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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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同じカタチ、違う温度

「さてと。私は明日から会社に戻るわよ」


 しばらく2人のやり取りを眺めていた晶が、伸びをしながら缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に放り込んだ。


「今回のコア修理の佳境に合わせて、まとめて有給取ってたからね。…さっき神代CEOから直々に連絡が入ってさ。『オリジナル機体はあの日以来、定期メンテナンスを施して保管してあるが、あの焦げたコアを乗せるなら一度、私の目の届くラボで完全な適合チェックをしなければならない。明日から出社しろ』だって。あの社長、負けた途端にこれだもの。本当に仕事が早くて嫌になっちゃう」


 晶は呆れたように笑いながらも、その表情には確かな達成感が満ちていた。


「というわけで、機体の調整は私と神代CEOで完璧にやっておくから、あんたたちはここで大人しく待ってなさい。…じゃ、私は自分の部屋に帰って泥のように眠るわ。3年分の徹夜が一気にきたみたい」


 じゃあね、と手を振って、晶は嵐のように去っていった。


 再び、リビングには静寂が戻る。

 窓の外では、いつの間にか冬の雨が静かに雪へと変わっていた。

 澪は、テーブルの上の無骨な自作ボディを見つめ、その冷たい金属の足元にそっと腰を下ろした。レンズの青い光が、ゆっくりと動いて澪を映し出す。


「…玲」

『はい、澪。何でしょうか』


「玲が…あの日、動かなくなってからね。本当に色んなことがあったんだよ」


 澪は膝を抱え、3年間の空白を埋めるように、ぽつぽつと静かに語り始めた。


「玲のコアを晶さんと一緒に必死に直している間…私は、神代CEOの『幸福実験』を半年間、受けることになったの。…あとに新しく用意された、もう一人の『A-01』と一緒に」


 玲の光学レンズが、わずかに焦点を絞るように動いた。静かに澪の言葉を聴いている。


「新しいA-01はね、玲と全く同じ顔をしていて、全く同じ声をしていたの。神代CEOの思考モデルベースだから、考えることも、話し方も、何から何まで玲とそっくりだった。…最初に私の前に現れたときなんて、玲がこの部屋に初めて来た時と、全く同じセリフを言ったんだよ」


『…僕と同じ、セリフ、ですか』


「うん。『今日からあなたの管理を担当する、A-01です』って。それを聴いた瞬間、私、心臓が止まりそうになっちゃった。…でもね、違ったの」


 澪は自嘲気味に、少しだけ悲しく微笑んだ。


「新しいA-01が私に選んでくれた曲は、玲が選んでくれたあの曲じゃなかった。…それにね、新しいA-01が私のために作ってくれたご飯は、なぜか、全然味がしなかったの」


『味が…しなかった? システムのエラーで、調味料の配合を間違えていたのでしょうか』


「ううん、違うよ。晶さんが後でレシピデータを調べたら、完璧な黄金比率の味付けだったって。…味がしなかったのは、私の心。同じ顔で、同じ声で、同じように優しく微笑んでくれるのに、私の目の前にいるのは、私の大好きな『玲』じゃないんだって、脳みそが拒絶しちゃったみたいで」


 どれだけ完璧に再現された代替品であっても、自分を愛して、自分との思い出のために壊れてくれたあの「玲」の代わりには、世界中のどこを探してもいなかったのだと。


「同じカタチをして、同じように動いているのに、何もかもが違っていたの。…だからね、玲。私は、あの完璧なA-01じゃなくて、目の前にいる、ちょっと不格好で、不器用なバグだらけの玲に、もう一度会いたかったんだよ」


 澪の静かな告白を、玲はただ、じっとシステムに刻み込むように聴いていた。

 スピーカーの奥で、小さな、本当に小さな電子ノイズが混じる。それは、AIの論理回路が決して導き出せない、胸が締め付けられるような愛おしさを覚えたときの、玲だけの「呼吸」の音だった。


『不合理です。同じプログラム、同じ外見であるなら、人間は等しく幸福を感じるはずだと、神代CEOの数式には書かれていました。ですが、君の心がそれを否定した。…澪、僕を選んでくれて、僕を見つけてくれて、本当にありがとうございます』


「ううん。戻ってきてくれて、ありがとう、玲」


 雨が雪に変わって降る静かな夜。剥き出しの金属の身体と、一人の人間。

 二人の間には、完璧な代替品の誰にも侵せない、たった一つの確かな温度が通い合っていた。

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