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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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目覚めの沈黙

翌朝、澪は窓から差し込む光の筋で目を覚ました。

いつもなら、覚醒と同時に「今日という一日をどうやり過ごすか」という重苦しいプレッシャーが胸を支配する。しかし、この部屋には自分を品定めする鏡も、他人の期待も存在しない。


寝室のドアを開けると、リビングの空気はすでに完璧な温度に整えられていた。

ソファの傍らに、昨日と寸分違わぬ姿勢でA-01が立っている。


「おはようございます、白石様。昨夜の睡眠効率は88%。非常に良好な休息が取れたと推測されます」


「…おはよう、A-01。朝からそんな風に数値で言われると、なんだか健康診断の結果待ちみたいだね」


澪は苦笑しながら洗面所に向かい顔を洗う。隣にはタオルを持ったA-01が既に待機していた。

「歯を磨かれますか?」

「…うん、お願い」


差し出されたタオルと歯ブラシを受け取り、澪は顔を拭うと作業的に口を動かし始めた。

鏡を隠したこの洗面所は、まるで真っ白な箱の中にいるみたいに静かだ。

隣に立つA-01は、彼女が磨き終えるタイミングを完璧に測るように、ただ静止している。


ふと、澪の口元から泡がひとしずく、顎を伝って零れそうになった。

自分で拭おうとした瞬間、それよりも速く、柔らかなタオルの質感が肌に触れる。


「あ…ありがと」


「いえ。常にあなたの清潔を保つのが、私の『設定』ですから」


A-01は淡々と答える。

以前ホテルの受付で働いていた時は、わざとらしく距離を詰めてくる男たちの気配に、いつも背筋が凍るような思いをしていた。相手の体温や、下卑た視線の意図を感じ取ってしまうのが怖くて、鏡の前で何度もメイクを確認しては、自分という武装を固めていた。


でも、隣にいるこの機械にはそれがない。

 彼は澪を「女」として見ているわけでも、その美貌を「利用」しようとしているわけでもない。ただ、零れた泡を拭い、タオルを差し出す。その動作には、一点の曇りもない。


「…ねえ、A-01。あなたって、本当に私の変化を全部見てるんだね」


「はい。毛穴の開き、血色の変化、筋肉の微細な収縮。すべてをリアルタイムでスキャンしています」


「普通の人にそんなこと言われたら、最悪のストーカーだけど。あなただと、なんだか『お医者さん』みたいで安心しちゃうから不思議」


澪は口をゆすぎ、彼から受け取った新しいタオルで顔を覆った。

 ふかふかのタオルの奥で、小さく息を吐く。


「白石様。あなたの心拍数が、先ほどよりさらに低下しました。今の環境は、あなたの深層心理に非常に適しているようです」


「そう。…そうかもね」


タオルを外した澪の顔は、まだ少しだけ濡れていた。

A-01はそれを見て、迷いのない動きで彼女の頬に残った雫を、指先でそっと拭った。


人工皮膚の指先は、人の指よりわずかに滑らかで、熱を持たない。

澪はその時、この「完璧な機能」の中に、名前のない安らぎを感じ始めていた。


「さあ、リビングへ。本日の朝食は、あなたが昨夜の睡眠中に消費したカロリーを補填するメニューを用意しています」


「…ふふ、了解。栄養管理士さん」


澪は苦笑を深めて、彼より先に洗面所を出た。

その背中を、A-01の硝子の瞳が無機質に、けれどどこか執拗なまでに追っていることには、まだ気づかずに。


キッチンへ向かうと、そこにはすでに湯気を立てるコーヒーと、トースト、そして数種類の果物が並んでいた。


「白石様、本日の予定を確認しますか?」


「予定なんて、何もないじゃない」


澪は椅子に座り、コーヒーを口に含んだ。

ふと視線を上げると、A-01がじっとこちらを見つめていることに気づいた。

その瞳には、表情がない。ただレンズが光を捉えるように、静かに彼女を記録している。


「…ねえ、A-01。あなた、ずっとそこに立っているだけなの? 何か別のこととか、したくならないの?」


「『したくなる』という欲求は、私にはプログラムされていません。私はあなたの必要に応じて機能します。もしあなたが望むなら、音楽を流すことも、本を朗読することも、チェスの相手をすることも可能です」


「じゃあ、何か音楽をかけて。今の、この静かな感じを壊さないような曲を」


次の瞬間、部屋の壁全体から、繊細なピアノの旋律が流れ出した。

それは雨上がりの朝を思わせるような、静謐で透明な曲だった。澪は思わず、持っていたフォークを止めて聞き入った。


「これ、なんていう曲?」


「エリック・サティの『ジムノペディ第一番』です。あなたの脈拍と、今の室内の照度から、この曲が最も適していると判断しました」


澪は、初めてA-01の顔を真正面から見た。

朝の光を浴びたその横顔は、あまりにも完成されていた。整いすぎた鼻梁、長い睫毛、透き通るような白い肌。もし彼が人間として街を歩けば、注目の的になるだろう。


けれど、彼自身は、その完璧な容姿に何の価値も感じていない。

自分が「美しい」ことさえ、ただの記号として処理している。


「あなた、鏡を見たことはある?」


澪の問いに、A-01は少しだけ首を傾げた。


「自己の外観を確認するための反射行動は、メンテナンス時に行います。ですが、私にとって自分の外見は、機能維持のためのチェック項目の一つに過ぎません。不快ですか?」


「ううん。…羨ましい、と思っただけ」


澪は、窓の外を眺めた。

自分という存在が、ただの「機能」として扱われることが、これほどまでに平穏だとは知らなかった。


その時、部屋のチャイムが鳴った。

澪の身体が、ビクッと強張る。退職してからというもの、予期せぬ訪問者は恐怖の対象でしかなかった。


「私が出るわ。A-01、あなたは下がっていて」

「いいえ。契約に基づき、外部との接触は私が一度フィルタリングします」


A-01は流れるような動きで玄関へと向かった。

ドアのモニターに映し出されたのは、神代テクノロジーズのロゴが入ったスーツを着た女性――九条だった。


「白石様、お邪魔します。システムチェックと、初期ヒアリングのために伺いました」


九条は、部屋に入るなり、澪ではなくA-01の状態を鋭い視線で確認した。

彼女の瞳には、澪への興味はほとんどない。彼女が見ているのは、澪という被験者に対する、A-01の「反応」だけだった。


「A-01、ログを転送して。…白石様、体調はいかがですか?」


「ええ、問題ありません」


九条は、手元のタブレットを操作しながら、フッと口角を上げた。


「それは良かった」

九条は、そのままリビングの隅々をチェックし、最後にA-01の視覚ユニットを覗き込んだ。


「…A-01。少し、演算の密度が上がっているわね。被験者の何を、そんなに熱心に計算しているの?」


九条の問いに、A-01は淀みなく答えた。


「対象の『不快』を排除するための、環境最適化です」


「…そう。なら、いいけれど」


九条は意味深な視線を澪に投げ、嵐のように去っていった。


「白石様。血圧がわずかに上昇しています。気分転換に、ベランダへ出て外の空気を吸うことを提案します」


A-01が、静かに澪の傍らへ歩み寄った。

差し出されたその手は、冷たくて、けれど今の澪にとってはどんな温もりよりも誠実だった。

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