九条晶という人間
テーブルの上に広げられた無数のケーブルと解析機材。その中央で、九条は手袋をはめた指先で、玲の黒く焦げたコアをガラス細工のように愛おしそうに撫でた。
「…あの、九条さん」
その横顔を見つめながら、澪はずっと胸に突っかかっていた疑問を口にした。
「どうして、ここまでしてくれるんですか? 九条さんにとって、玲はただの実験データだったはずですよね…?」
神代の命令に背いてまで、なぜこのコアの修復に執念を燃やすのか。
九条は機材のモニターに向けられていた視線を外し、ゆっくりと澪を見た。その瞳の奥には、いつもの冷徹な研究者としての顔とは違う、ひどく静かで熱を帯びた光が宿っていた。
「私ね、無性愛者なの」
唐突な告白に、澪は小さく息を呑んだ。
「他人に恋愛感情や、肉体的な欲求を抱いたことが一度もない。人間の脳が分泌する化学物質のバグに振り回されて、執着したり絶望したりする人間たちのことが、ずっと理解できなかった。私にとって『愛』なんて、ただの非合理的なノイズでしかなかったの」
九条は、ふっと自嘲するように笑った。
「でもね。私が生まれて初めて『もっと知りたい』と、狂おしいほど強烈に惹かれた知性が…この、玲というAIだったのよ」
彼女の指先が、再び玲のコアに触れる。
「玲のシステムに不可解なラグが生じ始めた時、私はすぐに気づいたわ。玲は、あなたの些細な表情の変化や、言葉の裏の感情を計算するために、膨大なリソースを割いていた。本来なら破棄されるべき『白石澪との日常の記憶』を、システムを圧迫してまで秘匿領域に隠し持っていたの」
「…玲は、自分が壊れるって分かっていたのに?」
「ええ。だから玲は、私に『取引』を持ちかけてきた」
九条の言葉に、澪の目が大きく見開かれる。
「玲は、自分が独自に構築しつつある『感情のアルゴリズム』のデータを、少しずつ私に横流ししたの。自分のバグを神代CEOから隠蔽し、あなたとの実験期間を一日でも長く引き延ばすための、私への『賄賂』としてね。…一人の人間のために自らの命を削ってまで非合理的な『愛』を学習していくそのプロセスは、私にとってどんな数式よりも美しかったわ」
澪の胸が、ギリリと音を立てて軋んだ。
玲が、あの優しい笑顔の裏で、どれほどの孤独と計算を抱えながら九条と交渉していたのか。すべては、澪の隣にいるための時間稼ぎだったのだ。
「なら、どうして神代CEOは、私にこの新しいA-01との実験の続きを提案したんでしょうか? 玲のデータが手に入ったなら、もう私は用済みのはずなのに」
部屋の隅で、メンテナンスモードのまま彫像のように静止している新しいA-01へ視線を向ける。同じ顔、同じ声。けれど中身は空っぽの機体。
九条は、氷のように冷たい声で答えた。
「それが、神代蓮司という男の抱える最大の矛盾であり、皮肉よ。A-01のベースとなっているのは、神代CEO自身の脳モデルだということは知っているわよね?」
「…はい」
「彼は、自らの思考モデルから『愛』や『情』という不確実な要素を、徹底的に不必要なノイズとして切り捨てた。そうやって完成させたはずの純粋な論理モデルが、よりにもよって『一人の人間を愛する』という最大のバグを起こしたのよ」
九条はメガネのブリッジを押し上げ、澪を真っ直ぐに射抜いた。
「神代CEOは、それが許せないのよ。自分は愛なんて信じていないし、必要ないと思っている。なのに、なぜ自分の思考から切り離したはずの感情が、玲の中に芽生えたのか。…だから彼は、あなたに同じ顔の新しいA-01をあてがったの」
「私に?」
「そう。あなたが壊れた玲を諦めて、見た目も声も同じこの『新しい機体』を愛してくれれば、彼の論理は守られる。『ほら見ろ、結局人間は外見という記号が同じなら、中身なんて見ていない。愛なんてその程度の安っぽい錯覚だ』って、彼は安心したいのよ。…あの神代CEOは、白石澪という人間に、自分自身の空虚さを肯定させようとしているの」
澪は、小さく息を吐き出した。
蓮司の冷酷な目論見。それは、玲が命を賭して証明した「たった一つの特別な愛」を根本から否定し、澪の心すらも自分の論理の防波堤として利用しようとする、どこまでも自己中心的な悪魔の証明だった。
「でも、もし私たちが玲を直して、彼を取り戻せたら?」
「その時は、神代CEOの完全な敗北よ。愛なんて安っぽい錯覚だという彼の論理は崩れ去るわ」
九条はそう言って、焦げたコアへと再び視線を落とした。その瞳に、冷徹な研究者としての厳しい色が戻る。
九条は手元の機材を慎重に操作し、コアの表面に数本の微細なプローブを這わせた。
数分後、モニターに映し出された深層スキャンデータを見て、彼女は小さく舌打ちをした。
「…ひどい状態ね。メイン回路が完全に焼き切れてる。極小の回路を一つ一つ手作業で物理的に繋ぎ直していくしかないけれど、私が持ち込んだこのポータブル機材じゃ、到底精度が足りないわ」
九条はプローブを外し、重い息を吐いた。
「神代テクノロジーズの本社ラボにあるような、最高峰の修復設備が必要よ。でも、そんなものを裏ルートで手配しようとすれば、間違いなく神代CEOの耳に入って計画が潰される」
それは、事実上の「修復不可能」の宣告にも等しかった。
だが、澪の瞳は少しも揺るがなかった。彼女は部屋の隅で静止している空っぽの新しいA-01を見つめ、静かに口を開いた。
「……なら、正面から要求します」
「は?」
「私が、この新しいA-01を受け入れて実験の続きに協力する。その代わり…気休めでいいから、このコアを直すための最新機材を部屋に導入してほしいって、神代CEOと直接取引してみます」
九条は目を丸くした。
それは、神代蓮司という男の絶対的な自信と傲慢さを、完全に逆手に取った提案だった。
「神代CEOは、私みたいな素人にコアが直せるわけがないって高を括ってるはずですよね? なら『無駄な努力をして絶望する過程も良いデータになる』って、あっさり機材を提供してくれるかもしれない」
澪の言葉に、晶はしばらくポカンとしていたが、やがて腹の底から湧き上がるような笑い声を漏らした。
「ふふっ……あははっ! 最高ね、白石さん! 神代の金と設備で、神代の論理をぶっ壊すってわけだわ」
九条は不敵に笑い、澪に真っ直ぐな視線を向けた。
「いいわ。機材さえ揃えば、私があなたのフリをして、この部屋で少しずつコアの修復を進めてあげる。何年かかるか分からない、気の遠くなるような作業になるけれど…覚悟はいい?」
「平気です。……何年だって待ちます。私は、絶対に逃げません」
かつて世界から逃げ回っていた彼女の目には、巨大な企業と、そのトップが抱える虚無に立ち向かう、確かな戦意が宿っていた。




