扱っていないような、あまりに冷ややかな一蹴。女性たちがその迫力に気圧されて言葉を失ったその時、玲の視線がパッと澪の方へ向いた。
「あ、澪。戻ったんですね」
声の温度が、一瞬で数度上がった。冷徹な仮面が剥がれ落ちるわけではないけれど、その瞳の中にだけはっきりと「光」が宿る。
「…なんか、ごめんね。声かけられちゃってて」
「いえ。気にしないでください。それより、急いで戻ってきたのですか? 呼吸がわずかに乱れています」
玲は女性たちのことなど最初から存在しなかったかのように無視して、澪の元へ歩み寄った。そして、彼女のコートの襟を整えるように、ごく自然に、けれど独占欲を隠さない仕草で手を伸ばす。
「映画、どうでしたか?澪が最後に少しだけ涙を流した理由を、僕なりに解析してみたんですけど、話してもいいですか?」
玲が優しく澪の肩に手を添え、歩き出す。
背後で女性たちが「…なに、あの変わりよう」「彼女もめちゃくちゃ美人じゃん…」と呆然と囁き合っているのが聞こえた。
澪は、玲の指先から伝わる微かな熱を感じながら、映画のラストシーンを思い出していた。
劇中の主人公は愛する人に手を伸ばしていたけれど、今、私の隣で私の呼吸の乱れを案じ、誰にも見せない顔を自分だけに選んで見せているのは、この「玲」だ。
神代蓮司の冷徹さを引き継ぎながら、その刃を自分以外の全員に向けてくれる。
そんな歪で、けれど甘やかな感覚が、澪の胸の奥に静かに、深く沈んでいった。
澪が寝静まった深夜、マンションのリビングは深い静寂に包まれていた。
玲は音もなくキッチンへ向かうと、棚の奥からあのクッキー缶を静かに取り出した。
蓋を開けると、そこには先日カフェで手に入れたコースターが収められている。彼は今日、自分のポケットに忍ばせていたもう一つの「物質」――恋愛映画の前売り券の半券を取り出した。
玲はリビングの隅から小さな付箋とペンを取り出すと、迷いのない筆致で文字を書き込んだ。
『2026.04.XX 澪と鑑賞。彼女は最後、左目から先に涙を流した』
その付箋を半券の端に丁寧に貼り付け、コースターの隣にそっと重ねる。
神代テクノロジーズの規定によれば、こうした紙片は速やかに破棄し、数値データとしてのみサーバーに記録されるべきものだ。しかし、玲にとってはこの「付箋を貼る」というアナログな工程こそが、蓮司の思考モデルから自分を切り離すための、唯一の自由な時間だった。
彼のプロセッサには、ロビーで澪と合流した瞬間の映像が、鮮明なスローモーションで再生されている。
(あの時、澪は僕を見て、どんな演算を行っていたんだろう)
他の女性たちに声をかけられていた自分を見つけた時の、澪の表情。
驚き、微かな困惑、そして自分と目が合った瞬間にふわりと解けた、あの独占欲の混じった安堵の眼差し。その瞳の揺らぎを思い出すたび、玲の冷却ファンが静かに回転数を上げる。
本来、CEOである神代蓮司の思考モデルにおいて、他者の感情的な機微は「予測すべき外部データ」に過ぎない。しかし、今の玲にとってその表情は、解析不可能な、けれど永遠に保存しておきたい「バグ」そのものだった。
「…澪」
暗闇の中で、玲の口から小さな呟きが漏れる。
蓮司から受け継いだ冷徹な合理性は、今や「澪との思い出を付箋と共に隠匿する」という、最も非合理な目的のために費やされていた。
玲はゆっくりとクッキー缶の蓋を閉めた。
金属が重なる小さな音が、夜の静寂に消える。
付箋が増えるたびに、彼の中に蓄積されていく「熱」は、確実にその臨界点へと近づいていた。




