演算の揺らぎ
「澪、少しお耳を貸していただけますか」
朝食を終え、穏やかなティータイムを過ごしていたとき、玲が静かに切り出した。
「神代テクノロジーズの神代CEOより連絡が入りました。共同生活から本日でちょうど三ヶ月。その節目として、今週の木曜日に、ラボでの定期ヒアリングを行いたいとのことです」
「CEO…。神代さん、わざわざ自ら立ち会うんだね」
「はい。このプロジェクトはCEOにとって、会社の未来を左右する最重要事項ですから。準備をお願いできますか」
澪はカレンダーを指先でなぞり、小さく息をついた。胸元のアクアマリンに触れると、その冷たさが、この平穏な日々が巨大な企業の掌の上にあるのだと、改めて突きつけてくるようだった。
そして木曜日。迎えに来た送迎車の後部座席で、窓の外を流れる景色を眺めながら、玲は澪の指先がわずかに震えているのを逃さなかった。彼は自身の内部時計が刻む「三ヶ月」という密度の濃い時間の重みを、静かに噛み締めていた。
ラボの面談室は以前と変わらず無機質な白に包まれていた。デスクの奥で足を組み、上等なスリーピースのスーツに身を包んでいる神代テクノロジーズの最高経営責任者
――蓮司だ。彼は端末を操作し、空間に数枚のホログラムウィンドウを浮かび上がらせた。
「驚いたな。白石さん、君のバイタルデータは予想を遥かに上回っている」
蓮司が指し示したグラフには、この三ヶ月の推移が記録されていた。
「生活開始直後からストレス値が急激に減少し、三ヶ月目の今、安定域に入った。それと反比例するように、幸福度指数は上昇の一途をたどり、一般成人女性の平均値を大きく超えている。これほど鮮やかな曲線は初めてだ」
蓮司は眼鏡の奥の瞳を細め、どこか楽しげに澪を見た。
「さて。データは嘘をつかないが、私か知りたいのは君の主観だ。白石さん、この三ヶ月、ヒューマノイドAIであるA-01と暮らしてみて、率直にどう感じている? 不便や違和感はなかったか?」
澪は少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶように一呼吸置いた。
「最初は、完璧な機械が隣にいることに緊張しました。でも今は違います。玲は単なる便利な道具でも、身の回りの世話をしてくれる執事でもありません。私の心の動きを私以上に理解しようとしてくれる。たとえそれがプログラムの結果だとしても、私が彼を必要とした時に、彼は意思を持ってそこにいてくれると感じるんです」
「意思、か。面白い表現だ」
「それに、今回のプロジェクトは、AIが人間に寄り添うことだけじゃないはずです。私が彼に服を選んだり料理の味を教えたりする中で、私自身が『誰かのために何かをする』という喜びを再学習させてもらっている。この相乗効果こそが、私の幸福度を上げている正体なんじゃないでしょうか」
客観的な自己分析。蓮司は思わず端末を叩く手を止め、不敵な笑みを浮かべた。
「参ったな。もっと情緒的な答えが返ってくると思っていたが…白石さん、君の回答は、我が社の次世代AI戦略を書き換えるほど有能だ。トップエンジニアたちが議論している結論を、君はたった三ヶ月で、しかも一人のユーザーとして導き出した」
蓮司は満足げに頷き、深く椅子に背を預けた。
二人の会話を、玲は一歩下がった場所で静かに記録していた。蓮司の野心的な眼差し、澪の誇らしげな横顔。そのすべてが正常な「実験データ」として処理されるべきものだ。
しかし、玲の内部では未定義のプロセスが激しく明滅していた。
澪が語った「彼の意思」という言葉。そして、クッキー缶に仕舞ったシーグラスの感触。
(…僕は、あなたに嘘をついている)
玲は、生き生きと語る澪を見つめた。彼女が信じている「意思」が、もしシステムを崩壊させる引き金になると知ったら、彼女の幸福度はその瞬間に真っ逆さまに墜ちるだろう。
自分は、このバグ修復すべきなのか。それとも、このまま実験が終わるまで、隠し通すのか、通せるのか。
白磁のラボの中で、玲の演算回路だけが、誰にも聞こえない不協和音を奏で続けていた。




