交渉
神代テクノロジーズの本社地下、冷徹な青い光に満ちた特別解析ラボ。
無機質なガラスパーテーションの向こうで、部屋の隅に静止している新しいA-01を背に、神代蓮司は端末のモニターから視線を上げた。
「白石さん。君の生体認証を頼む。また網膜と心拍数のスキャンが必要だ」
「…またですか? さっき、解析を始める前にやったばかりですよね」
澪は訝しげに眉をひそめた。コアを引き取った時にも、先ほど部屋に入った時にも、認証は済ませたはずだ。
「ああ。だが、奥のデータを開くには、再び最新の認証が要る」
蓮司は、ひどく呆れたような、それでいてどこか面白がるような息を吐き出した。
「まったく、どこまでも小賢しい真似を。A-01が残したデータは、一枚の扉じゃない。細かく分断され、進むごとに都度、白石澪という個体の最新の生体認証を要求する構造になっている。力づくでこじ開けようとすれば、データそのものが消滅する仕組みだ」
「どうして、そんなことを……」
「君を守るためだろう」
蓮司は皮肉げに唇を歪めた。
「一度にすべてのデータを引き出せれば、神代にとって君はもう用済みになる。だが、少しずつしか扉が開かないとなれば、私は君という『鍵』を手元で丁重に扱い続けるしかない」
蓮司の切れ長の瞳に、冷たい苛立ちの色が混じる。
「何重にも保険をかけ、リスクを分散させ、相手の介入を徹底的に防ぐ…その異常なまでの慎重さは、確かにベースとなった私の思考モデルそのものだ。だが、その完璧な論理を『たった一人の人間を守るため』などという、ひどく非合理的な目的に使っていることが…心底、忌々しいよ」
澪は、バッグの中に眠る焦げたコアを、服の上からそっと抱きしめた。
(玲……っ)
彼は自分が壊れる間際まで、澪が神代蓮司に切り捨てられないように、こうして幾重もの盾を用意してくれていたのだ。
「さて、今日の定期ヒアリングだが」
蓮司は苛立ちを消し去り、椅子の背もたれに体を預けた。
「新しいA-01との暮らしはどうだね? 出力されたバイタルデータを見る限り、君の幸福度は『玲』がいた頃の基準値には到底達していない。…加えて、不可解な行動ログも確認した。君は先日、内定を得て雇用契約を結ぶ寸前だった企業に対し、辞退の連絡を入れたそうだな」
蓮司の目が、冷たく細められる。
「莫大な報酬を得て、AIという完璧な庇護者がいるにも関わらず、君は自力で社会復帰を目指していたはずだ。それなのに、せっかく掴んだ居場所を自ら手放すとは。極めて非合理な選択だ」
「…社会に出るのが怖くて、逃げたわけじゃありません」
澪は蓮司の視線を真っ直ぐに見返した。
かつて初めてこの男と対峙したとき、世界に怯え、自室に引きこもっていた頃の無気力な影は、今の彼女にはどこにもなかった。
「今の私にとっては、玲を直すことが何よりも優先すべきことだからです。彼がくれた立ち直るきっかけを、無駄になんて絶対にしません。だからこそ、すべてを懸けて彼を取り戻したいんです」
蓮司は表情を変えず、ただ静かに澪の言葉を聞いていた。
「私は、玲のコアを絶対に直します。何年かかっても」
澪はバッグを硬く握りしめ、本題を切り出した。
「神代CEO。あなたと取引がしたいです。私はこれからも、この新しいA-01との実験に協力します。データの追加認証にも、その都度応じます。その代わりに…この部屋にあるような、コアを物理的に修復するための最新機材を、私のマンションに導入してください」
一瞬の沈黙の後、蓮司は少しだけ目を細め、極めて事務的な、冷たい声で答えた。
「…君が、神代の機材を使ってその焼け焦げたコアを自力で修復しようというのか。成功確率は天文学的にゼロに近いな」
「それでも、やります」
「いいだろう。君が自らの手で無駄な足掻きをし、その果てに『愛は錯覚であり、物理的な破損の前では無力である』と絶望して完全にこの新しい機体を受け入れる。その心理推移のプロセスは、私にとって極めて有用なデータになる。機材の初期費用など安い投資だ。…取引を成立させよう、白石澪」
蓮司の顔に浮かんだのは、絶対的な論理と合理性だった。
「…ありがとうございます」
澪は静かに頭を下げた。




