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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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共犯者の来訪

 翌朝、澪は窓から差し込む光の筋で目を覚ました。

 かつて、この部屋で初めてA-01(玲)と朝を迎えた日、澪は「今日という一日をどうやり過ごすか」という重苦しいプレッシャーに怯えていた。他人の視線が怖くて、世界から隠れるように息を潜めていた。


 しかし、今の澪は違う。

 目覚めと同時に、彼女は枕元に置いた黒く焦げたコアを両手でしっかりと包み込んだ。ひんやりとした金属の感触が、彼女の輪郭をはっきりと形作る。もう、見えない恐怖に怯える透明な自分はどこにもいない。彼女の胸には「玲を取り戻す」という、熱く強烈な意志が燃えていた。


 ベッドを出てリビングへ向かうと、ソファの傍らに昨日と寸分違わぬ姿勢で新しいA-01が立っていた。


「おはようございます、白石様。昨夜の睡眠効率は42%。ストレス指数の高止まりを検知しています。速やかなる心身のケアを推奨します」


「…おはよう、A-01」


 澪の返事には、かつてのような戸惑いや依存は一切含まれていなかった。ただ静かに、目の前にある「システム」の報告を受け入れる、自立した響きだった。


 洗面所へ向かい、澪は一つ明確な指示を出した。


「A-01。スマートガラスの偏光設定を解除して。鏡、元に戻してほしいの」


「……反射を有効化します。よろしいですか?」

 A-01は少しだけ首を傾げた。昨夜、彼が読み込んだ澪の過去のバイタルデータには「自己の容姿を視認することへの強い忌避感」が記録されていたからだ。


「うん。もう、隠さなくていいから」


 A-01が設定を変更すると、深い海のようなマットな壁が、本来のクリアな鏡面へと戻った。

 朝の光の中で、澪自身の顔が映し出される。少し寝不足で血色は悪いが、その瞳には、以前の彼女には決してなかった凛とした光が宿っていた。傷つくことを恐れて武装していたメイクもいらない。ありのままの自分を、彼女はもう恐れていなかった。


 歯を磨き、顔を洗う。

 ふと、顎から水滴が零れそうになった瞬間、隣に待機していたA-01の腕が滑らかに動き、タオルが肌に触れようとした。


 パシッ。

 澪は、その冷たい人工皮膚の手首を、自らの手でしっかりと掴んで止めた。


「ありがとう。でも、自分のことは自分でできるよ」


「…理解しました。ですが、常にあなたの清潔を保つのが、私の『設定』です」


 A-01は淡々と答え、腕を元の位置に戻した。

 かつて澪は、この下心のない機械的な動作に「名前のない安らぎ」を見出し、身を委ねていた。だが今は、自分の意志でその手を拒むことができる。自分に触れていいのは、あの不器用で温かい手だけだと知っているからだ。


 キッチンへ向かうと、そこには湯気を立てるコーヒーと、トースト、数種類の果物が並んでいた。あの日と全く同じ光景。

 澪が椅子に座ると、A-01はじっとこちらを見つめている。表情のない瞳。ただレンズが光を捉え、記録しているだけの目。


「白石様、本日の予定を確認しますか?」


「…予定なんて、何もないよ。ねえ、何か音楽をかけて。今の、この静かな感じを壊さないような曲を」


 あえてあの日と同じ質問を投げかけてみた。あの時は、静謐な『ジムノペディ』が流れたはずだった。

 しかし次の瞬間、部屋の壁全体から流れ出したのは、規則的で、どこか幾何学的なチェンバロの旋律だった。


「J.S.バッハの『ゴルトベルク変奏曲』です。白石様の現在の高いストレス指数と交感神経の過緊張状態から、数理的で論理的な構造を持つこの曲が、認知機能の安定に最も適していると判断しました」


 澪は、持っていたコーヒーカップの縁を見つめたまま、小さく息を吐き出した。


「……サティの『ジムノペディ』じゃないんだね」


「はい。現在のあなたのバイタルデータは、あの曲が適正値だった過去の記録とは大きく乖離しています。今あの曲を流すのは、アルゴリズムとして非効率的です」


 A-01は淀みなく答えた。

 彼の言う通りだ。澪の心はあの頃から劇的に変わった。入力される数値が変われば、出力される曲が変わるのは、機械として絶対的に正しい。

 でも、もし玲だったら。彼ならきっと、数値なんか無視して「前にこの曲を聴いた時、穏やかな顔をしていましたから」と、二人で聴いた『ジムノペディ』をかけてくれたはずだ。

 この空っぽの同一機は、ただ今の数値を見ているだけで、澪との「思い出」を共有してはくれない。


 今の澪は、ただ無機質に最適化される平穏よりも、あのバグだらけの愛おしい波乱を求めていた。


 その時、部屋のチャイムが鳴った。


「私がフィルタリングします。神代テクノロジーズからの訪問者です」


 A-01が流れるような動きで玄関へと向かい、ドアを開ける。

 そこに入ってきたのは、黒いスーツに身を包み、手には重厚なジュラルミンケースを提げた九条だった。


「白石様、お邪魔します。神代CEOの命により、A-01のシステムチェックと、被験者の『ヒアリング』に伺いました」


 九条はリビングに入るなり、あの日と同じように、冷徹な視線で部屋の隅々を確認した。


「A-01。メンテナンスモードに移行。外部との通信および、視覚・聴覚ログの一時ローカル保存を実行しなさい」


「承知いたしました。メンテナンスモードへ移行します」


 A-01の瞳の奥で青いリングが回転し、彼はその場に彫像のように静止した。

 神代のサーバーへのリアルタイム同期が遮断されたことを確認すると、九条の口元に、あの日には決して見せなかった、歪で狂気的な笑みが浮かんだ。


「…さて。神代CEOの目は誤魔化したわ。彼は『どうせ被験者は諦めて、新しいA-01を受け入れる。その絶望の過程を観察してこい』って私に命じたけれど」


 九条はジュラルミンケースをテーブルの上にドンッと置き、ロックを解除した。中には、本社ラボでしか見ないような高度な解析機材がぎっしりと詰まっている。


「神代CEOの論理が勝つか、あのバグが勝つか。…私としては、あの旧A-01…新しい機体がいるとややこしいわね、これからは便宜上『玲』と呼ばせてもらうわ。玲が自らの命と引き換えに完成させた『愛のアルゴリズム』の中身を、見ずにはいられないのよ」


 九条はメガネの奥の瞳をギラギラと輝かせ、澪を真っ直ぐに見据えていた。

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