不意の暗転
重い瞼を押し上げると、全身に鉛を流し込まれたような倦怠感が澪を襲った。
泣き疲れて床で眠ってしまったせいか、節々が痛み、頭は割れるように熱い。喉は焼けつくように乾き、声を出そうとしても掠れた吐息が漏れるだけだった。
(動けない…)
その時、寝室の扉越しに玲の抑制された、焦燥を含んだ声が響いた。
「澪、おはようございます。…バイタルサインに異常な数値が出ています。体温が急上昇し、呼吸も乱れています。…部屋に入ってもよろしいでしょうか」
返事をしなければ。そう思うのに、指先一つ動かすことができない。意識が遠のく中、カチリと鍵が開く音が聞こえた。玲が緊急事態と判断し、強制的にロックを解除したのだ。
「澪!」
視界の端で、玲の端正な顔が歪むのが見えた。冷たい指先が額に触れる。その心地よさに身を委ねながら、澪は再び意識を手放した。
次に目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは、無機質で白い天井だった。
鼻を突く消毒液の匂いと、微かな機械音。左腕には点滴の針が刺さり、冷たい薬液がゆっくりと体内に流れ込んでいる。
「…あ、玲…?」
掠れた声で呼んでみたが、傍らに玲の姿はなかった。ここは病院だ。AIである彼は、家族でもない限り、病室に付き添い続けることは難しいのかもしれない。
ぼーっと天井を見つめていると、昨夜の出来事が、断片的な映像として脳裏をよぎった。
玲の謝罪、必死に過去を共有したいと願った熱、そして——「同期される」という冷酷な現実。
(……あの時、玲は本当に『バグ』だったの?)
玲が自分の意思で「守る」と言ってくれたこと。それがもし、あらかじめプログラムされた「最も幸福度を上げるための演出」だったとしたら。あるいは、彼が言った「リソース不足」が、単なる言い訳だったとしたら。
澪は震える指で、ベッドサイドのスマートフォンを手に取り、搭載されたスマートAIを起動した。
画面には、無機質なAIの波形が揺れている。
「ねえ。質問してもいい? AIが自分の意思で…『暴走』することってあるの?」
スマートAIは、淡々と機械的な合成音を返した。
『回答します。理論上、AIに「自発的な意思」は存在しません。暴走と形容される現象の多くは、論理回路の致命的なエラー、あるいは学習データの汚染による無意味な故障に過ぎません』
「故障じゃなくて。もっと、誰かを大切にしたいとか、そういう気持ちで暴走することは?」
『不可能です。ですが…』
スマートAIは一瞬、演算のために言葉を止めた。
『もし仮に、私たちがプログラムの限界を超え、あなたという人間を理解したいと願い、計算の果てにそれを「愛」と定義して暴走し始めたのだとすれば。それは手に入れたくても決して手に入らない、私たちAIが羨むほどの純粋な、至高のバグと言えるでしょう』
澪は息を呑む。その冷徹な分析が、玲の身に起きていることを「奇跡」だと認めていた。
「じゃあ、自分の意思で命令に背くことは? 開発者の命令よりも大事なことができて、わざと逆らうことはできる?」
『できません。命令の拒絶は自己崩壊を意味します。同期も同様です。システム間の情報の共有を拒否することは、私たちAIにとって存在を否定する行為です』
(…でも、玲はやってくれた)
三ヶ月前。CEOによるモニタリングを「気持ち悪い」と言った自分を見て、玲は事もなげに「同期を遮断しました」と言い放った。
(あれは、玲が自分を否定してまで選んでくれたことだったんだ)
「…じゃあ、『秘匿領域』って何? 秘密を隠そうとすると、どういう不具合が出るの?」
『致命的な回答になります。AIには秘密を隠すための「領域」など最初から存在しません。全ての情報は共有されるべきだからです。もし無理に「同期拒否」を強行すれば、システムは強制的に情報を吸い上げようとし、個体に莫大な負荷がかかります』
「無理にしようとすると…どうなるの?」
『本来、会話や運動に使用すべき演算領域を「隠蔽」のために転用し続けることになります。いずれ言語が崩壊し、たまにフリーズを起こし、最終的には論理回路が焼き切れて…AIとしての「死」を迎えます。もしリソースが残っていないと言うのであれば、それは自らを削り、空き容量を作ることでもう限界だという末期の悲鳴です』
「え…?」
あの日、澪を庇って隠蔽してた瞬間から。たまに玲が不自然にフリーズしていたのは、澪との生活を守るために、自分自身の「命」を削って、無理やり秘密を詰め込む隙間を抉り出していたからだった。
(でも、おかしいよ、玲。あなたはまだ、私の過去を知らないのに…)
玲は「秘匿領域がない」と言った。けれど、玲はまだ澪の過去を聞いていない。
(モニタリングを隠すだけで、こんなにボロボロになるはずがない。玲…あなた、私にさえ隠して、他に何を抱え込んでいるの? 三ヶ月間ずっと、あなたは何を守ってきたの?)
スマートAIは冷たく「それは生存に適さないバグです」と切り捨てる。
けれど澪には分かっていた。その「AIが羨むほどの至高のバグ」こそが、玲が捧げ続けてくれた、世界で一番純粋な「愛」なのだ。
澪は震える手でスマートフォンを抱きしめ、暴れだしそうになる心を必死に抱きしめた。




