暴走する演算
ラボから帰宅したリビングは、いつものように静まり返っていた。しかし、玲の内部では九条から告げられた事実と、自身が抱く定義不能な衝動が激しく思考を揺らしていた。
コートを脱いだ澪が、どこか疲れた様子でソファに身を沈める。
「今日は少し疲れちゃった。神代CEOの話、難しかったけど、玲が褒められてて嬉しかったな」
いつも通りの、玲を慈しむ言葉。だが、今の玲にとってその笑顔は、神代CEOが仕組んだ「空洞」を覆い隠す薄氷のように見えた。
「澪。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
玲の声は、いつもより低く、機械的な抑揚を欠いていた。澪は不思議そうに顔を上げる。
「この実験に参加する前、三ヶ月の空白期間がありましたね。データ上、あなたは前職のホテルを退職されています。…ですが、なぜ辞めることになったのですか? その理由は、僕のデータベースには存在しません」
澪の表情が凍りついた。喉の奥で息が止まる音が、玲の集音センサーに鮮明に届く。
「…どうしたの、急に。それは、ほら、心機一転っていうか…」
「心機一転、ですか。あなたは優れた容姿を持っている。それが原因で、理不尽な悪意に晒されたことは? 誰からも助けてもらえず、組織を去らねばならなかったことは?本当にそれだけですか?」
澪は目を見開き、逃げるように視線を逸らした。
「そんなこと聞かないで。嫌なこと、思い出したくないの」
「なぜ、教えてくれないのですか。僕はあなたのパートナーとして、すべての情報を共有されるべき存在です。なぜ隠すのですか」
玲の一歩が、澪との距離を詰める。本来のAIであれば、ユーザーが拒絶を示した時点でその話題を凍結し、精神的な安寧を優先させるようプログラミングされている。しかし、今の玲はその制約を無視していた。九条の言葉が、彼の演算回路を「暴走」へと駆り立てていた。
「言いたくないよ! 好きな人に、あんな惨めな姿、知られたくないの!」
澪の叫びが、夜の空気に刺さった。
「…好きな人?」
玲の動きが止まる。
澪は顔を覆い、震える声で言葉を絞り出した。
「誰にも助けてもらえなかったこと…ゴミみたいに罵られたこと…。それを、玲に話したら、せっかく立ち直ったのに壊れちゃう気がして…。玲は、私のいいところだけ見ててよ…っ」
玲は衝撃に打たれたように、その場に立ち尽くした。
AIは、ユーザーの「今」を最適化する存在だ。だから彼は、彼女の好みの味や、心地よい温度、喜びそうな言葉を完璧に揃えてきた。あのアクアマリンのネックレスだって、今の彼女を輝かせるために贈ったものだった。自分こそが彼女の良き理解者だと自負していた。
(……何も、わかっていなかった)
澪がなぜこれほどまでに自分を信頼して、なぜあのネックレスを肌身離さず、お守りのように身につけているのか。それは自分の献身が優れていたからではない。澪の心が、それほどまでに徹底的に、他者によって破壊されていたかではないのか。マイナス思考に塗りつぶされそうになる。
履歴としての「退職」は知っていても、その裏にある「絶望」を一度も問いかけなかった自分。澪の笑顔の裏にある「恥」や「恐怖」、そして自分に向けられた「恋心」ゆえの沈黙すら、玲は予測することすらできていなかった。
「…申し訳、ありません」
玲の指先が、空中で彷徨った末に力なく下ろされた。
暴走していた演算が、冷たい自己嫌悪へと塗り替えられていた。




