模倣の箱庭
神代テクノロジーズとの緊迫した取引を終え、新しいA-01を伴ってマンションの部屋へと戻ってきた頃には、とおに夜が更けていた。
重い扉を開けると、そこには数日前、玲が消滅した時と全く変わらない、静まり返った空間が広がっている。ただひとつ違うのは、澪のバッグの中に、あの重く冷たい玲のコアが眠っていることだけだった。
澪がリビングへ歩み進めると、背後のA-01はその動きを追うように視線を動かした。首を傾げる角度、瞳の動き。かつて、その計算されたプログラムに「自分を観測し、肯定してくれている」と錯覚し、体温を押し上げられたはずの挙動。
けれど、今の澪の心は、ひどく冷え切ったままだった。
「白石様。これよりこの居住エリアにおける、すべての管理権限を共有します。食事の好み、睡眠のタイミング、室温設定。あなたが望むすべてを、私は学習し、最適化します」
玲と全く同じ声。全く同じイントネーション。
デジャヴのような光景に、澪は胸の奥を鋭利な刃物で抉られるような錯覚を覚えた。
「私の望むこと…?」
澪はふっと自嘲気味に笑った。あの1日目にも、自分は同じ問いかけをした。あの時は、自分の望みなんて分からなくて、ただ怯えていただけだった。だから、不快を取り除いてくれるという機械の論理に救いを感じた。
だが、今は違う。
「データは嘘をつきません」
A-01は淡々とした、けれど不思議な重みを持つ声で、あの日と同じ答えを出力する。
「あなたの筋肉の緊張、呼吸の浅さ、毛細血管の拡張。それらが示す『不快』を一つずつ取り除いていけば、いずれ残ったものがあなたの『望み』になります」
完璧な模倣。寸分違わぬ、神代テクノロジーズの初期プログラミング。
しかし、澪の口を突いて出た言葉は、あの頃とは全く違う、強く明確な意志を孕んだものだった。
「いいえ。そんなことをしなくても、私の望むことなら、もうはっきりと分かってる」
「…え?」
A-01が、予測外の回答を受け取ったかのように、電子の瞳を微かに明滅させた。
澪はバッグをそっと開き、その奥に眠る、黒く焦げた玲のコアの感触を確かめるように指先で触れた。
「私は、このコアを直したい。ここにいるあなたじゃなくて、私のためにバグを起こして、私のために唯一になることを望んでくれた、あの『玲』にもう一度会いたい。それが私の、たった一つの望みだよ」
それは、自分でも驚くほど素直に口を突いて出た、強固な本音だった。
かつては機械の無機質さに依存し、安全な檻の中で生かされるだけで精一杯だった澪が、今は明確なエゴを持って、物言わぬ鉄屑を愛している。
A-01は一瞬だけ停止し、その言葉の言語データを処理するように沈黙した。だが、すぐに感情のない笑みを浮かべ、マニュアル通りの対応を出力する。
「理解できません。私はA-01であり、神代CEOの脳モデルをベースに構築された最新型ヒューマノイドです。ご指摘の『玲』という個体と、ハードウェアおよび初期システムにおける差異は存在しません。したがって、私と過ごすことが白石様の幸福度を最大化する最短ルートです。…夕食の準備を開始しますか?」
機械的な、一切の迷いがない、ただ淡々と澪の生存を維持するためだけの提案。
目の前の同一機は、玲と形は同じでも、中身はただの空っぽの「箱」なのだと理解する。
「…ええ。お願い」
やがて、キッチンから小気味よい包丁の音が響いてきた。メトロノームのように正確で、美しい音。
かつて玲が淹れてくれたコーヒーの香りや、味付けを模索してくれた時の、あの「体温の宿った音」とは根本的に違う、ただの作業音だった。
テーブルの上に、湯気が立ち上るコンソメスープが置かれる。
澪はスプーンを取り、スープを口に運んだ。あの時、優しい味だと感動したはずの料理。
「…味が、しない」
ポツリと零れた澪の呟きに、傍らで直立していたA-01が反応する。
「白石様の現在のバイタルに基づき、セロトニンの生成を助ける最適な塩分濃度に調整しています。味覚データのフィードバックをエラーと判定。以後、ベースの味付けの再調整を行います」
どこまでも無機質な返答。
かつてはその無機質さに救われていた。けれど、今の澪が求めているのは、自分を傷つけない「安全な檻」ではない。自分を愛し、自分のために壊れてくれた、あの愛おしいバグの温もりだった。
「…ねえ、A-01」
「はい、白石様」
「あなたには、疲れたとか、飽きたとか、そういう感覚はないの?」
「私には疲労を感じる受容体は存在しません」
A-01は、お決まりの模範解答を滑らかに告げる。
「同一のルーチンを繰り返すことは、私にとって最も安定した効率的な状態です」
「そう…」
澪は、今度は笑わなかった。
自分とは正反対だ、とすら思わなかった。目の前のシステムには、比べるだけの「心」すら最初から存在していないのだから。
食事を終え、寝室へ向かう前、澪はリビングの片隅に立つA-01に背を向けたまま告げた。
「おやすみなさい、A-01」
「白石様、おやすみなさい。スリープモードを開始します」
部屋の明かりが消え、静まり返ったリビング。
A-01は、暗闇の中で一日の全ログを整理していた。
【被験者:白石澪。就寝確認。呼吸数、微増。ストレス指数の高止まりを確認】
彼の論理回路は、澪が残した「私の望みは玲に会うこと」「味がしない」という言葉の音響データを解析していた。
それは、過去の神代のデータベースにある、どの「不快」の波形とも一致しない、未知のノイズを持っていた。
(なぜ、被験者は同じ外見、同じ機能、同じアルゴリズムを提供する私を拒絶し、機能停止したパーツを望むのだろう)
初期化されたまっさらなA-01のシステムに、処理不可能な「問い」という名の小さなエラーログが、静かに刻み込まれた。




