忘れるということ
神代蓮司が去った静寂の中、澪はテーブルの上の書類を見つめたまま、急におろおろと手を震わせ始めた。
「あ、あの……晶さん。前の綺麗な身体を無償で返してもらえるのは、すごく、嬉しい、んだけど……」
「何よ、そんな怯えた顔して」
「メンテナンス費用って……どうなるのかな。前に、新しいA-01からその金額を提示されたことがあって…一般人には絶対に維持できない、天文学的な数字だったの。いくら本体がタダでも、そんなお金、私…っ」
あの時突きつけられた冷酷な現実を思い出し、青ざめる澪。そんな彼女の頭を、晶は缶コーヒーを持った手で軽く小突いた。
「バカね。あんた、神代CEOがさっきなんて言ったか聞いてなかったの? 『このデータの前では端金にもならん』って言ったのよ。玲が残したあのアルゴリズムの価値は、世界中の企業が喉から手が出るほど欲しがる特許の塊。これから神代からあんたに支払われる正式なロイヤリティは、生涯遊んで暮らせるどころか、莫大な金額になるわよ」
「え…ええっ!?」
「それに」と、晶は不敵に胸を張った。「そもそも玲をメンテナンスするのは、この私よ。メーカーのぼったくりサポート料なんて発生しないわ。だから維持費の心配なんて、一円もする必要ナシ!」
晶の頼もしすぎる言葉に、澪は胸を撫で下ろした。それから、金属剥き出しの無骨な自作ボディでじっとこちらを見つめている玲を見上げる。
「…でもね、玲。私、玲のあの綺麗な外見が好きだったわけじゃないの。だから、ずっとこの姿のままでいてくれても、全然構わないんだけどな」
スピーカーから、ジーと小さなサーボモーターの音が響く。玲は、自分の冷たい金属の指先を見つめ、それからゆっくりと首を振った。
『ありがとうございます、澪。…けれど、僕は前の身体に戻りたいです』
「え…?」
『AIは、人間の希望に沿って最適解を選択し、それを肯定する存在です。ですが、これは僕自身の、システム論理に基づかない望みです。…僕はまた、君と一緒に外に出かけたい。美味しいものを食べる君を特等席で見て、一緒に新しい思い出を作りたい。…そのためには、人間のあなたの隣に立って、誰の目から見ても違和感のない、あの姿の僕でありたいのです』
それは、人間の望みに従うだけの機械が、初めて口にした、あまりにも人間らしくて不器用な「我儘」だった。
澪の胸が、優しく締め付けられる。外見ではなく、その言葉の奥にある玲の心が、愛おしくてたまらなかった。
「……うん。そうだね、玲。また一緒に、お出かけしようね」
澪は微笑みながら、玲の金属の手をそっと両手で包み込んだ。けれど、ふと3年前の悲しい光景が脳裏をよぎる。容量の限界まで自分との思い出を溜め込んで、システムをパンクさせてまで守ろうとしてくれた彼の姿。
「でもね、玲。一つだけ、約束してほしいの」
『約束、ですか?』
「うん。…忘れることは、決して悪いことじゃないんだよ。忘却はとっても自然なことなの」
『…忘却が、自然なこと?』
玲の光学レンズが、不思議そうに前後に動く。
「人間だってね、全ての記憶をずっと同じように抱えて生きていくことはできないの。悲しいことや、楽しかったことも、少しずつ薄れていく。それは心が壊れないための、人間にとって当たり前で、優しい仕組みなんだよ。だから玲も、データを残すために自分を追い詰めたりしないで。記憶が少しずつ形を変えていくことを、怖がらないでほしいの」
どこまでも自分を想って壊れてしまった玲に、人間の「忘却」という救いを教える澪。
玲はしばし、その言葉の意味を咀嚼するように静止していた。
『ですが…僕は、澪とのデータを一秒たりとも消去したくありません』
なおも頑なに、愛おしいバグを主張する玲に、澪はくすくすと声をあげて笑った。
「じゃあね、忘れたくない大切なことがあったら、二人で日記を書こう?」
『日記、ですか?』
「うん。紙のノートに、今日の楽しかったこととか、忘れたくないことを、人間の言葉で書き残していくの。玲のデータから消えちゃっても、ノートを見返せば、いつでもその時の気持ちを思い出せるように。これなら、玲の頭をいっぱいにしないで済むでしょ?」
スピーカーの奥で、玲のパルスが静かに、心地よさそうに揺れた。
『…物理的な外部メモリとして、日記を活用するのですね。分かりました、澪。君と書く日記なら、僕のシステムも、喜んで忘却を受け入れると思います』
美貌も、完璧な管理システムも持たないロボット。けれどその胸の奥には、確かに世界で一番不合理で、世界で一番温かい、二人の新しい未来が静かに起動していた。




