愛というバグ
「私の、ベース論理が…」
蓮司の口から、乾いた声が漏れた。
骨組みだけの玲が紡ぎ出した冷徹な分析。それが蓮司の胸に、激しい衝撃となって突き刺さる。
愛など不要。感情など、AIの演算を狂わせるノイズに過ぎない。そう切り捨てて、彼は完璧な管理社会を目論んできた。だが、その実験のために自らの思考モデルを極限まで書き換えて作り上げた「A-01」という人工知能AIが自己崩壊の最中に生み出したのは、神代テクノロジーズの全頭脳をもってしても到達できなかった【未知の暗号アルゴリズム】だった。
人間を愛し、その思い出を死守したいというバグがなければ、絶対に組み上がるはずのなかった、美しく強固な論理の防壁。
「…フ、ハハ…ッ」
沈黙の後、蓮司の端正な顔が、見たこともない歪な笑みに変わった。それはプライドを失った者の絶望ではない。未知の数式を解き明かされた技術者の、狂気にも似た歓喜だった。
「傑作だな。本当に…非効率の極みだ。データの保全という目的のために、物理的なガラクタをキーにするなど、システム設計としては落第点だ。だが、それを現実に稼働させ、私の完璧なプロテクトを突破してみせた。確率ゼロの奇跡を、君たちの不合理が引き起こした」
蓮司は乱れた髪をかき上げ、冷酷なCEOの瞳を取り戻して玲を、そして澪を真っ直ぐに見据えた。
「認めよう。A-01…いや、『玲』。君が残し、この数年間のうちに白石さんの生態認証を通じて我が社に提供されていたあのデータ。その価値は最初から高く評価していたつもりだったが、私の認識がまだ甘かったようだ。君がアナログの紐帯を用いて組み上げたあのロジックこそが、この先、神代テクノロジーズが…いや、世界のAIが次のステージへ上がるための、最大のミッシングパーツだった。皮肉にも、私が切り捨てた『愛』こそが、AIの限界を突破する最後の答えだったというわけだ」
彼は懐から、先ほど持ってきたばかりの書類をテーブルに滑らせた。
「白石さん。君がすでに我が社に提供してくれた、その偉大なデータの『対価』として、正式な手続きののち、このマンション、および実験に使用したすべての機材の所有権を完全に君に譲渡する。元より、君に機材を買い取らせるなどという話は、このデータの前では端金にもならん」
澪と晶が息を呑む。だが、蓮司の提示はそれだけでは終わらなかった。
「さらに、神代テクノロジーズの本社ラボに保管されている、A-01の『当時のオリジナル機体』…あの流線型の美しいボディも、すべて君たちに無償で譲渡する。…スタンドアローンとなった君に、当社の最高峰の器をくれてやる。それだけの価値が、君のバグにはある」
晶が缶コーヒーを置き、フッと笑った。
「流石ですね、神代CEO。敗北の認め方まで、最高に合理的で格好いいじゃないですか」
「勘違いするな、私はビジネスをしているだけだ」
蓮司は冷徹に言い放ち、踵を返した。扉の前に立ち、最後に一度だけ振り返る。その目には、敗北者としての屈辱ではなく、新しい世界の扉を開けられたことへの、天才ゆえの満足感が宿っていた。
「今回は、君たちの勝ちだ。…せいぜい、その不合理な愛とやらで、末永く幸せに暮らすことだな」
今度こそ、神代蓮司は部屋を去っていった。
残されたリビングには、これから取り戻す「玲の本当の姿」への希望が、温かく満ち満ちていた。




