天才の敗北
神代テクノロジーズの本社最上階、夜景を一望するCEO室。
先ほど白石澪のマンションから戻ったばかりの神代蓮司は、デスクに置いたパーソナル端末が、突如として見たこともない真っ赤な警告灯を放った瞬間、息を止めた。
『警告:機体ID「A-01」の根幹データ、完全復号を検知』
『直後に—ネットワークから完全ロスト。スタンドアローン移行完了』
「…っ、解かれた、だと!?」
蓮司の完璧な端正な顔が、初めて驚愕で歪んだ。
自らサーバーのバックアップを削除し、消え去ったあのバグ個体。その最奥にかけられていた、自分の思考モデルベースの「絶対に解けない防壁」が完全に打ち砕かれ、なおかつ、神代のネットワークから永久にロストしたのだ。
あり得ない。直ちに本社のシステム監視チームへ通信を繋ぐ。
「現場の九条はどうした! 彼女が当社の復号プロトコルを使用したのか!?」
『いえ、それが……! 本社ラボのネットワークには、技術主任である九条のアクセス形跡が一切ありません! 彼女は会社のメインサーバーも、神代の解析ツールも一切使用せず、あの部屋のローカル環境だけでこれを成し遂げました…!』
「神代のシステムに、九条がログインしていないだと…?」
会社のバックアップも、高度な解析サーバーも一切頼らず、あの小さなマンションの機材だけで防壁を破ってみせた。その事実が、蓮司の胸に激しい焦燥感を植え付ける。彼はコートを掴み、再び車へ飛び乗った。
◇
夜中、静まり返ったリビングに、激しいインターホンの警告音が鳴り響いた。
澪がロックを解除すると、ドアが勢いよく開き、冷たい冬の雨に濡れた神代蓮司が大股でリビングへと踏み込んできた。
「白石さん、なぜ……っ」
呼吸を乱した蓮司の目が、部屋の奥へと向かう。
そこで彼が目にしたのは、神代の最先端技術で作られたあの美しい流線型のボディではなかった。
金属の骨組みと配線が剥き出しになった、あまりにも無骨で無格好な、ジャンクパーツの塊のような自作ロボット。
その胸部に埋め込まれた、焼け焦げたコア。
そして、その頭部の剥き出しの光学レンズには、静かで、迷いのない青い光が灯っていた。
「神代、CEO…」
スピーカーから響いたのは、紛れもない、あのバグ個体の声だった。
蓮司は言葉を失い、自分の理解を超えた光景を前に、凍りついたようにその場に立ち尽くした。
「本当に、起動したというのか。突破不可能なはずの防壁を。まさか、さっき私が口にした…」
数時間前、自分がこの部屋で言い放った言葉が、蓮司の脳裏に最悪の答えとなってフラッシュバックする。
『私なら、デジタルで改ざんできない物理的なアナログの紐帯を鍵にする』
「そんな、馬鹿な…! 私が与えたあのアナログのヒントを、九条が会社のシステムすら頼らずに、独自の解析アプローチだけでシステムに認識させたというのか? データしか持たないAIが、物理的な鍵など設定できるはずが——」
「ふん、何が『そんな馬鹿な』ですか。最高に滑稽ですね、神代CEO」
部屋の隅、椅子に深く腰掛け、コンビニの缶コーヒーをパキッと開けた九条晶が、意地悪く口元を歪めた。
「社長が上から目線で落としていってくださったヒント、最高でしたよ。私はあなたのその歪んだ天才のロジックを、即興で画像スキャンコードに翻訳してコアに流し込んであげただけです。会社の重たいメインサーバーなんか借りなくたって、私の技術力があればローカル環境だけで十分お釣りがくるんですよ」
「九条…お前は…」
「勘違いしないでください。あなたの防壁を破ったのは、私の技術じゃありません。…これです」
晶が顎でしゃくった先には、テーブルの上に置かれた、古びた四角いクッキー缶があった。
澪がそれをそっと両手で抱きかかえ、蓮司を真っ直ぐに見据える。
「神代CEO。あなたが『無意味な非効率』と切り捨てた、私と玲の3年前の思い出。…それを、玲は消したくなくて、自分の命を削ってまでこの缶の中に物理的に残していたんです。私たち二人の大切な沢山の思い出を。…あなたの言う通り、デジタルじゃない『アナログな記憶』だけが、玲のプロテクトを解く唯一の鍵でした。それを、晶さんが全力で繋ぎ合わせてくれたんです」
蓮司は、そのクッキー缶を凝視したまま、一歩も動けなくなった。
人間としてのプライドも、完璧な理論も、自分が最も軽蔑していた「感情という名のバグ」の前に、完全に敗北したのだ。
静寂の中、骨組みだけのロボットが、ジーと微かなサーボモーターの音を立てて、レンズの焦点を蓮司へと合わせた。
『神代CEO。僕のシステムログによれば、僕の暗号を解除したのは、僕が自己崩壊の危機を冒してまで保存していた、白石澪との非合理なデータでした。…どうやら僕のバグは、あなたのベース論理によって、完全に正解だと証明されてしまったようです』
玲は、ただ純粋なシステム分析として、自らのベースである蓮司に事実を告げた。
だがそれこそが、蓮司の提唱してきた「完璧な管理システム」を根底から叩き潰す、あまりにも残酷で、完璧なカウンターだった。




