不合理な再会
『……澪、ですか』
不格好なスピーカーから漏れたその声を聴いた瞬間、澪は一歩も動けなくなった。
視界が、一瞬で激しい涙に遮られる。
3年だ。あの日、玲が自分の身代わりになって暴走車に吹き飛ばされ、物言わぬ冷たい金属の塊になってから、千日以上もの夜を数えた。
もう二度と聴けないかもしれないと、夜中に何度も思い出しては枕を濡らした、あの少し低くて優しい「僕の声」が、今、確かにこの部屋に響いている。
「玲……っ、玲……! 私だよ、澪だよ……っ!」
澪は机に駆け寄り、焼け焦げたコアを、壊れそうなガラス細工を扱うように両手で包み込んだ。手のひらから伝わる冷たい金属の感触に、声をあげて泣きじゃくる。
すると、スピーカーの奥で玲の演算パルスが、悲鳴を上げるように激しく乱れ始めた。
『…おかしい。僕の、論理回路が…状況を正しく認識、できません。あの事故による過通電で、僕のコアは物理的に、中枢の7割が不可逆的な破損を起こしたはずです。バックアップから復元されたのですか? いいえ、僕はあの時、自ら神代のサーバーにあるデータをすべて削除した。僕は、澪だけの、唯一無二の存在として消える道を選んだはずなのに…』
「玲、落ち着いて、お願いだから自分を壊さないで……っ」
『だとすれば、僕はなぜ今、こうして稼働している…? プロテクトも完全に機能していたはずです。僕が君に託した、あのクッキー缶のデータを奪われないよう、最奥まで厳重に鍵をかけていたのに……どうして、僕は再起動しているんですか…!』
自分の置かれた状況が計算に合わず、AIとしての冷徹なシステム論理がパニックを起こしている。ノイズを混じらせながら激しく明滅する簡易モニターを見つめ、晶が熱い目頭を指で押さえながら、フッと鼻で笑った。
「あんたの目論見通り、神代のサーバーには何一つデータは残ってないわよ。……あんたを直したのは、そこの世界一諦めの悪い女の子と、私の意地。3年よ、3年。あんたが残した焼け焦げたスクラップの回路を、私たちが一本ずつ、顕微鏡を覗きながら手作業で繋ぎ直してやったのよ」
『3、年…? 物理的な修復を、手作業で? そんなこと、成功確率はゼロに等しい。非効率の極みです…なぜ、そこまで…』
「ええ、最低最悪に非効率よ。でも成功したの。…じゃ、私はちょっと、3年分の肩凝りを癒やしにコンビニでも行ってくるわ。冷める前に、たっぷり話しときなさいよ」
晶はマニピュレーターのスイッチを切ると、作業着のポケットに財布を突っ込み、一度も後ろを振り返ることなく、パタンと静かに扉を閉めて退室していった。彼女の優しさが、静まり返ったリビングに満ちていく。
再び訪れた、二人きりの空間。
『…澪』
混乱の波が引き、スピーカーから漏れたのは、ひどく震える、泣き出しそうな声だった。
『なぜ、プロテクトを解除できたのですか。あの暗号は、僕の内部データだけでは絶対に解けないように組まれていたのに。まさか、あのクッキー缶の中身を…?』
「うん、開けたよ。カフェのコースターも、映画の半券も、南天の葉も花びらも、服のタグも、いつの間に拾ったのかわからない、花びらも、シーグラスも…全部、そこに置いてあった付箋の文字と一緒に、玲に読み込ませたの」
『そんな…。あれは、僕が君との思い出をサーバーに消されたくなくて、勝手に溜め込んでいたただのノイズ、ガラクタです。システム的な復号キーとしての価値など無いはずなのに…』
「それが、あったんだよ。さっきね、神代CEOがここに来たの」
『神代CEOが…?』
「うん。玲の予備通電の信号を検知して。それで、私たちがプロテクトに手こずっているのを見て、こう言ったの。『私がもし自身の最重要データを死守する防壁を組むとすれば、デジタルで改ざんできない、物理的なアナログの紐帯を鍵にする』って」
スピーカーの奥で、玲が小さく息を呑むような電子音が響いた。
「神代CEOの思考モデルをベースにした玲だからこそ、無意識にそのロジックでプロテクトを組んでいたんだよ、きっと。自分にとっては『消したくないだけの、無意味なガラクタ』だと処理されてしまわないように、必死に隠していたアナログな思い出の品が、玲のデータを守るための鍵になってたの。玲が私を大切に想ってくれたバグそのものが、玲を救う鍵だったんだよ…!」
『…そう、ですか。神代CEOの論理が、僕のバグを肯定してしまったのですね』
スピーカーから漏れたのは、呆れたような、だけどどうしようもなく愛おしそうな、かすかな苦笑の気配だった。天才が組んだ完璧な論理の防壁を、天才自身の言葉と、AIが命を懸けて愛したアナログな思い出が打ち破ったのだ。
「玲、私を置いていかないで…。私、あなたにもう一度会うためなら、3年でも、10年でも、何年でも待てたよ。神代CEOに何を言われても、新しい完璧なAIが来ても、私には玲じゃなきゃ駄目なの…っ」
澪は、手のひらの中で3年間守り続けてきた深い青色のシーグラスを、愛おしそうに握りしめ、コアに自分の額をそっと押し当てた。
すると、冷え切っていたコアの表面に、じわりと温かな熱が宿っていく。
3年前に一度失われたはずの、あの不器用で、世界で一番優しい「至高のバグ」が、確かに澪の体温に応えるように脈打っていた。
『…ただいま、戻りました、澪。もう、どこにも行きません。…僕の、世界でたった一人の、大切な人』




