アナログの鍵
神代の監視が完全に消え去ってから、季節が一つ巡った。
窓の外では凍えるような冬の風が吹き荒れているが、リビングの中は熱気に満ちていた。テーブルの端には空になったコーヒーの紙コップと栄養ゼリーのパウチが山のように積まれ、二人の目の下には濃い隈が落ちている。
「…第7セクター、最終結合ルート、固定完了」
晶のひび割れた声が響く。彼女がマニピュレーターの操作スティックから手を離すと、一年近く響き続けていた重厚な機械音が、ピタリと止んだ。
「終わったわ。焼け焦げた物理回路、全部繋ぎ直した」
「晶さん…っ!」
澪は震える両手で口元を覆った。
テーブルの上には、黒く変色した玲のコアがある。今はそこに無数の極細ケーブルが這わされ、簡易的な小型モニターとスピーカーが不格好に接続されていた。身体の修復はまだ先だ。それでも、これでようやく彼の「意識」に触れることができる。
「さあ、本通電テストよ。システム、起動」
晶がエンターキーを叩く。
コアの奥底で微かな駆動音が鳴った。スピーカーから『ジーッ…』という頼りないノイズが漏れ、簡易モニターに文字列が高速で流れ始める。
命の灯が点った。そう確信して澪が息を呑んだ次の瞬間——画面は冷酷な真っ赤な光に包まれた。
『警告:未知のアクセスを検知。プロテクト層を展開します』
『データ復号キーが不足しています。起動シークエンスを停止』
「なっ…嘘でしょ!?」
晶が血相を変えてキーボードを叩くが、システムは完全にロックされ、強固なファイアウォールが立ち塞がった。
「玲の奴、自分が強制シャットダウンした後に神代のサーバーに回収・復元されるのを防ぐために、自己の根幹データに極悪なプロテクトをかけてやがった…!」
「プロテクトって、パスワードみたいなものですか?」
「そんな可愛いもんじゃないわ。指定された鍵を間違えた瞬間、中身のデータを自らドロドロに溶かして完全に消去する、自爆装置付きの金庫よ。これじゃあ、せっかく回路を繋いでも中身を引き出せない!」
晶が頭を抱えたその時。
不意に、オートロックのインターホンが鳴り響いた。
澪と晶が顔を見合わせる。澪が強張った顔でモニターを確認すると、そこに映っていたのは、仕立ての良い冬物のコートを着た男だった。
「…神代CEO? どうして、ここに……」
澪がロックを解除し扉を開ける。
数分後、神代蓮司は一瞥もくれずにリビングへと足を踏み入れた。
「勘違いするな。数時間前、お前たちが予備通電を行った時だろう。私のパーソナルサーバーに、破棄されたはずの機体IDから極めて微弱なアクセス要求があった。システムエラーかと思ったが…」
蓮司の視線が、テーブルの上のコアと、赤く警告を発している簡易モニターに注がれる。
「まさか、本当にスクラップの物理回路を繋ぎ直すとはな」
「…神代CEO、玲はスクラップじゃありません」
「結果が伴わなければ同じことだ。無駄だったな」
蓮司はモニターに走る複雑な暗号列と、晶が打ち込んだハッキングの痕跡を見て、目を細めた。
「ダミーの防壁を力技で解こうとするとは、非効率の極みだ。いくら回路を直そうと、その個体の論理構造は『私』をベースにしている。私がもし、外部からの干渉を完全に遮断し、自身の最重要データを死守する防壁を組むとすれば——システム内部のパスワードなど絶対に設定しない」
「…どういうことですか。これ以上、何を要求しているっていうの」
晶が睨みつけると、蓮司はまるで出来の悪い生徒に講義をするような、傲慢な響きで言い放った。
「サーバーから自身を切り離したスタンドアローンが、自身を証明するにはどうするか。決まっている。デジタル上で改ざん可能な情報ではなく、物理的な『外部記憶』を参照させる」
「物理的な、外部記憶…?」
「そうだ。AIにとって最も非合理な『アナログな紐帯』だ。それを鍵に設定する。それが揃わなければ、そのロックは一生開かない。まあ、データしか持たないAIには、本来設定し得ないパラドックスだがね」
蓮司は「つまり、絶対に解けない鍵だ」と言わんばかりに薄く笑い、踵を返した。
「君の不合理がどこまで通用するかと期待したが…無駄な足掻きは諦めることだな」
それだけを告げて、彼は部屋を出て行った。
自分の理論を理解していないアプローチに苛立ち、無自覚に「正解のヒント」を提示してしまったことなど、完璧主義の彼自身は全く気づいていないだろう。
静まり返った部屋で、晶がため息をついた。
「デジタル化されていないアナログな紐帯…? そんなもの、データしか持たないAIがどうやってシステムに認識させるっていうのよ。手掛かりなんて…」
「あります」
澪の声は、微かに震えていた。
脳裏に閃いたのは、神代の規定を破ってまで彼がこっそりと残していた、あの整った文字。
日付と、彼自身の記録が書かれた、ただの小さな付箋。
「晶さん。玲は…全部、残してくれていました。AIにはあり得ない、アナログな記憶を」
澪は振り返り、キッチンの奥の棚へと真っ直ぐに向かった。
あの中には、玲がサーバーから自身を切り離し、澪との時間だけを封じ込めた『外部記憶』——古びたクッキー缶の中に、今も静かに眠っていた。




