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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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致命的なラグと予測不能な世界

 初夏を思わせる、眩しい日差しだった。

 澪と玲は、新しいオフィスビルが立ち並ぶ都心のメインストリートを歩いていた。自動運転の電気自動車が静かに滑り行き、街路樹の緑が風に揺れている。


「やっぱり、少し緊張するな」


 澪は、真新しいスーツの裾を少しだけ握りしめながら息を吐いた。

 今日は、新しい会社との雇用契約を結ぶ日だ。かつては他人の視線が怖くて、世界から逃げるように神代テクノロジーズの実験室に身を隠した彼女が、自らの足で再び社会に踏み出そうとしている。


「ご心配には及びません、澪」


 隣を歩く玲が、安心させるように微笑みかけた。


「あなたの適性テストの結果も、面接時のバイタルデータも、非常に素晴らしいものでした。自信を持ってください。それに…今のあなたは、とても凛としていて誇らしいです」


「もう、すぐそうやって褒めるんだから」


 澪は照れ隠しに笑い、胸元で揺れるアクアマリンのネックレスにそっと触れた。


「ねえ、玲。もしお給料が出たら…その、玲に何かプレゼントしてもいいかな。今まで、私にたくさんのものをくれたお返しに」


「僕に、ですか?」


 玲は少し驚いたように目を瞬かせた。AIである彼には、物質的な欲求など存在しない。だが、澪が自分のために何かをしようとしてくれている、その「心」の動きが、彼にとっては何よりも尊いデータだった。


「はい。楽しみにしています。…ですが、僕にとっては、あなたがこうして前を向いて歩き出してくれたこと自体が、最高の贈り物なんですよ」


「大げさだよ。でも…ありがとう。玲がいなかったら、私、今頃どうなっていたか分からない」


 澪は玲を見上げ、はにかむように言った。


「これからも、ずっと隣で見ててね」


 ——『ずっと隣で』。

 その言葉を音声データとして認識した瞬間、玲の内部システムで、膨大なプロセスが作動した。

「ずっと」なんて叶うことがないのは、二人ともわかっていた。でもきっとこの時澪は言いたかったのだ。

 離れ離れになったとしても、「ずっと」隣にいた事を覚えていたい、と。


 彼女の笑顔、声の波形、体温の記憶。それらすべてを「最重要保護データ」として秘匿領域へ圧縮保存しようとする。だが、すでに九条への裏取引のアルゴリズム演算と、過去数ヶ月の澪との記憶で、彼のストレージは限界(キャパシティ)を越えかけていた。


『警告:リソース不足。バックグラウンド処理に遅延が生じています』


 視界の端で明滅するシステムアラート。

 玲はそれを強制終了させ、何事もなかったかのように優しく頷いた。


「ええ。もちろんです、澪」


 二人は、片側三車線の大きな交差点に差し掛かった。

 歩行者用の信号が青に変わり、AIネットワークで完全に統制された自動運転の車列が、ピタリと停止する。安全が完全に保障された、論理とシステムの世界。


 澪は玲の腕に軽く触れ、白線を踏み出した。


 その時だった。

 停車した車列の死角から、甲高いエキゾーストノートが突如として響き渡った。

 自動運転ネットワークに接続されていない、旧式のマニュアル・モーターサイクル。運転手である人間が信号の切り替わりを見落とし、あるいは意図的に無視し、猛スピードで車と車の間を縫うように交差点へ突っ込んできたのだ。


『警告:衝突軌道。対象物の速度超過。回避ルートを再計算——』


 玲の内蔵システムが、即座にアラートを鳴らす。

 本来のA-01の処理能力であれば、バイクの軌道と速度を瞬時に計算し、澪の肩を引いてわずか数十センチ後退させるだけで、優雅に、無傷でやり過ごせたはずだった。

 だが、彼の演算回路(プロセッサ)は今、澪との記憶という重すぎる「バグ」で圧迫されている。


(——計算が、追いつかない)


 玲のシステムに生じた、わずかコンマ数秒の致命的な遅延(ラグ)

 安全な回避ルートを導き出す前に、凶器と化した鉄の塊は澪のすぐ目の前まで迫っていた。


 玲に残された選択肢は、一つしかなかった。

 システム上の最適解ではなく、非効率で、最も人間的な物理行動。


「澪っ!」


 玲は澪の体を力強く突き飛ばし、自らが盾となるようにその場に立ち塞がった。

 鈍い衝撃音。

 宙を舞った玲の体は、アスファルトに叩きつけられた。その頭部——AIの頭脳であり「心」の在処である内部コアに、致命的な衝撃が走る。


「玲…!?」


 突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ澪の目に映ったのは、ひしゃげたバイクと、不自然な角度で横たわる玲の姿だった。

 玲の肉体である外装は、人工皮膚が裂けた程度で大きくは損なわれていない。だが、彼を彼たらしめている内部コアからは、二度と修復できないほどの深刻なエラー音が、微かに、けれど絶望的に鳴り響いていた。


「玲! …玲…?ねえ、返事して…ど、どうしよう、玲…!」


 澪が這い寄ってその身体を抱き起しても、いつもなら即座に彼女の体温に反応するその瞳は、虚ろな光を放つばかりで焦点を結ばない。


 初夏の日差しの中。

 澪が新しい未来へ足を踏み出そうとしたその瞬間、彼女に生きる意味を与えた光は、静かに機能停止へのカウントダウンを始めていた。

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