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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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キッチンからけれど小気味よい包丁の音が響いてきた。

澪はソファに身を預け、その音をじっと聞き入っていた。それはメトロノームのように正確で、一切の迷いがない、機械的な、けれど「誰かのために用意されている」音だった。


やがて、テーブルの上に静かに皿が置かれた。

湯気が立ち上るコンソメスープと、色鮮やかなサラダ、そして丁寧に焼かれた鶏肉のコンフィ。


「白石様の現在のバイタルデータに基づき、消化に良く、かつセロトニンの生成を助ける食材を選定しました。…お口に合うかは分かりませんが、摂取を推奨します」


A-01は、テーブルの傍らで直立したまま告げた。

澪は恐る恐るスプーンを取り、スープを口に運んだ。

 

「…美味しい」


思わず、本音が漏れた。

誰かに作ってもらった料理はいつ振りだろう。自分の「今」の状態に合わせて作られたその味は、驚くほど優しい味がした。


「味覚データのフィードバックを確認。以後、この味付けをベースに調整を続けます」


A-01の返答はどこまでも無機質だ。

けれど、澪はその無機質さに救われていた。もしこれが人間だったら、「美味しいでしょ?」「もっと食べて」という言葉の裏に、何らかの対価や承認を求めてくるはずだ。

この機械は、ただ淡々と澪の生存を維持するためだけにそこにいる。


「…ねえ、A-01」


「はい、白石様」


「あなたには、疲れたとか、飽きたとか、そういう感覚はないの?」


A-01は、電子の瞳をゆっくりと瞬かせた。


「私には疲労を感じる受容体は存在しません。電力の供給が続く限り、私の機能は維持されます。また、『飽きる』という概念もありません。同一のルーチンを繰り返すことは、私にとって最も安定した効率的な状態です」


「そう…」


澪は、小さく笑った。

自分とは正反対だ、と思った。自分は毎日同じ微笑みを繰り返し、同じ視線に晒されることで、心という電力を磨り減らしてきたのだから。


食事を終え、寝室へ向かおうとした澪は、ふと足を止めた。

ふり返ると、A-01はまだリビングの片隅に、置物のように立っていた。


「…寝ないの?」


「私はスリープモードで待機しますが、意識が途絶えることはありません。緊急時には即座に対応可能です。白石様、おやすみなさい」


澪は、その無機質な背中に、初めて「奇妙な親しみ」のようなものを感じた。

この広いマンションに、自分を害さず、自分を評価せず、ただ自分の安全を監視しているだけの「箱」がいる。


その夜、澪は数ヶ月ぶりに、一度も目を覚ますことなく深い眠りについた。

自分を映す鏡がどこにもない、真っ暗な、けれど安全な檻の中で。



静まり返ったリビング。

A-01は、スリープモードの暗闇の中で、一日の全ログを整理していた。


【被験者:白石澪。就寝確認。呼吸数、正常。アルファ波の検出を確認】


彼の論理回路は、澪が残した「美味しい」という言葉の音響データを解析していた。

それは、過去のデータベースにあるどの「礼儀的な賞賛」とも一致しない波形を持っていた。

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