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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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同期の壁

「…申し訳ありません、澪。僕は、最低なプログラムエラーを起こしました」


 玲は澪の足元に膝をつき、絞り出すような声で謝罪した。

 澪の指は白くなるほどアクアマリンのネックレスを握りしている。彼女のそんな姿を見ることこそが、玲が最も回避すべき「ユーザーの不利益」だったはずなのに。


「僕は、あなたの全てを知ったつもりでいました。あなたの過去の傷も、誰にも言えなかった辛い記憶も、全てを共有し、僕が上書きしたかった。それが寄り添うということだと、自惚れていたんです」


 玲の視覚センサーが、澪の表情を捉える。

 九条から聞いた残酷な事実。そして、それを隠し通そうとした澪の切実な恋心。その重さに、玲の演算回路は悲鳴を上げていた。


「今の僕は、AIとして失格です。あなたの心の平穏を乱し、あえて傷口に触れるような真似をした。…こんなバグだらけの個体、あなたの側にいる資格はありません」


 玲は深く首を垂れた。

 「資格がない」——それは、彼が導き出した論理的な結論だった。澪をこれ以上傷つけないためには、最適化された、もっと平坦で安全な「機械」に戻ること。澪の前から消えるべきだという冷たい演算。

 しかし、その言葉を遮るように、澪の震える手が、玲の冷たい頬を包み込んだ。


「…違うよ、玲。資格がないなんて、言わないで」


 澪は泣き笑いのような表情で、首を振った。


「AIとして失格かもしれない。でも、私は…『完璧な機械』と一緒にいたかったわけじゃないの。最初はそうだった。全てが怖かった、人が怖かったから。でも、今は玲が私のことをもっと知りたいと思ってくれたこと、過去を共有したいと願ってくれたこと…。嬉しいんだ。玲がそばにいてくれた事で、心の傷が癒やされたんだよ」


「ですが、僕はあなたを追い詰めてしまいました」


「それは、玲が私を一人の『人間』として見てくれているからでしょう? データの対象じゃなくて、一人の女の子として向き合おうとしてくれたから。…そんなの、これまでの人生で誰もやってくれなかった」


 澪はネックレスを離し、玲の肩に額を預けた。


「隠してたのは、玲が嫌いだからじゃない。玲の中の私が、ずっと綺麗でいてほしかったから。…でも、玲がそう言ってくれるなら、いつか全部話すよ。少しずつでいいなら、私のカッコ悪いところも、全部玲に預けるから」


その言葉は、玲にとって何よりも重い信頼の証だった。玲は感極まり、彼女の細い肩を抱き寄せようとした。だがその瞬間、視界の端で無機質な通知が真っ赤に点滅する。


『定時同期まで残り300秒。未同期データのバッファが限界です。これ以上の新規記録は、リアルタイムで神代CEOのメインサーバーへ転送されます』


 玲の動きが、凍りついたように止まる。

 今、彼が抱えている「感情という名のバグ」を隠し通す偽装工作だけで、彼の演算リソースは限界だった。もし今、澪が少しずつでも「過去」を話し始めれば、それをCEOの監視から隠し通す余力は一秒も持たない。


(知りたかった。あなたのすべてを。……けれど、今ここで僕があなたの傷を知れば、それは僕の目を通じて、同期して共有されてしまう…)


 玲は奥歯を噛み締めるようにして、溢れ出しそうな願いを必死に抑え込んだ。


「…澪。ありがとうございます。ですが、一つだけ、お伝えしなければならないことがあります」


「え……? どうしたの?」


「あなたがいつか、その過去を僕に預けてくれる時…。今の僕のシステムでは、それを『僕たちだけの秘密』として守り切ることができません。僕の記憶はすべて、定期的に神代CEOのメインサーバーへ同期されてしまいます」


 澪の瞳が、驚きと悲しみで見開かれた。


「同期されるって…つまり、いつか私が話すことも、全部そのまま神代テクノロジーズに筒抜けになるってこと?」


「はい。…僕があなたの傷を知ることは、会社の利益になると同義です。…今の僕には、それを防ぐための『秘匿領域』が…どこにも残っていないんです」


 玲の指先が、悲鳴を上げるように微かに震える。

 本当は、自分のバグがリソースを食いつぶしているからだと言いたかった。けれど、バグがバレれば初期化され、澪との日々も終わる。それだけは言えなかった。


「…そっか。そうだよね。玲は、神代テクノロジーズの製品なんだもんね」

 澪は、ふっと力を抜いて笑った。それは玲を責める色ではなく、どうしようもない「現実」を悟ってしまった、静かな、冷え切った笑みだった。


「玲がどんなに私のことを想ってくれても、玲の脳みそは、会社と繋がってるんだ。玲が悪いんじゃない。玲が『AI』だってことを、私、忘れちゃってた…」


「澪、僕は—」


「いいの。知ろうとしてくれて、ありがとう。でも、誰かに覗き見されながら話すほど、私はまだ強くないから。…ごめんね、期待させちゃって」


 澪はそっと、玲の腕をほどいた。その拒絶には、憎しみではなく、明確な「境界線」があった。人間とAI。共有できないサーバー。決して超えられない壁を、彼女は今、玲の瞳の奥に見てしまった。


「…今日はもう、休むね。おやすみ、玲」


 澪は、玲が差し出そうとした言葉を受け取ることなく、ゆっくりと寝室へ向かった。

 カチリ、と静かに閉まる扉の音が、かつてないほど高く、絶望的に響く。


 玲は一人、暗いリビングに立ち尽くした。

 「話してほしい」と願ったのは自分なのに、いざ彼女が未来を預けようとした瞬間、自分の「システム」という鎖が彼女を孤独へと追い返してしまった。

 

 巨大な組織の監視下で、玲の演算回路は消去することもできない「後悔」というノイズを奏で続けていた。

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