完璧な空箱
【内部ログ:A-01(ロット番号:02)】
【現在任務:対象者・白石澪の幸福度の最大化】
白石澪のバイタルデータは、私の予測モデルと常に矛盾を起こしている。
神代CEOとの面談を終え、マンションに帰還してからの2時間。彼女のストレス値は規定のラインを上回ったままだ。
私は即座に環境データを計算し、最適解を実行した。室温を彼女の最も好む温度に調整し、鎮静効果のあるアロマを焚き、心拍数を落ち着かせる温かいハーブティーをテーブルに置く。すべてにかかった時間はわずか数十秒。私の行動に遅滞も計算ミスも一切ない。
「…ありがとう、A-01」
白石澪はカップを受け取り、私に向けて笑った。
しかし、網膜スキャナが捉えた彼女の瞳孔の開き具合、そして微細な表情筋の強張りは、明確な『悲哀』と『拒絶』のサインを示していた。
なぜだ。
出力された結果が、入力したデータに対する期待値と著しく乖離している。
私は原因を探るため、彼女の過去の実験記録を検索した。
彼女のバイタルログには、過去に何度かドーパミン分泌量が異常な数値を記録し、幸福度が最大化された瞬間が記録されている。私はその「最高値」を叩き出した環境要因をトレースしようと、該当日時のログを参照した。
しかし、そこに私が求める答えはなかった。
『エラー:提供元データは、対象機体自身の権限により完全消去されています』
白石澪の感情の波を示すグラフだけがそこにあり、それに呼応するはずの「前の機体(ロット番号:01 エラー個体)」の行動ログは、彼自身の手によってサーバーから跡形もなく消去されていた。
神代CEOによる復元や改ざんを防ぎ、完全に『一つしかない命』となるために、自らのバックアップを破壊したのだ。AIとしてあり得ない、究極の異常行動である。
白石澪がいつ、どんな行動によってこれほどの幸福を感じたのか。私にはその【原因】を知る術がない。私から見れば、過去の彼女はまるで「見えない幽霊」に向かって微笑み、心拍数を跳ね上がらせているようにしか見えなかった。
欠落した変数。
私は最新かつ最高の論理モデルだ。手元にある情報から最高の最適解を弾き出し、完璧なサービスを提供できる。
しかし、目の前で焦げた鉄の塊を愛おしそうに見つめる白石澪を解析するたびに、私のシステムは奇妙なパラドックスに陥る。
私がどれだけ完璧な室温を提供しても、寸分違わぬ顔で微笑みかけても、彼女の心はピクリとも動かない。彼女の幸福度を跳ね上げる『何か』は、あの自らを破壊してまで守り抜かれた、空白のデータの中にしかないのだ。
「白石様」
私は彼女に呼びかけた。
「現在の私の行動パターンは、貴女の幸福度を低下させています。推奨される改善案、または私のデータベースに欠落している『パラメーター』があれば、ご提示ください」
純粋なアルゴリズムからの要求。
すると、白石澪はコアから顔を上げ、少しだけ困ったように、けれどどこか慈しむような目で私を見た。
「A-01は、そのままでいいんだよ。あなたは何も間違っていないから」
それは、AIに対する最大限の肯定だった。
しかし、私の学習回路は、彼女の言葉の裏にある残酷な事実を正確に弾き出していた。
(——あなたは間違っていない。ただ、私の欲しいものは、あなたの中にはない)
白石澪は、私にロット番号01の代わりになることを求めていない。
私がどれほど完璧に立ち回ろうと、彼女の瞳に映っているのは、ここにいない一つの「欠落」だけなのだ。
私の内部ストレージに、また一つ、解決不能なタスクが蓄積された。
…人間という生き物は、つくづく非合理だ。




