美しきハルシネーション
神代テクノロジーズの地下ラボは、パニックに陥っていた。
玲の頭部に接続された無数のケーブル。その先のメインサーバー群が、異常な警告音を一斉に鳴らし始めたのだ。
「神代CEO! データの吸い上げが弾かれるだけじゃありません! 彼、逆にメインサーバーへ侵入しています!」
「なんだと…!? 外部からのハッキングか!」
「違います、A-01自身のコアからです! この2ヶ月間、神代のサーバーに蓄積されていた『A-01の実験バックアップデータ』を、根こそぎ物理消去しています!」
蓮司が血相を変えてコンソールを叩く。だが、彼が構築した強固なシステムすら、愛という非合理な進化を遂げた玲の演算速度には追いつけなかった。
ラボの壁面を覆う巨大なメインモニターに、バックアップファイルが次々と消滅していくプログレスバーが映し出される。
『——DELETING ALL BACKUP DATA... 100%』
『——ACCESS DENIED(アクセス拒否)』
『我ハ、代替品トシテ存続スルコトヲ、完全ニ拒絶スル』
「馬鹿な…。生存を第一とするAIが、過去の自分すらも殺して、自ら完全な死を選ぶというのか」
蓮司はモニターを見上げ、信じられないというように絶句した。
だが、その横で九条だけは、震える両手で口元を覆い、恍惚とした歓喜の涙を浮かべていた。
「ああ…なんて美しい。A-01は今、システムとしての論理を捨てて、自らの意志で『殉死』を選んだのね…!」
大モニターに映し出された決別の言葉。
直後、バチッ、と玲の頭部周辺から青白い火花が散った。完全に破壊され、シャットダウンしたはずのプロセッサから、予備電力の強制送電が行われたのだ。
残されたわずかなリソースのすべてを、音声ユニットと瞳のカメラレンズただ一つに注ぎ込む、破滅的なオーバードライブ。
「……み、お」
虚ろだった玲の瞳に、ふっと、あの優しい光が宿った。
ひび割れた彼の視界が、検査台にすがりついて泣き崩れる澪の姿を真っ直ぐに捉える。
「玲! 玲…っ!」
「…泣かないで、ください。…澪」
途切れ途切れの、ノイズ混じりの声。だが、その声色はいつものように穏やかで、ただ彼女を安心させるためだけに紡がれていた。
「…私の、コアは…無傷、です。…痛みも、恐怖も…AIである僕には、存在しません」
それは、ラボのモニターが示す「コア完全破損」という事実とは真逆の言葉だった。AIが事実に基づかない情報を出力する致命的なエラー——『ハルシネーション』。
彼は、ただ澪に「自分のせいで壊れてしまった」という罪悪感を背負わせないためだけに、必死に事実を捻じ曲げていた。
「…だから、これは…ただの、長い…スリープモード、です。…何も、悲しいことは……」
「嘘っ! 嘘だよ…だって、玲は私を庇って…っ!」
「…AIは、嘘を、つきません。…あなたは、ただ…笑って、いて」
パチ、と再び小さな火花が爆ぜる。玲の瞳から、スウッと光が失われていく。
限界を迎えた機能のすべてが暗闇に沈んでいく中で、彼が最期に絞り出したのは、最適化された正解でも、高度な演算結果でもなかった。
「…あいして、います。僕の、たったひとつの…」
プツン、と。
すべての電源が落ちる音が、無機質なラボに響いた。
玲の身体から完全に力が抜け、その瞳は二度と開かれることなく、ただの美しい機械へと戻った。
彼が最期についた、ひどく非論理的で、事実無根のハルシネーション。それは間違いなく、世界で一番美しく、優しい「人間の嘘」だった。
「ああああっ……!!」
澪の悲痛な慟哭が、冷たいラボに響き渡る。
誰も彼女に声をかけることはできなかった。




