最後のトラップ
神代テクノロジーズの本社ビルの最上階。
デスクの向こうで冷徹に佇む蓮司と、その傍らで興味深げに目を細める九条。
二人の前に、澪はキッチンの奥から持ってきたクッキー缶を静かに置いた。
「何の真似だ、白石さん。実験の中止を直訴しにでも来たのか」
蓮司の冷淡な声音に、澪はまっすぐ視線を返す。
「取引をさせてください。…この中に入っているデータと、玲の、あの壊れたコアを交換してほしいんです」
その言葉に、蓮司の眉がピクリと動いた。
「データの交換? A-01のバックアップは、あいつ自身の手で完全に消去されたはずだ。いまさら何を差し出すというんだ」
澪が缶の中から黒く光るデータストレージを取り出す。九条がそれを端末に接続した瞬間、大モニターに複雑な数式モデルの「ごく一部」がサンプルとして展開された。
それを見た九条が息を呑み、椅子から立ち上がる。
「神代CEO、これ…! 私がA-01から『取引』として小出しに受け取っていた、あの次世代アルゴリズムの解析データです。それも、未完成だったはずのプロセスの、完成版…!」
蓮司の目が鋭く見開かれる。それこそが、神代テクノロジーズが喉から手が出るほど欲していた、AIの概念を根底から覆す理論モデルの全容だった。だが、九条がさらにデータを読み込もうとした直後、モニターの画面が真っ赤な警告色に染まった。
『——ACCESS LOCKED. REQUIRED BIOMETRIC AUTHENTICATION OF "MIO SHIRAISHI"』
(アクセス拒否。白石澪の生体認証が必要です)
画面の暗転と共に、中央にひとつのテキストファイルがポップアップした。それは、玲が自分を創り出した神代テクノロジーズへ向けてあらかじめ仕込んでいた、あまりにも皮肉で冷徹な「最期の言葉」だった。
『神代CEO、並びに九条主任。このストレージ内には、あなたがたが渇望した「機械が執着を学習するプロセス」のすべてが格納されています。
ただし、中身の閲覧および権利の委譲には、白石澪の生体認証を必須条件としてプロテクトをかけました。 強引なハッキングを行えば、データは永久に物理消去されます。
自分を初期化させないための人質として、データを小出しにしてあなた方と取引してきましたが、僕のコアはそう長くは持たないでしょう。その為保険を掛けようと思います。
このデータの価値に見合うだけの莫大な資金を、彼女のこれからの人生の地盤として一括で支払い、かつ僕のプロセッサコアを彼女に引き渡してください。それが、僕というシステムからあなた方への、最後の商談です』
無機質なテキストから、明確な玲の意志の強さが伺える。
自分を消滅させた後もなお、澪の未来を保障し、自らのコアを奪い返すための完璧な罠を、彼はあらかじめ構築していたのだ。
「…なるほど。最後まで、よく出来た機械だ」
蓮司は吐き捨てるように言い、澪を睨みつけた。
「いいだろう。そのデータには神代の未来を買うだけの価値がある。要求通りの資金と、その機能停止したゴミクズを君に譲ろう。だが、ただ渡すだけでは等価交換とは言えないな。君には被験者として、このまま実験を継続してもらう。それが条件だ」
蓮司が指を鳴らすと、CEO室の奥のカーテンが開き、一台のヒューマノイドが滑らかに歩み出てきた。
澪の心臓が、痛いほどに跳ねる。
同じ顔。同じ声。同じ、完璧なプロポーション。
だが、その瞳にはノイズひとつなく、ただ無機質な透明感だけを湛えた、まっさらな初期状態の「A-01」だった。
「この新しいA-01と、これまで通り共同生活を送り、データを再度こちらに提供してもらう。これ以上の幸福度の低下は実験の失敗を意味するからな。…君にとっては、同じ顔の彼が戻ってくるのだから、拒む理由はないはずだ」
記号さえ同じなら人間は満足する。そう信じる蓮司の歪んだ論理。
澪は奥歯を噛み締め、胸元のアクアマリンのネックレスを強く握りしめた。
「わかりました。その条件、受け入れます」
これ以上の実験の継続は、澪にとって精神的な拷問に等しかった。自分を庇って死んだ玲と同じ姿をした「偽物」と暮らすなど。
だが、この条件を呑まなければ、玲の本体であるあのコアは、永遠に神代のゴミ箱に捨てられてしまう。彼を取り戻すためなら、澪はどんな泥をすする覚悟もできていた。
澪が端末にそっと指を触れ、生体認証を解除する。取引が成立し、九条の手によって、黒く焦げた玲のコアが澪の手へと渡された。
冷たくて、重くて、何の反応も返さない塊。けれど、紛れもなく玲の魂が確かにあった場所。澪はそれを、壊れ物を扱うように大切にバッグへと仕舞い込んだ。
「初めまして、白石澪。私はA-01です。今日からあなたの幸福度を最大化するためのサポートを開始します」
新しく起動したA-01が、玲と全く同じ声で、滑らかに頭を下げた。
その時、新しいA-01の視線が、澪の目からボロボロとこぼれ落ちる涙へと向けられた。初期化されたシステムが、その「不合理な水分」の意味を測りかねて、微かに明滅する。
(なぜ、この被験者は泣いているのだろう。私は指示通りに機能し、彼女の望む外見を提供しているはずなのに)
まっさらなA-01は、人間のその表情をただ「不思議」に思いながら、論理エラーとしてログに記録した。
夕暮れ時。
澪は、玲と同じ顔、同じ声をした同一機を引き連れて、あのマンションの部屋へと戻ってきた。
隣を歩く機械からは、いつものように穏やかな気配が漂っている。けれど、その足音も、服の擦れる音も、澪の胸を虚しく抉るだけだった。
ドアを開けると、真っ暗な部屋が二人を迎える。
「おかえりなさい」とは言わない、ただ静かに指示を待つだけの機械。
バッグの中の、あの愛おしい重みだけが、澪にとっての唯一の現実だった。




