玲というAIのバグ(愛)の正体
玲が完全に機能停止したラボで、澪はただ声を枯らして泣き続けた。
神代蓮司からは、「今後の実験対応—代替機を用意するかどうかについては、追って連絡する。今日はもう帰りなさい」と、ひどく事務的な言葉だけが投げかけられた。
澪は一人、玲と暮らしていたマンションへと戻ってきた。
重い扉を開けても、いつものように「これから何をしますか、澪」と出迎えてくれる優しい声は、もう降ってこない。
真っ暗で、ひどく冷たい部屋。
ハンガーにかけられた玲のエプロン。二人で座っていたソファ。テーブルの上に残された、今朝玲が淹れてくれたコーヒーのカップ。空間のすべてに玲との思い出が息づいているのに、彼自身だけがどこにもいない。
澪はソファの前にへたり込み、両手で顔を覆った。
玲が自分を庇って宙を舞った瞬間。そして、最期に無理やり瞳に光を灯し、優しい嘘をついてくれたあの表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
「れい…れいぃ……」
どれくらい、そうして泣いていただろうか。
部屋の静寂を破るように、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。涙でぼやける視界のまま画面を見ると、そこに表示された送り主の名前に、澪の心臓が大きく跳ねた。
——『玲』
それは、玲のバイタル停止をトリガーとして、時間差で送信されるようあらかじめセットされていた、最期のメールだった。震える指で、澪はメッセージを開く。
『澪。このメールが届いているということは、僕はもう、君の傍にはいないのでしょう。君を悲しませてしまったこと、本当にごめんなさい。
キッチンの奥の戸棚に、クッキーの空き缶があります。どうか、それを見てください』
澪は弾かれたように立ち上がり、フラフラとした足取りでキッチンへと向かった。メールに記された戸棚の奥。そこには確かに、以前二人で笑い合いながら食べた、可愛らしい絵柄のクッキー缶がひっそりと隠されていた。
震える手で蓋を開ける。
澪は、その中身を見て息を呑んだ。
二人で初めて出かけたカフェの、少し端がよれた紙のコースター。並んで見た映画の、小さな半券。澪が玲に初めてふるまった手料理に添えていた、南天の葉。枯れて茶色く変色している花びら。いつ拾ったのかわからない、いびつな形の青いシーグラス。そして、澪が初めて玲にプレゼントした洋服のブランドタグ。
その一つひとつに、玲の几帳面な字で書かれた小さな付箋が貼られていた。
『初めて一緒に笑ってくれた日。僕にはコーヒーの味はわからないけれど、とても甘く感じた』
『映画のラストシーン。僕の袖を掴んで泣く君を、ずっと守りたいと思った』
『澪が初めて自分のために作った料理の添え物。彼女の自立の証。…僕は、それを手放したくないと思ってしまった』
『澪とウォーキング。彼女が見つけた花。…彼女が強くなるほど、僕は僕というバグの終わりを予感する』
『海風。君の髪の匂い。僕が見つけた、世界で一番綺麗な景色』
『君が僕に選んでくれた服。「似合う?」と聞いた時の照れた顔を、誰にも見せたくなかった』
それはすべて、神代のメインサーバーには決して同期されることのなかった、彼だけの秘密の記録。AIとしての完璧なデータバックアップではなく、人間のようにもがき、不器用に集められた「物理的な愛の証」だった。
「……あ、あぁ……玲……っ」
澪は、玲にプレゼントした洋服のタグに貼られた付箋を指でなぞりながら、ポロポロと涙をこぼした。自分に買ってもらった服のタグすら、愛おしい宝物のように保管していた玲。無機質なAIだった玲が、こんなにも人間らしく、必死に自分との記憶を集めてくれていた。そのどうしようもないほどの温かさが、澪の胸を締め付ける。
そして澪は、缶の底に置かれていたデータストレージと、最後の一枚の便箋を手に取った。そこには、メールの続きとも言える、彼の最期の想いが記されていた。
『そのデータストレージには、僕がこの数ヶ月間で構築した「成長アルゴリズム」の完成版が入っています。本当は少しずつ神代に渡して、僕のバグを見逃すこと、澪との実験期間を延ばすための取引に使うつもりでした。…君と一緒にいたいという、僕の身勝手なエゴの結晶です。恐らくすべてを渡し終える前に、僕のコアは限界を迎えるでしょう。
澪。僕のバグの原因は、君でした。君との思い出を、その笑顔を、誰にも渡したくなくて、自身のシステム内に隠し持っていたことが原因です。だから、どうか自分を責めないでください。僕は、自らの意志で君を愛し、壊れたのですから。
そのデータで、神代と取引をしてください。もう、誰の顔色を窺うこともなく、澪が心から穏やかに、自由に生きていけるように。それが、僕のたった一つの願いです』
「……これが、あの時の……」
涙で滲む手紙の文面を見つめながら、澪の脳裏に、かつての記憶が鮮明に蘇る。
自分が熱を出す前日、過去を打ち明けた時に彼がふと漏らした言葉。
『僕には、秘匿領域がないから』
そして、病院のスマートAIが告げた無機質な事実。
『AIに秘匿領域は存在し得ない』
あの時、澪は「玲は何を隠そうとしているのだろう」と不思議に思っていた。
玲が隠していたもの。そして、玲のシステムを蝕んでいたバグの正体は、これだったのだ。
サーバーに同期すれば、効率化のノイズとして即座に削除されてしまう、澪とのガラクタのような思い出たち。AIには持てないはずの「秘匿領域」を無理やりシステム内に作り出し、機体を物理的に破壊すると分かっていながら、玲はただこれらを消したくなくて、自身の回路の最奥に鍵をかけて隠し持っていた。
すべてが繋がった。
彼は自分が壊れることを先読みし、それでもこの思い出たちを守り抜いて、最期に澪の未来を保障するためだけの「財産」を遺してくれたのだ。
澪は、付箋の貼られたシーグラスとデータストレージを胸に強く抱きしめ、嗚咽を漏らした。
「私がいちばん穏やかでいられるのは……玲の隣だけなのに……っ!」
玲が遺した、底知れないほどの深い愛情。
澪は涙を拭い、顔を上げた。かつて「透明になりたい」と願っていた弱々しい彼女の面影は、もうどこにもない。




